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第12章 暁の余韻

第12章 暁の余韻


塔が静かだった。

 夜の裂け目から差し込んだ朝の光はすでに薄れ、床石に残った金のきらめきだけが、さっきまでの出来事が夢ではないことを教えてくれる。


 フィーゼは眠っていた。

 祈りを解き放った反動で、体の熱がまだ抜けない。頬は上気し、手の甲に汗が滲んでいる。

 リオは濡れ布で額を拭い、呼吸のリズムに合わせてゆっくりと肩をさすった。


 ――生きている。

 その事実が、胸の奥で静かに膨らむ。


「……起きてる?」


 伏せていた睫毛が震え、琥珀色の瞳が開いた。

 フィーゼは一度瞬きをして、リオを見つけて小さく微笑む。


「おはよう、リオくん」


「おはよう。……熱は下がってきた」


「そう。……よかった」

 声は掠れていたが、いつもの柔らかさが戻っている。


 隣で見張っていたクロが伸びをした。

「なら一安心だな。俺とルカで塔の上層を見てくる。王の手下の残りと、撤去された祈りの器があるかもしれねえ」


 ルカが頷く。「地下にもまだ隠し部屋がある。 ‘原初の紋’ が反応してた。……見つける」


「頼む。気をつけて」


 二人が去ると、塔はさらに静けさを増した。

 吹き抜けの上から鳥の羽音が一度だけ降りて、また遠ざかる。リオは窓を開け、冷たい空気を入れた。祈りの匂いが薄れ、代わりに風と石の匂いが満ちる。


「ねえ、リオくん」

 フィーゼが指先を伸ばす。握ると、少し冷たい。


「……こわかった?」


「こわかったよ」

 正直に言うと、彼女はふっと笑った。


「わたしも。けど、あなたの手を掴んだら、こわくなくなった」


 その言葉に、胸の奥で灯が瞬く。

 塔の壁に刻まれた古い紋様が、呼吸みたいに淡く明滅した気がした。


「俺は弱い。あのとき、怒りで祈りを燃やしかけた。……もし君が止めなかったら、俺は自分の祈りで誰かを傷つけてた」


「止めたのはわたしじゃないよ」

 フィーゼは小さく首を振る。

「あなたの祈りが、わたしの中の ‘やめたい’ を見つけてくれたの。……わたしたちの祈りは、一人じゃ届かない。二人でやっと触れられる」


 指先がきゅっと力を込めた。

 リオはその手を胸に当てる。鼓動が、二人分で同じ拍を刻む。


「……フィーゼ」

 言葉が喉で熱を帯びる。「俺、君のそばにいたい。祈りのためだけじゃなくて、君のために」


 彼女は目を細め、ゆっくり頷いた。

「うん。わたしも。……あなたがいない祈りなんて、きっと続かないから」


 短い沈黙のあと、ふたりで笑った。

 外の光が雲間からこぼれ、床の欠片に小さな虹を作った。



 そのころ、塔の外ではクロとルカが崩れた石の間を歩いていた。

 焼けた祈祷の紋がまだ微かに熱を残し、煙が漂っている。


「……聞こえたか?」

 クロが立ち止まり、耳を澄ませる。

 瓦礫の下から、かすかな声――いや、息の音。


 二人は素手で石をどけ、崩れた祈りの碑を押し上げた。

 そこには五人の子どもたちがいた。互いを抱きしめ合ったまま、眠るように横たわっている。


 ルカが脈を取り、安堵の息をつく。

「生きてる。……けど、祈りが封じられてる。これは“祈祷封印”。王の実験だ。」


 クロは唇を噛み、そっと一人を抱き上げた。

「……小せぇ手だな。こんなもんまで利用したのかよ。」


 子どもたちを慎重に塔へ運ぶ。

 リオが駆け寄り、フィーゼが上体を起こそうとする。


「フィーゼ、無理するな」


「だいじょうぶ……この子たち、泣いてる。」


 彼女は膝をつき、子どもたちの手を握った。

 その掌から柔らかな光が滲み出し、封印の紋がひとつずつ解けていく。


「……もう、こわくないよ。

 あなたたちの祈りは、ちゃんとここにある。」


 光が広がり、子どもたちのまぶたが微かに震えた。

 ひとりの少女がかすれた声で囁く。


「……おねえちゃん……あたたかい……」


 フィーゼは微笑んでその頭を撫でた。

「うん、もう大丈夫。

 あなたの祈りは、ずっと息をしてる。」


 クロはその光景を見つめながら、低く呟いた。

「奪われた祈りを取り戻す……か。

 あいつ(王)に見せてやりたかったぜ。」



 昼過ぎ、ルカが報告を終えて戻る。

「塔の上層に“王の記録”と刻まれた箱を発見した。共鳴盤も。……でも、半分焼けてる。」


 箱を開けると、羊皮紙と金属の筒、黒い石板の束。

 最上に封書が一通――王の印。


 リオは封を切った。


――もし “暁の継承者” がこれを読んでいるのなら、

私は敗れたのだろう。

私は祈りを秩序に変えた。混沌から人を救うために。

だが “想い” を消すことでしか成り立たぬ秩序なら、それはもはや祈りではない。


世界には “祈りのルート” がある。

北の氷海に “記憶の海”、西の砂に “忘却の都”。

そこに眠る核を解けば、人の祈りは再び自ずと繋がる。


私が間違っていたのなら――どうか、正してくれ。

祈祷王《無名の代弁者》より


 読み終えると、共鳴盤が微かに震え、青い光が輪を描いた。

 地図片の線は北と西へ――“記憶の海”と“忘却の都”。


「……行く先は、決まったな」

 リオが呟く。


 そのとき、塔の隅でフィーゼが子どもたちの上着を整えていた。

 彼らの胸に宿る光が、弱くも確かに脈打っている。


「この子たちを南の村へ。……“灯の村”なら、安全だよね?」


 ルカが頷く。

「祈りを隠す術を持つ古い一族がいる。俺が案内する。」


 クロが立ち上がる。

「護衛は俺がやる。祈りは使わねぇ。剣だけで十分だ。」


 フィーゼはひとりの少女の頬に触れた。

「名前は?」


「……ティリ。」


 その声は小さく、けれどはっきりしていた。

 フィーゼは微笑んだ。


「ティリ、空を見て。風があったかくなったら、それが“祈り”だから。」


 少女は小さく頷き、クロの手を握った。



 夕暮れ。

 子どもたちはクロとルカに守られ、塔を離れていった。

 砂の風に舞う小さな足跡が、光に溶けていく。


「……ありがとう、クロ」

 リオが呟くと、クロは片手を上げて笑った。


「感謝は要らねぇ。

 ……こいつらが、次の祈りになる。」



 塔の中では、リオとフィーゼが最後の祈りを捧げていた。

 石床の中央に羊皮紙と王の封書を置き、掌を重ねる。


「戻らないために、残す」

 フィーゼが小さく言って、パン屑を一片置いた。

「ここで食べたら、きっと美味しくないけど…… ‘温かい’ を忘れないように」


 リオも欠片をひとつ置く。光が消え、代わりに石がほんのり温かくなる。


 塔を出ると、暮れの風が頬を撫でた。

 跪く人々はもういない。

 それでも、街に小さな灯が戻り始めていた。


「行こう、リオくん」


「ああ」


 歩き出す二人の背に、アリアの声がかすかに寄り添う。


『――暁は、終わりではなく “余白” 。

 想いが次へ渡される、その静かな間。

 あなたたちの歩みが、その間を満たすの。』


 リオは振り返らない。

 けれど、確かに感じていた。

 手の温もり、風の匂い、遠くに消える子どもたちの笑い声――

 それらすべてが“祈り”だった。


 西の空の線がゆっくり金に染まる。

 忘却の都へ向かう道は、砂の匂いがした。

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