5話【希望であり】
生まれ変わったシャノンを夕食に誘ってみたけれど、今日は疲れたから部屋で食べると断られた。しかし今後も誘えば出てくれそうな気配があったのでタイミングをみて切り出すつもりである。そんなこともあってメアリは機嫌よく食堂へと向かった。
今日は嬉しい話題もあるし、イアンからアドバイスももらったし、きっと楽しい時間を過ごせるに違いない。わくわくした気持ちで廊下を歩いていると正面からヘンリーがやってきた。食堂へ行く途中なのだろう。
彼は驚いたようにメアリを見つめ、ふっと自然な笑みをこぼす。
「シャノンのことは聞いたよ。きみが来てくれたことでいい方向へ進んでいる。ありがとう。……よければお手をどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
差し出された手におずおずと右手を重ねる。
大きくて男らしい手だ。
まるでエスコートされる貴婦人のように、優しく手を引かれて食堂へと足を踏み入れる。メアリは横目でちらりと盗み見た。背が高くて、髪もサラサラで、目鼻立ちは整っていて、いい匂いがする。夜に見る青灰色の瞳はまたいっそう神秘的で、ふらりと吸い寄せられそうだ。
不躾な視線に気づいたのか、ヘンリーがちらりとこちらを見ると目が合ってしまった。そしてまた彼は優しげにほほ笑むのだ。ほんの一瞬の出来事だったけれど、メアリの胸をときめかせるには充分だった。
ああ、この人はあれこれ喋らなくても相手を虜にすることができるのか。納得しているうちにテーブルへ着き、椅子へと腰かける。
「ここでの暮らしはだいぶ慣れたかな」
「ええ、おかげさまで」
「あなたが来てから十日が経つだろうか。ずいぶん屋敷の雰囲気が明るくなったと思う」
「そう言って頂けると嬉しいです。ご迷惑をかけたらどうしようかずっと不安だったので」
美味しい料理に舌つづみを打ち、ヘンリーとの会話を楽しみながらステキな時間を過ごすことができた。些細な話題でもヘンリーがにこやかに相槌を打ってくれるだけで特別なものに感じるのだ。
今のメアリにはこのライランス家のすべてが愛おしかった。カッコよくて話すと楽しいイアン、少しずつ自分の殻から出てこようとする可愛いシャノン。そして次期当主で見目麗しい婚約者のヘンリー。彼らと良好な関係を築きつつある自分が誇らしくもあり嬉しかった。お屋敷は豪華で広く、使用人は少ないぶん自由があっていい。欲しいものは言えば手配してくれるし、うるさい両親にも干渉されないし、このまま結婚して生活できたらどんなにいいだろう。
(……そう言えば、ヘンリー様は過去に婚約とかしてなかったのかしら。わたしが初めて? そんなことある?)
ふと浮かんだ疑問はまるで水の中に一滴の黒インクを落としたよう強烈な存在だったが、それも次第に薄れていく。
社交界では特にうわさを聞いてない。両親からも聞いていない。だったら前の婚約者がいたとしてもスキャンダラスな問題はなかったということだろう。
食後にお茶をいただきながらそろそろ退室かというところでヘンリーが連絡があるとメアリを引き止めた。
「イアンと交際している女性がいるんだが、事情があってしばらくこの屋敷で預かることになった」
さも些細なことのように言われるが、その内容に驚いたメアリは目をぱちぱちと瞬かせる。
「交際中の方ですか」
「ああ。なにか問題でも?」
「い、いいえ。少し意外だと思って」
由緒ある貴族の長男であるにも関わらず研究所に入り浸るような人でも交際をするのか。むしろそういうものと縁遠いのかと思っていただけにメアリには驚きだった。
「うちと共同事業をしている所のお嬢さんで、同じ研究室で顔を合わせるうちに意気投合したらしい」
「そうなんですね……いつからこちらへ?」
「予定では三日後だ。期間は一週間程度だと思う。その辺りはまだ決まっていないんだ」
名前はケイト・リパーキン、歳は21。
まだ事態を飲み込むのに時間がかかりそうだった。メアリの知らない人がここへやってくる。ライランス家にとってはメアリもケイトも子息の婚約者という立ち場で一緒だ。しかしいざ自分が受け入れる立場になると少しばかりの不安がよぎる。社交界では前の婚約者とのいざこざであまりよくないウワサが出回っているし、そんな先入観をもった人がここへ来たら……
「また少し屋敷がにぎやかになるだろう。よろしく頼むよ」
用件は終わりとばかりに立ち上がり、ヘンリーは「おやすみ」と言い残して去っていった。
◇◇◇
翌日は昼過ぎにシャノンのところへ向かった。最初に来た時とは違い、カーテンが開けられた部屋は明るくて部屋も整頓されている。何よりシャノンが愛らしい姿で迎えてくれるのが一番の変化だろう。
起きてからメイドに身支度をしてもらったらしく、昨日と似た系統の服で髪はリボンで結われていた。メアリが昨日あげた赤いリボンだ。
「今日の調子はどう?」
「うん。悪くない」
長椅子に寝転んで読書中だったというのでどんな本を読んでいるのか見せてもらった。表題には「バデルディア地方の地質調査書」と書いてあり、たくさんある手書きの用紙を本のようにまとめたものだった。
「なんだか難しい字がいっぱいね。シャノンくんはこういうのが好きなの?」
「内容はわからないことも多いけど……読むのはなんでも好き」
「ふぅん」
部屋の中には大きな本棚があり、いくつもの分厚い本が収められている。物語だったらメアリも楽しく読めるかもしれないけれど、さすがに学術書や論文などの本は食指が動かない。
「すごいね」
「……そう、かな」
シャノンはまた照れているようだったが、ふと顔をあげると心配そうにメアリを見る。
「メアリ、疲れてる?」
「ううん。そんなことないよ」
今日は天気がいいので散歩に行こうと提案した。
庭園にあるベンチまで行って、少し休憩してから帰ってくるというごく短い散歩だ。日傘をさして手をつないで歩く二人は本物の姉弟のように仲睦まじく見えたことだろう。
「ねえ聞いた? イアン様の恋人がこちらへ滞在されるんだって」
「うん、聞いた」
「ビックリだよね」
歩きながらメアリが不安げにつぶやく。
「怖い人だったらどうしよう。わたし上手くやれるかしら」
細く長いため息を吐くメアリに、シャノンがおずおずと言葉をかける。
「……大丈夫だよ」
握られた手にきゅっと力が加わる。シャノンが気遣わしげにメアリを見上げていた。アクアマリンのような青くてキレイな瞳。でもなぜだろう。今はどこか仄暗さを感じる。
「僕は、メアリが好きだよ」
すがるような突然の告白に胸がざわめく。
シャノンの気持ちは嬉しいし、それはもちろん異性としての好きではなく姉を慕うようなものだと分かっているけれど。日傘の影の中でシャノンの青い瞳がメアリを見つめ続ける。
「メアリが好き」
きゅっと握られた手。触れあった肌に汗がまとわりついて不快だ。いったいどちらの汗なのか、メアリにはわからなかった。