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第1章 霧の谷のいつも通り

第1章 霧の谷のいつも通り



 霧の朝は、今日も静かだった。


 白い粒が空から落ちてくるように、村全体を包んでいる。

 遠くの屋根がかすみ、声は半分しか届かない。

 けれどこの静けさは、俺にとって安心の音だ。


 名前はリオ。十五歳。

 リセルナ村で、何でも屋みたいに暮らしている。

 畑の手伝い、薪運び、祈祷所の掃除。

 特に才能もなく、特別でもない。

 ただ、毎日を少しずつ積み重ねてるだけだ。


 丘の上の古い家。父さんの形見の棚には埃が積もり、

 母さんの作った陶器の皿が一枚だけ残っている。

 あの人たちはもういない。

 それでも、この家には不思議と“あたたかい匂い”が残ってる。

 ――霧がそれを覚えているのかもしれない。


 湯を沸かし、干し草のベッドを整えてから外に出る。

 谷の下から、パンを焼く匂いが上ってきた。

 今日も、あの子が起きているらしい。



「リオくん、もう起きてたんだね」


 振り向くと、坂の下からフィーゼが上がってくる。

 髪を三つ編みにして背中で束ね、

 腕には布のかご。焼きたてのパンの香りが風に混ざる。


「これ、今日の分。お父さんの分もあるから」


「ありがとう。……毎日悪いな、フィーゼ」


「いいの。お母さんがパン焼くのやめられないんだもの。

 “リオくんに食べてもらうと味がわかる”って」


 俺は苦笑しながら受け取った。

 まだ湯気が立っている。

 外はカリッとして中はふわふわ。

 ――霧の中でも、こんなあたたかさがある。


「どう? 焼きすぎてない?」


「うん。完璧。……いつもの味だ」


 そう言うと、フィーゼがほんの少しだけ照れたように笑う。

 村の誰もが彼女に感謝している。

 朝の霧が薄れるころには、彼女のパンの香りが

 リセルナ中に広がっているからだ。


 そんな穏やかな時間を破るように、低い声が響いた。


「おーい、霧の中でいちゃつくなよー」


 坂の下から、クロが木の枝を担いで歩いてきた。

 狩り帰りの顔。髪に霧の露が光っている。


「いちゃついてねぇ!」


「嘘つけ。パンもらう時の顔、ニヤけすぎ」


「お前、朝から性格悪いぞ」


「いつも通りだ」


 クロは無愛想なやつだけど、口の端が少し上がっている。

 俺たち三人は、物心ついた頃からずっと一緒だ。

 霧に包まれたこの村では、友達というより“生き残り仲間”みたいな関係だ。


 クロは祖父と森の小屋に暮らしている。

 狩りと木工の腕は村で一番。

 時々、村の子どもたちに木の笛を作ってやっている。

 不器用な優しさってやつだ。


「お前ら、井戸の方は行ったか?」


「行ってないよ」


「ならいい。昨日、また音がした。深いとこから」


「音?」


「……水の音じゃない。

 まるで誰かが下で囁いてるみたいな」


「やめて、そういう怖い話」


 フィーゼが肩をすくめる。

 クロは真顔のまま、空を見上げた。


「霧の色が濃くなってる。谷の向こうも見えねぇ。

 ……おかしいな」


 俺もつられて空を見た。

 霧の層が、いつもより低く垂れている。

 でも、その奥で確かに何かが“光った”。



 昼近く、霧が少しだけ薄くなった。

 村の広場では、子どもたちが走り回っている。

 羊の鳴き声、パンを焼く音、鍋をかき混ぜる音。

 ここにあるのはただの“暮らし”だ。

 ――奇跡でも戦いでもなく、人の温もり。


 フィーゼは子どもにパンを分け、笑いながら頭を撫でている。

 クロは木の枝を削り、笛を作っている。

 俺は……井戸のある方を見ていた。


 底の暗闇の中で、何かが呼吸している気がした。

 胸の奥の光が、小さく脈打つ。

 やめればいいのに、足が動く。


(……ちょっと確かめるだけだ)


 井戸のある方に向かい、井戸の縁に手をかけて、そっと覗きこむ。

 深い闇。

 その奥で、一瞬だけ淡い光が走った。

 水面ではない。

 もっと下――霧の根みたいな場所で。


『……リオ』


 声が、した。

 耳元ではなく、胸の中に直接響く声。


『私はアリア... 夜明けが近いわ』


「誰だ……アリア?」


 名を呼ぶと、霧がふっと揺れた。

 風もないのに、草がざわめく。

 水の底で光が一度だけ強く瞬いて――消えた。


「リオくん!」


 声に振り返ると、フィーゼが立っていた。

 心配そうに、眉を寄せて。


「また……井戸の方、見てたの?」


「う、うん。ちょっとだけ」


「ダメだよ、そんなに身を乗り出したら。落ちたら大変」


「ごめん。……でも、何か聞こえた気がしたんだ」


「聞こえた?」


「女の声。たぶん……名前を呼ばれた」


 フィーゼは驚いた顔をして、それから微笑んだ。

 優しく、けれどどこか悲しそうに。


「夢でも見たんじゃない?」


「……そうかもな」


 彼女は俺の袖についた霧のしずくを拭った。

 その手が少し震えていたのを、俺は見て見ぬふりをした。



 夕暮れ、村の鐘が鳴った。

 霧が金色に染まり、空が見えるのはほんのわずかの時間だけ。

 クロが羊を追って丘を登り、フィーゼが家へ帰る。

 俺は家の前で、金色の霧を見ていた。


 胸の光が、また静かに灯る。

 その瞬間、耳の奥で、ささやきがする。


『――見えるようになるわ、リオ。

 けれど、見たものを忘れてはいけない』


 アリアの声だった。

 優しくて、少し寂しげで、霧のように掴めない。


「……アリア。お前は、どこにいるんだ」


 問いかけても、答えはない。

 ただ、霧がゆっくりと流れていく。

 いつも通りの村。いつも通りの夕暮れ。

 でも、俺の中で何かが始まっていた。



“夜明けは、いつも静かに訪れる。

 けれどそれは、終わりの始まりでもある。”

――祈祷所の古い碑文より

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