じれったい二人
夕食が終わり、フィリスとカイルは予定通りに執務室へと集まっていた。貴族には特権があり、国から領地を与えられて、その領地を好きに使うことができて不労所得を得ることは基本的な権利とされている。
しかし、土地を持ってそこに住む領民の生み出す収益を使えるといっても決してやることがないわけではない。むしろ大ありだ。
安直に農業を続けるだけでは土地はやせる一方だし、領民の暮らしの為に色々な事業を勧めたり、金策が必要になることだってある。
それに領主である貴族としての大切な仕事がある。それは領地に必要な魔法道具に魔力を注ぐという事だ。
診療所に置いている治癒の為に使う水の魔法道具、公共施設の炎の魔法道具、獣を寄せ付けなくするための風の魔法道具などなど、色々な用途の様々な魔法道具が、ひび生活で使われている。
それらを補ってやると領民はとてもよく働きよく、生産する。だからこそ、それらを維持するだけの魔力量が必要になり、家族内で分担して魔力を捻出する。
そしてそういう物の総括をするのが領主の務め、つまりは、ブライトウェル公爵の地位を引き継ぐフィリスの役目になるのだ。
というわけでまずは後継ぎとしてフィリスが一部の魔法道具の所有権を受け持つことになった。
ただ魔力のない平民の使う魔法道具なので、引継ぎの方法が少々古典的なのだ。
「……そんなに青い顔をされると流石にやりづらいんだが」
「い、いいよ。ひと思いにさくっと、やって、大丈夫!」
「そうは言ってもな……」
カイルはフィリスの手を見つめて、片手に持った小さなナイフをテーブルに置いた。
「でも、これやらないと、引き継げないし。いざというときに困るんでしょ?」
「それもそうだが、一時的に自分が所有者となることも可能だ」
「そういうわけにはいかないよ……私は平気」
領地で使っている魔法道具は基本的に据え置き型の物で盗むことが出来ないようになっている。
しかし、戦争などで領地を奪われた場合にいいように使われないように、所有者の魔力で破壊することが出来る。そのために必要なのが血液に宿った魔力なのだ。
それを先代のものと入れ替えることによって、所有権を引き継ぐことが出来る。
多量に必要というわけでもないのでさっくり怪我をしてさっくり治してしまえば貴族にとっては何の影響もないのだが、フィリスは、カイルの持っている、美しく研がれた銀色の刃を見ると途端に顔を青ざめさせた。
向かいに座っているカイルが心配するほどに、血の気が引いていたらしく、カイルは困った様子でフィリスを見つめていた。
「平気そうには見えないな……業務上必要なこととはいえ、勢いに任せるのは感心しない」
「……だって……」
「フィリス、自分は出来る限り君につらい思いはさせたくないんだ」
優しく言うカイルに、フィリスはそれ以上強く言えなかった。
しかし、別に刃物が怖いとか、血を流すことに特別忌避感があるというわけではない。
単純に慣れないのだ。フィリスは先陣切って戦うが、血は出来る限り流さないようにしている。
フィリスの魔力が宿った血が流れ落ちて魔獣の口に入ったら大変なことになる。
それに普通に強いのでよく戦う割に、自分の流血にはまったく慣れない。他人の怪我や欠損を恐ろしく思わないが、自分がなったら多分泣いてしまうような気がする。
なので指先をちょっと切るだけでもカイルにお願いしたというわけだし、きちんと消毒も終わっているので是非、ひと思いにやってほしい。
「……君は痛みには弱い方なのか?」
不意に聞かれてフィリスは考えた。多分基本的には弱い。
精神的にも肉体的にも、傷つきたくはないし、傷ついたら折れがちだ。物理的には割と強いので今までそういう事に慣れずに生きてきた。
「弱いと思うけど……」
「そうだろうな。君が傷つくことはそうない、君自身が強いというのが一番大きいだろうが、これからも何があっても自分は君が痛みに慣れるようなことにはなってほしくはないと思っている」
「……?」
「君は、多くの人に望まれて森に慣れた。そして戦闘に慣れて、命を奪う事にも、慣れている」
フィリスが情けない話をしているのかと思ったら、不思議な方向へと話が進んで、フィリスは瞳を瞬いた。
それは確かにその通りだし、今更命を奪うことになんとも感じない。
その状況とフィリスが痛みに弱いのは、とてもアンバランスな気がするがカイルは慣れないでほしいと思っているらしい。
「……ただ、それは必要性があったからだ、自分は君が痛みを受け入れる必要性のあるような状況を作りたくはない。だからこそ、多くの手で君を守っていきたい。これから先はずっと」
「カイル?」
「ユーベルもなかなかに使える男だし、騎士団は君の隙を埋めるための盾になる。自分も君がこれから先もずっと痛みを知らないままの君でいられるように全力を尽くしたい」
手をぐっと握られて少し痛いぐらいだったが、彼は真剣な瞳をしていて、それほど、フィリスが傷つくことに対して強い忌避感を覚えているのだと理解できる。
もしかするとブルースの件で彼もフィリスを守れなかったことを苦しく思っているのだろうか。
指の先が圧迫されてじんと痛んで、彼にそんな風に罪悪感を持たせてしまったのなら申し訳がないと思った。
「自分は君を愛しているからな、常に幸せでいてほしいんだ。……ところで、痛みはすこしはやわらげられたか?」
しかしふと笑みを浮かべたカイルは、フィリスの指先に小さな小瓶を当ててつうっとゆっくりと血が落ちていく、驚くことに指先が切れていた。
キョトンとしてカイルを見れば彼は「あまり感じなかったようだな」と口にして手早く小瓶の蓋を閉めてから、フィリスの指先を水の魔法道具を使って治す。
「……びっくりした。全然、想像より痛くも怖くもなかったから……」
「刃物の痛みは鋭いからな、少し圧迫すると分散させることが出来る。次からもこうしてやれば怖くないだろう?」
「うん……ありがとう、カイル」
傷が治るとすぐに自分が怪我をしたという事実も薄れていって、残ったのは血液がほんのちょっと入った小瓶だけだった。
自分でやっていたらこんなに簡単にはいかなかっただろう。
流石、フィリスよりも年上なだけある。やっぱりカイルは頼れる大人だと尊敬してしまった。フィリスもこんな風に柔軟で優しい大人になりたい。
しかし、そう考えてからフルフルと首を振った。
カイルの事は尊敬しているし、フィリスの頼れる婚約者ではあるのだが、フィリスとカイルは対等で、父のように慕う相手ではない。
フィリスは徐に立ち上がって、今日こそはと考えていたことを行動に移した。
チュッと小さなリップ音をさせて、カイルの頬に触れるだけのキスをした。
驚いて片付けの手を止める彼に、唐突にしたはいいがなんと言おうかと考えてフィリスは「お、お礼?」とよくわからない理由付けをした。
「…………」
しかしカイルはそのまま固まって、それから、ぐっと眉間にしわを寄せて怖い顔をした。
なんだか怒っているようなその表情にフィリスは驚いて固まると、カイルはしばらくした後にため息をつきながら、額を押さえた。
カイルの頭の中には、お礼という名目でカイル以外にしないように言い聞かせたい気持ちと、唇へのキスはいつ頃していいかと問いたい気持ちが拮抗していた。
拮抗して、伺うようにこちらを見ているフィリスの不安げな顔をみた。
まだあどけなく、どこまでも純真無垢に見えて何も知らなさそうなフィリスに、カイルはしぶしぶ「自分以外には、そういう事はしないようにしてくれ」と口にする。
もちろんだと深く頷くフィリスに、カイルはまた進展の機会を逃したことを改めて認識した。
そんなわけでフィリスとカイルの関係性は非常にゆっくりとしか進まない、しかしいつか当たり前のように愛し合えるその時まで、じれったい関係性を楽しんでいきたいとカイルは思ったのだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。これにて完結です。評価をいただけますと参考になります。