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第3章霧の心臓

第3章 霧の心臓



 その日、霧の色がいつもと違った。


 白ではなく、淡い金に濁っていた。

 谷を渡る風が止まり、木々の葉が音を立てない。

 村の空気が、ひと呼吸ぶんだけ重くなる。


「……なんか、息が詰まるな」


 朝、羊の柵を直していたクロが呟いた。

 彼の視線の先、丘の上の祈祷所の屋根が

 かすかに金色を帯びていた。


「霧に陽が反射してるだけだよ」


 そう言いながら、俺は心の奥がざわつくのを感じていた。

 昨日、ゲルンの前で見た“光”と同じ色だった。

 あの時の熱が、まだ胸の奥に残っている気がする。


「リオくん、パン持ってきたよ」


 穏やかな声が背後からした。

 振り向くと、フィーゼが布のかごを抱えて立っていた。

 彼女の頬に霧の水滴がついている。

 それが朝の光にきらりと光った。


「今日のパン、少し形が悪いけど……味は大丈夫」


「形なんてどうでもいい。うまそうだ」


 クロがひとつ取ってかじる。

 さくり、といい音がして、彼の口元が少しゆるんだ。


「なあ、フィーゼ」


「なに?」


「霧、濃くないか? なんか息苦しい」


「そう? ……たしかに、少し重い気はするね」


 彼女は空を見上げる。

 霧の層が、まるで生き物みたいにうねっていた。

 それを見た瞬間、胸の光がまた強くなった。


『――リオ』


 聞こえた。

 アリアの声。

 昨日よりもはっきりと。


『霧が呼吸している。

 あなたの祈りが、谷の心臓を揺らした』


(心臓……?)


 思考が止まる。

 世界が少し遅れて動くような感覚。


「リオくん?」


 フィーゼの声が現実に引き戻す。

 いつの間にか、俺は両手で胸を押さえていた。


「だ、大丈夫。……ちょっと、胸が熱くて」


「昨日の祈祷のせいかな」


 彼女は心配そうに覗きこんでくる。

 その目に映る自分の顔が、ひどく弱々しく見えた。



 昼前、村の広場では市場が開かれていた。

 木のテーブルに果物や布が並び、

 子どもたちの笑い声が響く。

 だが、空気の底では何かが“うごめいている”ようだった。


 羊が落ち着かず、犬が空を見て唸る。

 風が逆向きに流れる。

 ――そして、祈祷所の鐘が鳴った。


 霧が揺れた。


「……早いな。昼前に鳴らすなんて」


 クロが眉をひそめた。

 鐘は“異変”を知らせる時しか鳴らない。


 広場に緊張が走る。

 村人たちが一斉に祈祷所の方を向いた。


 俺の胸の奥で、光がひときわ強く脈を打った。


『リオ。心臓が動き出したの』


(心臓……って、霧の?)


『ええ。祈りの律が乱れている。

 あなたが触れた“欠片”が、眠りを破ったの』


「俺が……?」


 誰にも聞こえない声で呟いた。

 フィーゼとクロがこちらを振り返る。


「リオくん?」


「ごめん、ちょっと……行ってくる!」


 気づけば走っていた。

 霧の中、祈祷所へ向かって。



 祈祷所の扉を開けると、

 中は金色の光で満たされていた。


 祭壇の上、祈りの欠片が脈動している。

 まるで生きているみたいに光を放ち、

 周囲の空気が震えていた。


「来たか……リオ」


 ゲルンが祭壇の前に立っていた。

 杖の先で床を叩くと、祈りの紋が再び浮かび上がる。


「何が起きてるんですか」


「谷の心臓が動き出した。

 霧を生み出す“祈りの源”だ。

 そして――その中心に、お前が触れた欠片がある」


「俺のせい、ですか?」


「せいではない。因果だ」


 ゲルンの目が真っ直ぐ俺を射抜く。


「お前の母は、この谷を祈りで包んだ最後の祭司だ。

 お前が光を見たのは偶然ではない。

 欠片が、お前を選んだのだ」


 胸が熱くなる。

 痛みじゃない。

 心臓の奥が、誰かの手で包まれたように温かい。


「……母さんは、まだここに?」


「祈りは消えぬ。

 忘れられぬ限り、形を保つ。

 お前がそれを覚えている限り、な」


 ゲルンが手を伸ばす。

 祈りの光が、ふっと弱まった。

 代わりに、俺の胸の奥が強く光る。


『リオ。心臓はあなたを見ている。

 けれど、まだ開けてはいけない』


「アリア……」


『“暁”が訪れるまでは』


 言葉と同時に、祈祷所全体が震えた。

 天井から霧が逆流し、床の紋が金色に染まる。

 ゲルンが杖を強く突いた。


「祈りを鎮めよ――!」


 光が弾け、視界が真白に包まれた。



 気づいたとき、俺は祈祷所の外に倒れていた。

 霧が薄れて、金色の光は消えている。

 代わりに、胸の灯りが小さく脈を打っていた。


「……大丈夫?」


 フィーゼの声。

 すぐそばに座り込んでいる。

 クロが後ろで支えていた。


「見えたんだ、祈祷所の中。

 光が、天井まで届いてた」


「……大丈夫。落ち着いたみたいだ」


 俺はゆっくりと息を整えた。

 世界が、ほんの少し静かに戻ってくる。


「リオくん、怖かった?」


「……少し」


「でも、無事でよかった」


 フィーゼの手が俺の頬に触れる。

 その手の温かさが、胸の光と重なった。


 クロが空を見上げて言う。


「霧、動いてるな」


 空の霧が、谷の外へ向かって流れていた。

 まるで何かに導かれるように。


 その流れを見ながら、アリアの声が静かに響いた。


『心臓は、目覚めた。

 けれど“暁”が訪れる時――この谷は形を変える』


 声はすぐに霧に溶けた。

 残ったのは、胸の鼓動と、二人の温もり。


 俺は小さく息をついた。


「……俺、何かを動かしちゃったのかもな」


 フィーゼがそっと笑った。


「大丈夫。動かしたなら、ちゃんと見届けよう。

 それが、リオくんの強さだよ」


 クロが頷く。


「どうせ止まらないなら、俺たちも行くしかねぇな」


 霧の流れが強まる。

 村の鐘が遠くで鳴った。

 どこかで羊が鳴き、風が谷を渡る。


 ――こうして、

 リセルナの“心臓”は静かに目を覚ました。


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