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マラソンとは

作者: 雉白書屋

 この日、鳥たちは歌い、空は青く澄んでいた。ああ、確かに『いい天気』だ。……しかし、おれは嘲笑されているようにしか感じない。もちろん、これはこっちの感じ方に過ぎないということはわかっている。

 昨夜は久々に少年の頃に戻ったような気分で眠りについた。ワクワクしていたわけじゃない。『神様、どうか明日は雨を降らせてください』と願っていたのだ。でも、神など存在しない。それはもう知っている。

 おれはこの日、町のマラソン大会に参加することになっていた。いや、正確に言えば『参加させられた』のだ。スタートラインに立ち、開始の合図を待っている今、体と意識がばらばらになっているような感覚があった。

 ただ、それはおれの体が自治体の健康推進キャンペーンに洗脳されたわけではない。なにしろ、そのキャンペーンを打ち出したのはこのおれたち、自治体職員なのだ。ああ、他のランナーたちのように洗脳されたほうがまだマシだ。おれはただのビール愛好家。おれにとって健康とは、ソファでリラックスしながら冷えたビールを飲み、たっぷりため込んだストレスをゲップと共に体外へ出すことだ。少なくとも、汗だくで走り回ることではない。


「よーい……スタートです!」


 スタートの合図で、一斉にランナーたちが走り出した。おれもそれに倣ったが、心はゴールとは正反対の方を向いていた。ソファ、冷えたビール、スポーツ番組。それこそが、おれの理想的な日曜の過ごし方だ。失ってみて初めて、そのありがたさと平和が身に染みる。おれはせめて、心だけでも遠くへ逃がしてやりたかった。だが、肉体が心を引き戻す。早くも腹が刺されるように痛み出した。

『ランニングは健康に良い』などと、いったい誰が言い出し、広めたのだろう。そこには何か陰謀めいたものさえ感じる。おれには、ランニングはただの苦痛でしかない。そもそもおれは健康だ。少なくとも、医者が「まあ、生きてはいるね」と言っているのだから。


「まあ、綺麗ねえ」

「ねえ、住みやすそうな町」

「気持ちがいいわあ」


 マラソンコースは、町の美しい景色を楽しめるように設計されている。町外からの参加者を楽しませ、移住希望者を増やし、人口減少を食い止める狙いがあるという。町の人口減少は国からの予算の削減を意味し、つまりは役人が私腹を肥やせなくなるということだ。そんな太った腹なら少し痩せたほうがいいんじゃないか。なんて、自分を棚に上げるおれも、もう立派な公僕か。

 参加者が称賛する『美しい景色』など、息が切れている今はただの色と形に過ぎない。目の前がチカチカしてきた。四十近くにもなって、向いていないことをやるもんじゃない。大会前に上司にそれとなく断りを入れたが、一笑に付された。『参加することに意義がある』という言葉は、いったいどこの新興宗教の指導者の言葉なのか。この地獄から救ってくれるのなら、おれも入信しよう。たとえ、それがマッチポンプであっても。


「ぎゃはははははは!」

「頑張れー!」

「はははははは!」


 子供たちが奇声を上げておれを抜き去り、犬を連れたランナーが、犬に送られた声援を自分のものだと勘違いして手を振る。年配のランナーたちは命を燃やしているのに気づいていない。ウェルカム、ここはディストピア。

 おれは自分の心臓が不規則な動きを始めたことに気づいた。けれど、ゴールはまだ遠い。

 警察のバイクやマスコミのカメラマンを乗せたバイクが脇を過ぎる中、配達員の恰好をしたランナーが、凄まじい速さでおれを追い抜いていった。彼らはとにかく速く仕事をすることを求められているのだ。

 教師の恰好をしたランナーは正しいフォームを心掛けながら走っていた。プログラマーはノートパソコンのキーボードを叩きながら走っている。若者が担ぐ神輿には裕福そうな高齢者が乗り、じゃあ政治家はどこかと思えば、殿様の恰好をして街宣車に乗っていた。他には消防士、看護師、大工、シェフ、芸術家、農家、弁護士などがいる。

 今どき、コスプレしてマラソン大会に参加する人は珍しくない。ただ、このマラソン大会は、それぞれの職業に見合った服装で走ることで職業理解を深めようという趣向が凝らされているのだ。富士山やお姫様の格好をした参加者は、全員非正規社員だろう。

 おれも市役所職員の制服、つまりいつものワイシャツと首からネームプレートを身に付けて走っている。時折、「休むな!」「土日も開けろ!」といったヤジが沿道から飛んできた。おれは愛想笑いを浮かべながら考えた。

 マラソン大会とはいったいなんだ。毎年のように各地で行われ、時に何千人もの人間が一斉に走り出すこの奇妙な儀式はなんだ。駅伝が宗教のように崇められているのはなぜだ。おれには理解不能だ。


「そこ、やめなさい!」

「落ち着いて!」

「大丈夫ですか!?」

「きゃあ!」

「はははははは!」


 今年はまだ夏前にもかかわらず、異常な暑さだった。多くの参加者が熱中症になることが予想されていたが、大会中止という選択肢は上にはないらしい。

 そのせいで、時間が経つにつれ、混沌が広がっていった。消防士は水分補給を怠り、脱水症になっていた。教師は他の女性ランナーに抱き着き、警察にその場で逮捕された。看護師は倒れていた。シェフは食中毒を起こした。大工は迷子になった。芸術家は筆を捨て、路肩に座りタブレットを見ていた。農家は他の農家と喧嘩を始めた。弁護士はその様子を涎を垂らしながら見ていた。プログラマーは不可解な動きを始めた。

 死屍累々の中を抜け、ようやくゴールが見えてきた。その瞬間、なんとも言えない高揚感が湧き上がってきた。これがマラソンの力なのか。悔しさを覚えつつも、楽しんでいる自分がいた。


「おい、トイレはどこだ?」

「ねえ、いつ終わるの?」

「うちの人見なかった?」

「ねえ、ゴールってどこ?」


 おれはゴールに向かって走った。しかし、おれを職員と勘違いしたのだろう、沿道の観衆がわらわらとおれを囲み、進路を阻んできた。おれは「すみません、すみません」と言いながら、彼らを避けて通ろうとした。すると、彼らは顔をしかめ、口を尖らせた。


「ねえ、どこ行くのよ!」

「無視する気か!」

「おい、なめてんのか」

「そのスーツ、税金で買ったんだろ? 市民のためにちゃんと働けよ」

「税金で暮らしてるくせに」


「……あ、あああああああ!」


 まるでムクドリの大群だ。おれは叫び声を上げて服を脱ぎ捨て、連中を押しのけた。振り返ると、他にも服を脱ぎ捨てて走っているランナーがいて、どこかほっとした。

 ……ああ、そうか。マラソンは人生の縮図だ。激しい競争の中、他の存在に支えられながら、自らを鼓舞し、共に高め合っていくのだ。職も立場も関係ない。共に走る者はみな仲間だ。目指すゴールは違うかもしれない。しかし、その険しさは同じだ。そして、苦しみ、痛み、喜び、達成感。それらすべてが人生を彩る色なのだ。


「おめでとう!」「お疲れ様!」「きゃあああ!」「おめでとう!」「うおっ!」


 おれはついにゴールにたどり着き、他の参加者と称え合い、抱き合った。

 この日、鳥たちは歌い、空は青く澄んでいた。ああ、確かに『いい天気』だ。おれたちを称えている。でも、それはこっちの感じ方に過ぎない。わかっている。

 おれは再び走り始めた。そう、生きている限り、人は走り続けなければならないのだ。







『続いてのニュースです。市主催のマラソン大会で大珍事。熱中症患者が多数出た中、公然猥褻で逮捕者が出ました。この件について、市長は大変遺憾だとコメントを出し、厳粛に対応すると――』


 夜、家でおれはソファに座り、テレビを見ながらビールをすすった。画面にはゴール地点から全裸で逃げ去るおれの姿が映し出されている。

 おれは少年の頃に戻ったような気分で願った。『神様、どうか明日は隕石を降らせてください』と。でも、神など存在しない。それはもう知っている。

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