第8章 忘れられた街ノアス
リセルナを出てから十日。
世界は想像よりも広く、そして静かだった。
夜ごとに見上げる星は数え切れず、
草原を渡る風は、どこまでも遠くまで続いていた。
だが――その静けさの中には、
“誰も祈らない”という冷たさがあった。
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「この辺り、一度も“祈り”の気配がしないな」
クロが足を止め、空気を嗅ぐように言った。
リオの胸の光も、ずっと沈黙している。
「まるで、世界そのものが眠ってるみたいだ」
「……ゲルン様が言ってた“祈りを忘れた者たち”の土地かもね」
フィーゼが小さく呟いた。
彼女の声が風に溶け、遠くまで流れていく。
その時だった。
リオの欠片が、淡く光った。
「……光った?」
手の中の欠片が、かすかに震える。
金色の光が一瞬だけ南の方向を指した。
「何かある……行ってみよう!」
三人は草原を駆けた。
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夕暮れ時、丘を越えると、
朽ちた石造りの街が現れた。
塔が崩れ、壁が割れ、
人の気配は一つもない。
だがその中心には、
古い祈祷塔のような建物がぽつんと立っていた。
扉の前で、リオは立ち止まる。
風の中に――微かな声が混じっていた。
『……誰か、いますか』
優しく、それでいて掠れた声。
人の声だった。
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扉を押し開けると、
中には一人の少女がいた。
薄灰色の髪、透けるような肌。
手には古びた書物を抱えている。
彼女は振り向き、驚いたように目を見開いた。
「……人? 本当に?」
「俺たちは旅の者だ。君は……?」
「……ノアスの祈祷師、だった人間」
“だった”――。
その言葉に、リオの胸がざわつく。
「ここは“祈り”を失った街。
誰ももう、祈ることを知らないの」
「祈りを……失った?」
少女は静かに微笑んだ。
「みんな“祈り”を忘れたのよ。
だから、神も光もいなくなった。
残ったのは、ただの“力”だけ。」
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リオは一歩近づいた。
「君は、それでもここに残ってるのか?」
「ええ。
まだ、ここに“祈りの記憶”が眠っている気がして。
誰かが来るのを、ずっと待ってたの」
彼女の瞳の奥に、一瞬だけ光が宿る。
リオの欠片が共鳴し、金の粒がふわりと舞った。
「……やっぱり。あなたの中に、“祈り”がある」
「俺はリオ。
リセルナの……“祈りを継ぐ者”だ」
少女はゆっくりと頷いた。
「私は、リネア。
この街で最後に祈った者――だった人間。」
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その夜、
四人は祈祷塔の中で焚き火を囲んだ。
リネアは古い書物を開き、
“祈り”が“術”に変わった時代のことを語った。
それは、リオにとって信じがたい話だった。
「人々は祈りの意味を失い、
祈る代わりに“命令”を唱えるようになった。
願いではなく、制御の言葉。
――それが、“魔術”の始まり。」
クロが拳を握る。
「つまり、“祈り”を奪って作られたのが、魔術ってわけか」
リネアは黙って頷いた。
「でも、あなたたちがここに来た。
ということは……祈りは、まだ死んでいないのね」
その言葉に、リオの胸の光が強く輝いた。
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翌朝。
祈祷塔の奥で、
古い壁画が見つかった。
それは、無数の人が光を空へ掲げる姿だった。
その中心に立つ一人の影。
リオは、その姿に見覚えがあった。
「……母さん?」
壁画の中の女性は、
確かにリオの母に似ていた。
「この街を創った最初の祈祷師、“アリエナ”。
祈りの道を閉じた者たちの、最初の“継承者”。」
リネアの声が震えた。
「あなたの母さん……その名を継いだ人かもしれない」
リオの胸の光が、まぶしく弾けた。
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その瞬間、祈祷塔が微かに揺れた。
壁画の中央に刻まれた石が、ゆっくりと開く。
中には青白い欠片が眠っていた。
「これが……“忘れられた祈り”」
リネアの声が震える。
リオはそっと手を伸ばし、欠片に触れた。
光が一瞬、青から金に変わる。
『……あなた、なのね』
母の声が、確かに聞こえた。
「母さん……」
『リオ、もう“継いだ”のね。
なら、次の祈りを探しなさい。
“祈りを奪う者たち”が、近づいている。』
光が弾けた。
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外の空。
風がざわめき、地平線の向こうに黒い影が立ち上がった。
「……誰か来る」
クロが弓を構える。
遠くから、無数の足音が響いていた。
フィーゼが震える声で言う。
「まさか、“祈りを奪う者たち”……?」
リオは欠片を握りしめた。
「……逃げない。
これが、最初の“戦い”だ」
胸の光が再び燃え上がる。
金と青の輝きが交錯し、風が渦を巻いた。




