26話 訃報、そして逃走
シャノンが隠れ家を飛び出したのとほぼ同時刻。
アーネストは王都内にある兄ディーンの執務室に呼び出されていた。父が使っていた執務室をそのまま譲り受けており、重厚感のある机や書棚が光沢を放っている。きぃと椅子を鳴らしながらディーンはアーネストへ向かいあった。
「ライランス家の当主、ダグラス殿が療養地で亡くなったそうだ。長子の訃報を聞いてから一気に容体が悪化したらしい」
予想外の知らせだった。まさかこのタイミングで。
「共同事業は一時的に凍結させる。損失を抑えるためにも目処が立ち次第再開させるつもりだが、あちらの状況によっては大幅な計画の見直しが必要だろう。その時にはアーネストにあちこち奔走してもらうことになる。頼りにしてるよ」
「わかった」
ディーンは兄であり父の後継者であるが、だからといってへりくだった態度をとったことはなかった。互いに実力を認めて対等な関係を結んでいる。
そのディーンがにやりを目を細めた。
「ところで、また拾ったらしいな」
「……そんな犬猫のように言うなよ」
拾ったと揶揄されるのはこれが初めてではない。どうにも見かねて手をかすことが重なって、結果的に面倒をみている人間が何人かいる。隠れ家で住み込みの管理をしてくれるウィリムもそうだ。ディーンにシャノンのことは報告していなかったが把握しているらしい。気まずさが込み上げる。
「困っている人間に手を差し伸べるのは美徳だがちゃんと責任を持てよ。いくら金があろうと、他人の人生を抱え込むのは茨の道だ。ウィリムと言ったかな、あの少女はどうした」
「メイドとして雇ってるよ。よく働いてくれてる」
「情がわきすぎて結婚すると言い出さないかヒヤヒヤしているのだが」
「それはない。召し抱えた人間は他にもいるし、みな有能な人材だ。本人の意向を無視して縛り付けることもしない」
ならいいが、とディーンは一度視線を落とした。そして先ほどまでの柔和な雰囲気をかなぐり捨て、冷徹な視線を真っ直ぐに向ける。
「拾った子猫はそのまま監視しておけ」
強い命令口調だった。
「そしてケイトの体を探しだせ。殺人を立件するには死体がいる。身内でなあなあにされる前に、ケイトとダフナを見つけなければいけない」
まっすぐに見つめる瞳の奥には怒りがある。
死体がないとかいうふざけた状況に腹を立てているのはアーネストも同じだ。ディーンは私刑ですまさず、殺人事件として真実をさらけ出して法の裁きを下そうとしている。そのためにもケイトたちを探し出せとアーネストに訴えた。
「妹を殺したやつを俺は許さない。たとえそれが弱った子猫でもな」
言わんとすることは理解できる。アーネスト自身も同じ考えだ。しかしそれとは別に心がざわつく。
「絆されるなよ、アーネスト」
「姉さんは必ず見つけだす。でもあの子をどうするかは俺が決める。口出しはさせない」
ディーンの片眉が訝しげに上がる。
しばしの沈黙があった。互いに視線をそらさないまま緊張感が辺りを支配し、時間の感覚が徐々に狂っていく。
先に降参したのはディーンだった。
「……メアリ・ロスメル嬢について、事情を知っていそうな人間を探し出した。なかなか口が重いようだからうまくやってくれ」
「わかった」
そこで兄との会合は終わった。妙に疲れを感じながら建物の外へ出ると、隠れ家にいるはずのウィリムが血相を変えて目の前へやってきた。
「アーネスト様……お嬢さまが……!!」
◆◆◆
シャノンは自分の体力のなさを見誤っていた。少し走っただけで息があがり、肺が痛い。
幸いすぐに追いかけてくる人はいなかった。住宅街の入り込んだ路地に隠れ、物陰で息をひそめながら体を休める。はっはっ、と浅く短い呼吸を繰り返し、気管支の痛みをのみこんだ唾でごまかす。
靴を履いていないので足の裏も痛かったが、いつまでも止まっているわけにはいかない。足腰を叱咤しながら立ち上がった。住宅街を抜ければ広場を中心として店などが並ぶ大きな区画がある。そこから西に続く道をとどっていけばライランス家につくはずだ。
大通りにでたら隠れる場所が限られてくる。
その前に辻馬車をつかまえることができたら。
シャノンは走った。
体が悲鳴を上げてもなお走った。
迷路のような暗い路地を抜けて、大通りの光のすぐそばまで来たとき、足がふらついた拍子に誰かにぶつかってしまった。シャノンはそのまま地面に倒れこんでしまい、すぐに起きあがることができない。
「ご、ごめ……なさ……い……」
もはや苦痛となった呼吸のあいまに謝罪の言葉をならべる。もう手足が言うことをきがず、立ち上がることもできない。力なく巻かれたストールの合間から長い髪がこぼれた。メアリがきれいだと言って櫛で梳いてくれたシャノンの髪。顔は見えずとも日の光で金色に輝く長い髪に男たちが反応した。
「なんだぁ、女かぁ?」
「新手の客引きかもしんねーぞ。相手すんな」
「美人だったらかまわねーさ」
建物の影でたむろする男たちにぶつかってしまったらしい。
立ち上がって逃げたい。けれど、糸の切れた人形のように体が動かない。空気が足りず、はあはあと必死に呼吸をしてもそれすら苦痛だ。そして意味のわからないが男たちの会話がおそろしくてたまらなかった。
ストールがはぎとられ、容赦なくシャノンを日の元に照らす。弱った体で地面に転んだまま、怯えた青い瞳が三人の男をとらえている。その被虐的な様子に誰かが喉をならす。
「かわいそうに倒れこんじまって。でもこれ娼婦じゃねえだろ。どっかから逃げてきたのか」
「俺らで飼うとかどうよ。ほら、あそこの倉庫に空き部屋あるじゃん」
「上等なメイド服だな。これだけ売っても金になりそうだ」
男の一人がかがみ、横たわるシャノンへ腕をのばした。ひっぱり上げようとしたのか、腕を掴む力が強くて痛い。そのまま取れてしまいそうだ。
「その子、病気だよ。ヘタに触るとうつる」
「は?」
いつのまにか男がひとり立っていた。二十代半ばだろう。無精ひげのはえた疲れた顔が三人を見下ろしている。
「うちから逃げ出したんだよ。アンタたちが身請けしてくれるんなら値段の相談にのるけど。病気だけど血筋だけはいいんだよね。ちょっと高いけどどう?」
手で示すジェスチャーはなにかしら金額を示すものだろうが、シャノンには分からない。男の言っていることを遅れて理解したのかシャノンを掴んでいた手がぱっと外れた。三人は視線をいくつか交わすとバツが悪そうにこの場を去っていく。
まだ力が入らない。動けない。情けない気持ちと恐怖と不安で身を震わせていると、盛大なため息がシャノンの上に落とされた。
「なにをやっているんですか」
その声にのろのろと視線をやる。逆光でよくみえなかったが、シャノンはその顔に見覚えがあった。
「……バリー?」
「ええそうです」
ヘンリーの補佐官をしていた男が、なぜかシャノンを見下ろしていた。羽虫でも見るような、とても冷たい眼差しで。