[掌編]いつみきとてか
街を歩くと、車を通さない歩行者のみが歩く細い小径に入ることがある。
主な舗装はアスファルトなのだけど、道幅の多くを占めるコンクリの板——蓋が繋がっている場合がある。
そのコンクリの平たい蓋の下には水が流れている。
つまり、水路「渠」の上に蓋をしたいわゆる「暗渠」だ。
同じ「渠」でも川と同じように日の下に晒されて流れているものは「開渠」と呼ばれているのだが、基本的な役割は同じものだと思ってもいいのかもしれない。
「開渠」と「暗渠」の違いはもちろん見た目にもあるが、僕は「開渠」は地図に現れるけれども「暗渠」は地図上には現れないことが気になっていた。
「開渠」は道路や建造物沿いに走り小川と同じように流れるが、「暗渠」は側溝蓋の親玉のようなコンクリで蓋をされていたり、もしくは上下水道のように埋設されて隠されている。
「暗渠」の場合は、上に重量のある車体などが行き来させる車道を作らず歩行者中心の小径として歩けるようには造られているようだ。
一つの街の、僕らの足の下に流れる可視の水路と不可視の水路たち。
そこに一つの感覚があった。
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まぶたを閉じて感覚を一つ消す。
これはとても大きな違いになる。
普段の僕たちが持つ感覚の中で目で見るということは一番感覚を支配しているものだ。
それを遮断すると、それまで後回しにされていた残りの感覚がそれぞれ起き上がる。
僕は暗闇の中で耳を澄ます。
自分の周りの音、離れた場所の音、そしてどこから聴こえるのか定かではない音。
人の声にしても聴こうと思って耳を傾けているものは輪郭が鮮明になるけれど、予め気にしていない声はまるで背景に埋没しているかのように「聞いているのに聴こえていない音」になる。
「カクテルパーティー効果」。
いくつもの音が鳴る中で自分の聴こうとする音だけを選んで聴きとる能力。
無関係な音を削ぎ落として意識に素通りさせる能力。
例えばアルバイト帰り、一人暮らしのアパートへと歩く時、いく筋かあるルートの中に一つ暗渠の上を歩く道がある。
僕はその上を歩きながら、被せられたコンクリの蓋の下、陽の光から隠された水路に流れる水流の音を靴底を通して聴く。
夕暮れに暗くなずんだ、家と家の間の細い道を歩きながら、時々ふと流れる音の中に何かの声が聴こえるような気がしてくるのである。
多分、水の中から水を通して何かを呼びかけたら、あんな音になるのだと思う。
耳を傾けても、人の言葉にはなり切らないのだけど。
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いつの頃からか「ジュリア」と名付けられた音声が気になっていた。
「ジュリア」、まるで美女の名前でどこかロマンチックな小説や映画、歌のタイトルにでもなっていそうな名前。
でもその音声は歌じゃない。
1999年の3月、米国海洋大気庁の水中マイクロフォン配列の観測で記録された、南極圏の海洋付近で発生した正体不明の海中音響の一つだ。
「ジュリア」の他に「掃き上げ」、「警笛」、「ブループ」、「減速」、「列車」など奇妙な名前の音声記録がネット上で一般向けに公開されている。
それは水中を通してどこか遠い海洋の下で起こった「何か」の結果生まれた音、目撃者のいない場所での音なのでどれも断定できないのだけど、おおよその推測で氷山の衝突音などと推測がされている。
音声パターンの特徴からそれぞれに付けられた名前だから連想が働く。
「掃き上げ」、「警笛」、「ブループ」、「減速」、「列車」——じっと聴いているとその名付けに納得できるような連想が浮かんでくる。
ただ「ジュリア」だけが謎だった。
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僕は同じ大学に通う友人の初田と話した時に、「ジュリア」の話題を出した。
「なんだ、それオカルトの話か」
「ちょっと聴いてごらん。ネットで探してさ」
言われた初田は自分のスマホを出して——イヤフォンをするようにアドバイスした——検索で現れた音を再生した。
聴き終わった初田は形容し難いなんともいえない顔をした。
「わけが分からん。まぁ雑音だけど、水を通して音が変形してるんだろうから、本物の音とはまるで違うんだろうけれども不気味だな。海の奥底から巨大な恐竜が呻いているような……悪夢を見そう。……そうだな、なんで「ジュリア」なんだろう」
こちらの蘊蓄で挙げられた他の音声も一通り聴いてみて初田は首を傾げた。
「なんで「ジュリア」なんだろう」僕は問いかけてみた。「ジュリアで何か連想するものはあるかい?」
「しようと思えばそういう名前の有名人なんていくらでもさがせるんじゃあないか。ありすぎるだろう」
「海に関連した、ジュリア」
「海ねぇ……」しばらく考える顔で上を見ていた初田は節をつけて口ずさんだ。「……ジュー リーア」
「何?」
「ビートルズのホワイトアルバムに入ってる『ジュリア』……しか思い浮かばない。ジョン・レノン一人が作って弾き語りしてるトラックだ。若くして亡くなったジョンのお母さん、ジュリア・レノンの名前から来ている曲名でね、そういえば歌詞にはオノ・ヨーコについても折り込まれていたようだ。フレーズの中に「オーシャン・チャイルド」って。その機関の職員にビートルズのファンがいたんじゃないか」
「君もまた物知りだね」
「洋楽でビートルズぐらいは基礎教養だろうよ……なんてね」初田はニヤリとしながら答えた。「まぁお前の妙ちきりんな雑学には及ばないよ」
とりとめなく話しながら、人間の感知できるより深い海の底にいる、何かの気配を僕は空想した。
水の底から、人間には分からない言葉で——いや、水に阻まれて、水の外側の人間の耳には届きづらい言葉で読んでいる、水族の言葉。
それを聴きとるには僕自身が水の世界側にいないといけない。
でもその時には、僕は普通の人間のままではいないだろう。
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夕方、僕はバイト終わりの帰途にあって馴染んだ路地を普通に歩いていた。
終日、曇っていた空からぬるい風が吹き、雨の予感がしていた。
降り出す前に帰りたい。
路地の一つに折れて入って、微かな音が……声が聴こえた気がした。
子供の……男女どちらかは分からない、小さな子供の泣いている声がした。
少し止まって耳を澄ませた。
『だれか だれか たすけて ください』
迷子か何かだろうか、そばに人がいない状態らしく、心細そうで控えめな声で人を呼んでいる。
周りは一軒家の住宅が密集しているが、人の気配がなく他に子供の声に気付いている人がいないかもしれない。
声のしている方向に見当をつけて僕は路地を進んだ。
暗渠に被されているコンクリの蓋の上に来て、その下の方から声が聴こえてきた。
「もしもし、聴こえる?そこにいるの?水路の中?」
『ここです でられなくなっちゃった だしてください』
やはり暗渠の内側から声がしている。
どこから入り込んでしまったのだろうか、自力では出られなくなっているようだった。
「待ってて、人を呼んでくるから」そう言ったけれども、このまま待たせて、いるのか分からない周囲の住人を探して回るのは時間がかかりそうだったし、これから雨が降り出したら暗渠内に雨水が溢れそうだ、小さい子供が光もないところで……。
「待っててね、今、そっちに行くから」
空気はいよいよ湿ってきた、重い雨の予感だ。
暗渠の先を辿って歩くと、道が折れたのと引き換えに水路が開いているところがあった。
蓋のない開渠になっている箇所で、ここから降りれば暗渠の中に入り込めそうだった。
ガードレールを乗り越えて草の生えた縁を注意深く渡って水路を見下ろした。
コンクリで囲まれた内側はかなり年数も経って面の劣化や継ぎ目から生え出している雑草、泥土や砂利などが底に積もっている。
普段からの流れは殆どない水路なのか細く水がゆっくりと流れている。
ここから降りて、歩いてきた方向に戻れば声のした場所に行けそうだ。
大人の背丈よりもわずかに高い側溝で、昇降するには階段や手がかり・足がかりに使えるステップもない。
誰か通りかからないか周りを見たけれど、誰も来ない。
そうこうしているうちにいよいよ空模様が変わった。
僕は溝の端に腰掛けてから下に飛び降りた。
下から見上げ、手を伸ばしてコンクリの縁に手をかけた。
子供をここまで連れてきて、下から押し上げれば出してあげるのは可能だ。
僕はスマホを出してライトをつけた。
大人が屈まずに入っていける高さはある。
僕は照らしながら暗渠の中に入っていった。
遠く子供の泣き声が聴こえる。
「今、行くから。待ってて」
水路の奥に呼びかけると、答えるように泣き声がした。
靴を濡らさないように水を避けながら歩いていくと、枝道が現れた。
意表を突かれて立ち止まっていると、一方から泣き声が響いてきている。
泣き声の方向を辿って一つの道に進んだ。
地表の音とは違う聴こえ方だった。
余計な音が一切しないで、内側からする音の反響だけが届く。
頭上からの音はほとんど届いていない、元から人があまり通らない道というのもあるのだろうけれど。
そう、陸上とは別の音の世界、半ば水の下の世界に近づいている場所なんじゃないか。
そんなことを考えながら、自分が通りがかった場所付近まで来た頃合いだった。
心なしか水路に流れる水量が増えてきている気配がした。
水の幅が広がってきているのだ——地上で雨が降り出した。
次第に足元へと水が近づいてきている。
「ねえ、来たよ、ほら、ここにいるよ」
声を出したけれど、答えが返ってこない。
「どこにいるんだい、一緒にここを出よう」
泣き声のようなものは聴こえていたけれど、何故だかトーンが変わっている。
今や心細く助けを求めるような声ではなくて、人を騙すのをやり切った悪戯の成功で愉快そうな子供の笑い声のように響いてきた。
ライトで暗渠内を照らした。
人の姿はどこにもない。
代わりに、壁面の一部に横から支流を引き込んだような小さな管から激しく水をが流れ込んでいるのが見えた。
そんなことがあるのか……どういう具合か、水の噴出する音がまるで子供の笑い声のように聴こえた。
そう、このパイプが、例えば雨の増水の前の時には心細げな子供の泣き声に聴こえそうな音を出していたのではないか。
子供は初めからいなかった。
氷山の衝突音を、まるで他の声であると錯覚したように、いない筈の子供を探しにきていたのだ。
入口まで戻ろうと振り返ると、歩いてきた方向は全体に水が広がっていた。
戻れない、僕は迷いながら先へと歩いた。
しばらく行くと、先に土砂降りの雨が注いでいる開渠部が現れた。
雨水が流れ込んできているが、登れれば外に脱出できる。
近くまで歩いてきて僕は上を見上げた。
水路の壁面はどこまでも平坦で、手足を掛けるようなものはない。
入ってきた所よりも高さがあった。
勢いをつけて飛び上がり溝の縁に手を掛けて懸垂の要領で身体を引き上げればあるいは……。
雨の勢いは次第に増してゆく。
今や僕を包み込むのは全て水の音だ。
『ようこそ ようこそ 水の世界へ』
こもったような音の中にわずかに聞き取れる言葉が現れる。
僕も水の中へ誘い込まれたのだろうか。
雨の中に身を出して、助走をつけて溝の縁に手を掛けようとした。
一度、二度、三度。
足りない、届かない。
それでも戻るために続けている。
『ようこそ ようこそ ジュリアの世界へ』
頭の中、深い海の底から呼び声を出しているジュリアの声が響く。
それは意味を持ち始めて僕の耳に届いている。
ジュリア、ジュリア、ジュリア……
僕は水の世界から抜け出すために、助走をつけて飛び上がる。
止まない土砂降りの中で。