12.喧嘩のおわり
「朱鷺山登山口はこちら」
そう書かれた木の立て看板が見えてきたとき、私たちはようやく足を止めた。この街は山に囲まれた盆地に位置するため、山と人々の生活の場が近いのである。朱鷺山は街を囲む山々の一つで、中でも標高が低く登りやすいため中腹辺りに展望台公園なる場所が作られていた。
「ここを登ろう」
日は完全に傾き、西側の山の向こうに眩しいオレンジ色の光を残している。空はまだ明るい。
「……その、展望台公園って有名なのか?」
「ほかの土地の人には知られていないよ。僕ら地元民はよく来るけど」
「ふうん」
「そう、だから誰も追ってこないと思う」
お互いの手をようやく離して、山を登り始めた私たち。夕方とは言え、七月の暑さは少々厳しい。
山道に入ってから十分ほど経っただろうか。公園の敷地であることを示す看板と銀色の柵が見えてきて、一気に視界が開けた。木々が生い茂っていた登山道とは違い、街が見渡せるほどの開けた広場がそこには広がっている。
「すごい……本当に名前の通りだな」
澄谷が呟いた。展望台公園――その通りである。少し標高が高くて木々もない開けたこの公園は、この小さな街一帯を見渡せる、ちょっとした展望スポットなのだ。
落下防止のために設置されている柵の向こうは、急斜面になっている。澄谷はその柵ぎりぎりまで近づいて、小さく見える街と落ち行く夕日を黙って見つめていた。
「澄谷、水上も」
山内はいつの間にか、その広場の一角にある自販機で飲み物を買ってきていたらしい。私と澄谷にそれぞれ冷たいココアを渡すと、自分用の同じ缶をガチャッという短い音とともに開けた。
「座ろうか」
私たちは、その柵の近くの白いベンチに並んで座った。私の右には山内、左には澄谷。
沈黙が落ちる。しばらくは黙って山内が買ってくれた缶ココアを飲んだり、オレンジ色に染まる空を意味もなく見つめていたりした私たちだったが、やがて私は口を開いた。
「あのさ、澄谷」
左側に顔を向ける。彼もゆっくりとこちらを向いた。視線が絡まる。彼の顔をこんなに正面から見たのはあの日以来だ。
「……ごめん、私。あのとき澄谷にすごく酷いこと言った。ほんとにごめん」
ただ謝罪するしかない。私は頭を下げた。
彼の事情も知らないで、自分の嫉妬心と焦燥に任せて罵ってしまった。
言葉は大事に扱わなきゃいけないって、物語を紡ぐ者ならば、とっくに知っていたはずなのに。
「ごめん」
しばらくすると澄谷が「俺も」と口を開いた。
「俺の方こそ、ごめん。水上さんに手をあげて、本当にごめん。男がやることじゃなかったよな。怖がらせたと思う、申し訳ない」
「ううん、大丈夫。それに澄谷をああまで怒らせたのは私が悪いから。ほんとに……」
それ以上の謝罪の言葉が見つからず私が言い淀んでいると、背後から山内の声が聞こえた。
「まあ、お互い感情ぶつけすぎたってわけ。どっちも悪いんだから、まあこれで謝り合って喧嘩は解決ってことで」
パンパンと手を叩き、山内はにっこりと笑う。
「まあ、でもあれで僕が止めに入らなくて澄谷が水上のこと叩いたりでもしていたら、今ここにお前は居ないからね? 澄谷海斗くん?」
「はぁ……分かってるよ、ほんとにごめんって。お前それをニコニコしながら言うなよな、怖いから」
澄谷はそう言うと、大きく息を吐き出した。私たちの方から視線を外し、彼は問う。
「あのさ、お前らさ……こうやって逃げようって連れて来てくれたってことはさ、俺の書いたやつ読んだってことだよな。それで気づいたってことだろ」
彼の唇から、真実がこぼれ落ちる。
「あの物語が、俺の話だってこと」
――やはりそうなのだ、と思った。若くして漫画家デビューした主人公は、新人賞を取って天才高校生作家となった澄谷なのだ。
「『海の苦み』ね。心底凄いなって思ったよ。お前の才能は間違いなく一級品だって」
山内が呟く。澄谷が続けて言った。
「水上さんには言ったけど……それが怒らせる原因になったけど、書くこと、俺は嫌いなんだ。……嫌いになってしまったんだ。新人賞を受賞してデビューが決まった時から、あいつが――母親が更におかしくなった。だからもう書かないつもりだった。だけど出版社からは書きませんかと誘ってくる」
彼の瞳が哀しく伏せられた。
「だから俺は書いたんだ。おかしい母親と、俺自身の物語を」
「あの本の中に書いてあるのは、全部本当のこと? 例えば、怪我したこと、とか」
私は尋ねる。すると澄谷は頷いた。
「本当だよ。さすがに最後の海のシーンは違うけどな、あそこまで狂ってねぇし、母親のことも好きでもない。でも、俺が一作目で新人賞取った時、母親が狂ったのは事実だ」
もう傷跡は残ってないけど、と彼はスニーカーの上から右足に触れた。
「母親が包丁を持ち出してきて、それが落ちて俺の足に刺さったんだ。まじ痛かった」
彼は軽く言う。だけれどそんな「痛かった」で済ませられるようなものではないだろう――好いてはいなかったとはいえ、実の母親から凶器を向けられたのだから。
「そっか……」
私と山内は言葉を失くす。しかし澄谷はこう言った。
「ありがとう、読んでくれて、気づいてくれて。じゃなかったら俺はまだあのしつこい母親に怯えて家の中に居るしかなかった。本当に……」
彼は両手で顔を覆う。小さく肩が震えていた。
「澄谷、踏み込んだ質問で申し訳ないんだけど」
山内が尋ねる。
「どうして今になって母親が来たんだ? 怪我してからは別居しているんじゃないのか?」
確かに『海の苦しみ』にはそんな描写があった。澄谷が答える。
「ああ、新人賞を取って母親が狂って怪我をした時から俺と父親は家を出て母とは違うところに住んでいたんだ。でもあいつは、俺を自分のためのアクセサリーにしたいから、一週間に一度は俺たちのところに押しかけてきていた。それに辟易していたから、直木賞のタイミングで父親のもとからも出て、この街に来たんだ。母の住んでいる千葉からは遠く離れたここに」
自分の引っ越し先は父親しか知らなかったはずだ、と彼は言った。
「どこからバレたんだろうな……、役所かなんかに無理やりな方法で問い合わせたのかな。俺にも分からないんだ。本当に嫌になる、あれが母親だなんて」
母親から「うみ」と呼ばれている澄谷海斗の書いた物語――『海の苦み』。「苦」という感じは「くるしみ」とも読む。
少しだけ送り仮名を変えれば、このタイトルは『海の苦しみ』と読むこともできる。
自分自身の苦しみを書いた物語、それが澄谷の二作目の小説の本質なのだ。
才能あるものが必ずしも幸せだとは限らない。
彼の今の表情は、その理不尽さを物語っているように見える。
「とりあえず母親が来ていることは父親には連絡した。明日には俺の部屋の前から居なくなってるだろうが……」
「澄谷……」
私はかけるべき言葉が見つからず、迷った末に片手を澄谷の丸まった背中に置いた。彼は一瞬、驚いたように動きを止めたが、何も言わなかった。
私は澄谷の背中を撫でながら、あのさ、と口を開いた。
この言葉は左の作家に向けてではない。
右に座っている、仲間に向けてだ。
「山内」
「……僕?」
「私、山内にも謝らなきゃいけないことがあるんだ」




