11.夕暮れの逃走
私も、そしておそらく山内も、訊くまでもなく分かっていた。彼女は澄谷の物語に出てくる、美しくて目立ちたがりの歪んでしまった母親――きっとそのモデルになった人だ。つまり澄谷海斗の母である。
返答は、予想通りであった。
「あら、海斗から聞いていないのかしら……? 私は澄谷海斗の母よ。新しいお友達なのよね、海斗をよろしくね」
帽子の下から覗くのは、年を重ねていることは分かるものの、役者顔ともいえるほどの整った顔であった。形の良くきれいな瞳の下に色濃く残るクマ以外、申し分ないくらいに美しい顔立ちをしている。
「お母さまですか。どうも」
山内が軽く会釈をする。
すると澄谷の母親は、ニコリと笑った後、片手をスッと差し出してきた。
「プリント、届けに来てくださったんでしょう? 海斗に渡しておくわ。さあ、私に頂戴」
私は山内にこっそりと告げた。
「さっき、澄谷に締め出されてたよね……たぶん渡したらこの人に澄谷の部屋に入る口実を与えちゃう」
「ああ、わかってる。それはまずいよな」
山内も頷く。彼は眼鏡のフレームに触れながらニコリと笑い、母親に向かって口を開いた。
「あ、でも僕らで渡します。実は先生から預かっている伝言もありまして……僕ら生徒が伝えた方が確実ですし」
「それなら心配に及ばないわ。その伝言も聞かせて、私から海斗に伝えとくわ」
「ですから……」
「どうして? 同級生の母親がそんなに信用できないの?」
女の人が一歩こちらに近づいてくる。私は既に悟っていた――彼女にはこれ以上話しても無駄だと。
そして山内も気づいていたらしい。彼は「じゃあ」と言って鞄の中から一枚のプリントを取り出した。
それは澄谷に渡す用ではなく、山内自身の今日の化学の授業の実験プリントであった。
「お母さん、これ。今度の小テストの範囲がこのプリントなんで、澄谷くんによく勉強するよう言っといてください」
――全くの嘘である。化学の授業に小テストなどないし、伝言があるというのもそもそも山内のハッタリであった。しかし母親は疑うことなくそれを嬉々として受け取る。
「分かったわ。あなたたちはもう帰っていいわよ。海斗には伝えておくわね」
そうしてすぐに母親は、扉を叩いて声を張り上げ始めた。
「海斗! うみ! 出てきなさい、プリントを預かったわよ!」
その様子を見届けてから、山内と私は踵を返した。急いで階段を駆け下り、アパートの裏の方へと回る。二人で作戦会議などはしていないが、やはり文芸部という場で繋がっているだけのことはある。考えていることは一緒のようだった。
ちょうど澄谷の部屋のある所の、真下に来た。そして私は母親のいる表に聞こえない程度の大声で、彼の名を呼んだ。
「澄谷! 裏の窓の方! 聞こえてるなら来て!」
二人して二階の四角い窓を見つめる。やがて、それがゆっくりと開いた。
「……水上さん、それに山内」
彼の顔はだいぶ疲弊しているようだった。
「澄谷」
山内が呼びかける。
「よかったな、このアパートの天井が低くて。逃げるぞ」
「まじかよ、俺に二階から飛び降りろと」
「でもこの高さ、変に怖がらなければいけると思うけど」
確かに女子である私でもこの高さならあまり怖くない、というのもここのあたりの高低差の関係でアパートの一階は半地下のようになっているし、一階当たりの高さもそんなにないのだ。
「このままだと、澄谷お前一生家から出られないぞ。何なら僕が受け止めてあげようか?」
山内が窓の下で大きく両手を広げる。すると澄谷は、しかめていた顔を少し和らげて言った。
「馬鹿野郎。それだとお前も一緒に怪我するかもしれないだろ」
フッと笑って手を下ろし、さっと避ける山内。
「じゃあ待ってろ、靴を取ってくる」
そうして戻ってきた澄谷は窓枠によじ登ると、軽々とこちらへ飛び降りてきた。
「よっ、と」
ストンッ、と綺麗に着地して見せる澄谷。
私はその横顔をじっと見つめる。
あの日以来、こんなに近くで見ることのなかった彼の瞳。
本当は今すぐにでも謝りたかった。
受賞作読んだよって伝えたかった。
――でも、今は。
「澄谷、逃げよう!」
私はパッと澄谷の手を取った。彼の涼しげな目が驚きの色を浮かべる。
「どこに行くんだ?」
私は少し考えてから答えた。
「朱鷺山の展望台公園。山内、わかるよね?」
「もちろん、行こう」
頷いた山内は私のもう片方の手を取った。
「え、私も?」
私が澄谷の手を取ったのは、彼が展望台公園までの道を知らないと思ったからだ。
すると山内はふいとそっぽを向いて一言。
「水上は僕より方向音痴そうだから」
「……は?」
私がその山内の失礼な言葉を理解するころには、もう山内は走り出していた。ぐいんっと手が引っ張られ、私も続けて駆け出す。もちろん澄谷も私の片手に引っ張られ、後ろから付いてくる。
「ちょ、山内。それどういう意味!?」
「山の麓までは走って五分くらいだ。そこから少し登れば着くから、澄谷」
「おい! 山内! 無視しないでよ!」
私が前を走る彼にそう言ったところだった。
「ははっ」
後ろから、小さな笑い声が聞こえてきた。私は一瞬だけ振り向く。
澄谷が笑っていた。
「なんか、おかしい」
おかしい――その通りだ、本当に。
いい年した高校生三人が皆で手を繋いで、夏の夕方の道路を走っているのだから。これをおかしいと言わずしてなんと言う。
「でも、なんか嬉しい」
前を向いては知っていたから分からないけれど、澄谷が確かにそう言った気がした。
だけど何も聞こえなかったふりをして、私たちは朱鷺山を目指す。




