35話 終
アーネストが無事に外へ出る。ほっとしたシャノンが先ほどまでいた部屋を見ると、なかでは炎が暴れまわっていた。シャノンの部屋だけではない、外から見える廊下にも火の手が広がっている。
「まさか屋敷のなか全部に油を撒いているのか……」
「あの女、相当いかれてる」
「フィン、近くの住民に火事だと言ってまわってくれ。敷地は広いから民家まで飛び火はしないと思うが、林に火がうつったらまずい。協力を仰げ」
「承知しました」
アーネストとフィンの会話を横で聞きながら、シャノンは震える体で一生懸命考える。メアリは全てを壊して逃げるつもりだ。だから屋敷に火をつけた。彼女は今にも出かけそうな服装だった。準備する時間があって、屋敷中にも油をまいたのだ。でも、ヘンリーはそれを許すだろうか。家の体裁を一番に気にするあのヘンリーが。
それに、火をつけたあとメアリはどこへ逃げる。
誰をともなって。単独の可能性は。
どちらが確実に逃げられる。
「……ヘンリー兄さん」
またもやぞっとする予感。シャノンは封筒を抱いたまま走り出した。
「シャノン、待てっ」
「兄さんが……!」
大きな屋敷の外周をぐるりとまわり、玄関ホールまで全速力で走る。小さかったころ、兄たちと走り回った記憶が今になって頭にちらつく。
屋敷の内部がどんどん明るくなっていく。火だ。赤々と燃えているのだ。
「兄さん! ヘンリー兄さん!」
開きっぱなしの玄関扉へ向かってシャノンは大きな声で呼びかける。構わずに中へ入ろうとするシャノンを止めたのはアーネストだった。
「火が迫ってきている。危ない」
「でも、兄さんが」
メアリはあのまま玄関まで走って逃げ出した可能性が高い。自分で火を放ったからには焼け死なないよう最善を尽くすだろう。したたかな人だから。しかしシャノンが気になったのはずっと姿を見せないヘンリーだった。口封じか、邪魔になったか、いずれにせよもしどこかに拘束されていたら、屋敷とともに燃え死んでしまう。
その時、声がした。
「はなして! ねえだれか助けて! だれかあっ!」
甲高い女の声。
アーネストが一瞬苦悩するように考え込み、そして顔を上げたあとは屋敷の中へ飛び込んでいった。シャノンもそれに続く。
燃える上がる屋敷の廊下に、誰かが倒れている。ひとりではない。背中にナイフが刺さり、服を血で濡らした男がメアリに覆いかぶさっていた。
「ヘンリー、兄さん……」
ヘンリーは暴れるメアリを逃すまいと必死に押さえつけているようだった。どうしてそんなことになっているのか、シャノンには状況がわからない。
シャノンやアーネストの存在に気づいたのか、ヘンリーは顔を上げた。そして大きく目を見開き、断末魔のような大声を上げる。
「今ここで、ヘンリー・ライランスは罪の告白をする! ケイト嬢の侍女、ダフナを殺し階段から突き落としたのはこの私だ!」
兄さん、とシャノン口から弱々しい言葉が漏れた。
「死体の隠匿を指示したのも私であり、妹は無関係だ! 一連の事件に関して妹シャノンにはなんの咎もない!」
突然の宣言にアーネストたちが息をのむ。しかし火の手は構わず彼らに迫っていた。
「はなして! あ、熱い、いやあああああっ!!」
屋敷を支配しようとする炎がついにふたりへ触れた。メアリの絶叫が邸内に鋭く響く。
「兄さん、早く逃げないと死んでしまう!」
炎で遮られながらも手を伸ばし必死に叫ぶシャノン。その様子を見て、ヘンリーは力なく笑った。目の焦点があっておらず、意識も限界を迎えているのかもしれない。
「すまない、シャノン……おまえを大事にできなかった……どこまでも不出来な兄だった」
今にもこと切れそうなヘンリーの目に涙が浮かぶ。そしてヘンリー最後の言葉は、真下にいるメアリへ注がれた。
「愛しているよメアリ。例えおまえが悪魔のような女でも。共に地獄へいこう」
「いやよおおおお、やめてええええっ!」
絡みつくヘンリーを振りほどくことができず、メアリもまた炎にのまれていく。
「いやああああああ誰かああああああああ!!」
メアリの絶叫に吸い寄せられるようふらりと一歩踏み出し、アーネストに止められる。メアリたちだけではなく、すでに屋敷全体が燃えさかりあらゆる道を塞いでいた。煙と肌を焼く熱気がこちらにも迫ってくる。
「だめだシャノン……もう、助けられない。俺たちも逃げないと」
それでも動かないシャノンを抱え、アーネストは走った。
ウィリムの待つ馬車のなかへシャノンを押し込むと、ここから絶対に動くなと言い含めた。そして様子を見に来た近隣住民に「消火を手伝ってくれ!」と頼み、フィンもアーネストも明け方まで屋敷の火消しに奔走したのだった。
ひっそりと静まり返った夜空を背に、明々と燃え盛るライランス家の屋敷は多くの人に目撃されていた。ライランス家に住みつく悪魔のしわざか、それとも悪魔を燃やす浄化の炎か、それはしばし町の人たちの話の種になったという。
◆◆◆
シャノンがあの屋敷から持ち出した封筒。
その中身はバンクシー医師のサインが書かれた死亡診断書であった。ケイトとダフナのふたり分。どちらも原因は違えど第三者から加害を受けての死亡と書いてあった。しかし書いたあとに破棄しようとしたのか、紙面全体に大きくバツと印してあった。バンクシー医師はなにか思うところがあってこれをシャノンに託したのだろう。
屋敷の火が消え、ひとまず解散となったころには朝日がのぼっていた。
へとへとになって帰ってきたアーネストにシャノンはその紙を渡す。彼はおどろいて見入り、そして礼を言った。この書面があれば、行方不明ではなく殺人事件として起訴できるだろうと。犯人はもう、この世にいないけれど。
シャノンはひとつの疑問を口にする。
「死んだ人がお墓に入るときって、どうするの」
「医師か役人が書いた死亡診断を持って教会へ行く。一緒にお布施を渡すと受け付けてもらえる」
するとシャノンは近くの教会へ連れて行ってほしいと訴えた。
そこはシャノンが前夜に祈りをささげた教会だった。朝にまた現れたシャノンたちに司祭は驚いたが、シャノンのお願いには度肝を抜いていた。墓を掘って死体を見せてほしいというのだからさもありなん。
「バンクシー先生は、きっと新しく診断書を書いている。ケイトとダフナの名前じゃなくて適当に書いた名前かもしれない。ヘンリー兄さんたちはそれで二人の遺体をここへ埋葬させた可能性がある」
教会で調べてもらうと、ふたりが死んだ翌日に確かに若い二人女性の遺体を受け入れていた。「だとしても」と嫌がる司祭にフィンが何かを渡すと、しぶしぶ墓の蓋開けを了解していくれた。
「……ここに眠っていたんだね。早く見つけてあげられなくてごめんね」
静かに横たわるケイト。そしてダフナ。
変わり果てた姿なれど、ふたりの発見にアーネストとフィンは涙を浮かべのであった。
◆◆◆
「一緒に暮らそう。俺が見ていないと君はすぐに死んでしまいそうで怖い」
一連の事件が明らかになってしばらく経ったころ、アーネストはシャノンにそう告げた。
しかしシャノンはシスターとして教会へ身をおくと言い、アーネストの申し入れを断った。教会で日々奉仕をし、人々の苦労に寄りそい、世間を知りたいというのはシャノンの本心だ。それに、悲惨な事件の中心にいた人物でもある。今回の件で重い罪に問われることはなかったけれど、遺族になるアーネストたちとは離れたほうがよいと思った。いつまでもアーネストのそばで甘えて迷惑をかけるわけにはいかない。
フィンにもそのつもりでいなくなると言ったのだ。ちらりと彼の方を見ると、苦虫を嚙み潰したような表情をしていた。アーネストの親切な言い分にそらきたと思っているに違いない。
しかしアーネストも簡単には引き下がってくれなかった。
「事件のことで色々思うことがあるのは理解する。だがわざわざ教会に身をおかなくてもいいんじゃないか」
「ううん。わたしがそうしたいの」
「俺はいやだ」
「あなたにいやと言われるとつらい」
「……しかし」
「おねがい」
人々に触れ、世間のことを知りたいと思うのも本心だが、シャノンにはもうひとつ目的がある。ケイトやダフナ、兄たちの安らかな眠りを神の御許で祈りたいのだ。たぶん、誰からも顧みられないだろうメアリのことも。
「アーネスト。いろいろ親切にしてくれてありがとう。ライランス家のことも」
ライランス家にまつわるごたごたを片付けようとしてくれるアーネストへ、シャノンはライランス家の資産を全て譲った。額が多すぎると本人から叱られたが、これまでの迷惑料もかねているし、シャノン自身資産をどう扱っていいかわからなかったのも大きい。父や兄にあった財を成す才能はシャノンにはないのだろう。アーネストは不当な解雇を突き付けられた使用人たちにもフォローをしてくれるというので、いくら頭を下げても感謝が尽きない。
「では三年後。三年経って俺が君を忘れられなかったら迎えに来ていいか」
「……変なひと」
「返事を聞かせてくれ」
「……うん。あなたがそうしたいなら」
それで嬉しそうな顔をするアーネストはやっぱり変な人だ。
でも母やメアリとは違う温かさをくれる。
「アーネストのこと、好きだよ」
フィンも好きだし、ウィリムも好き。
そこまで言うとアーネストが困ったように笑った。
かつてライランス家の悪魔と言われていた少女が神の前でこうべを垂れる。その姿を見て悪魔の名を思い起こすものは誰一人としていないだろう。
願わくば人々に幸福な暮らしと、死後の安らかな眠りを。
たくさんの死と悲しみを背中に抱え、今日も神の前でシャノンは祈る。
「シスター、お客さんですよ」
こんな時期に客とはどういったことだろうと疑問に思ったが、応接室で顔を合わせたとたんに笑みがこぼれてしまった。その美しさに周囲の人間が思わず息をのむ。
「本当に、変なひと」
毎日が生を実感し、新しきを知る暮らしである。
月日が経つのは早いと、シャノンはまたひとつ世を知ったのであった。