25話 イアンという兄
思えば、イアンは兄として絶対的な存在だけれど男としては最低だった。
それでも打ちのめされていたシャノンに喝を入れ、立ち上がる勇気をくれたのはイアンだ。
ケイトに指摘されメアリに女だと知られたあの日。狼狽するシャノンを抱えてイアンはひと目がつかないよう捕まえた辻馬車に放り込んだ。涙と鼻水で濡れた顔をハンカチで乱暴にかき混ぜられる。
「……なあシャノン。母さまの呪縛からやっと解放されたのに、また繰り返すのか?」
なんのことを言われているのかシャノンには理解できなかった。
もしかしてメアリのことだろうか。メアリとシャノンの関係は不健全に見えるのだろうか。シャノンはメアリのことが大好きで、嫌われたくなかった。必要とされていたい。そうじゃないと自分の体を支えていけない。それは不健全なこと? がたがた揺れる馬車の座席に身を沈めながら考える。
「おまえは自己肯定感が低すぎる。俺くらい高くなれとは言わないが、もっと自分のことを好きになってやれよ」
「自分を好きに、なる……?」
「そう。俺は自分のことが大好き。かっこいいしおもしろい。夢は自由に生きることだ。自分が好きだったり強い信念があると、それがその人の軸になる。おまえはどうだ? 自分の大事な軸を他人のなかに作っていないか?」
それじゃ振り回されるに決まってる、とイアンは言い切った。
「いちばんの味方はいつだって自分なんだ。いざっていう時に頼りになるぞ。だから好きになってやれ。嫌いなやつより好きなやつに側にいてもらった方が頑張れるだろ」
「……わからない。自分のこと、なにも」
男か女か自分でもよくわからなくてイヤなのに、好きになんてなれるの?
仕方ないな、となぜかイアンはシャノンを膝の上にのせて強く抱きしめた。偏った重みで馬車がぎしりと揺れる。目が点になった。なにが起こっているかわからない。イアンがつけている香水を間近で感じて、苦しいくらいに腕のなかに閉じ込められている。こういう時にはハグが効くと言われてもシャノンにはまったくピンとこない。
「おまえは頭がいい。難しい本をいくつも読める。これはすごい事なんだぞ? 顔もかわいい。カッコいい顔にも見える。ちょっと痩せすぎだがスタイルもいい。将来はいい女になるよ、俺が言うんだから間違いない。おまえがもし嫁に行くとか言い出したら俺は相手に決闘を申し込みにいくだろうな」
赤子をあやすようにシャノンを揺らしながらイアンは続ける。強張った体が徐々にほぐれていった。優しい言葉が体温で溶けてしみ込むように、じわじわとシャノンの心に入っていく。
「慎重なのはいいことだ。いろいろ考えてるってことだからな。あとはほら、血筋もいいぞ。そのキレイな金髪碧眼もよそじゃ羨ましがられるからな。こんなカッコいい兄さんが二人いることも誇っていい」
シャノンの口から小さな苦笑がもれる。
「いいか、おまえ自慢の弟だよ。……いや妹って言った方が嬉しいのか? とにかく自信を持て。俺もヘンリーも、おまえのことを心配してる」
元気づけてくれているとようやく分かった。顔が自然と笑顔になっていく。
「ありがとう。でも、ヘンリー兄さんは……たぶん僕のこと、嫌ってる」
「そんな事はない。アイツは度胸がなくて周りの目を気にしてるから優先順位がはっきりしているだけで、おまえはちゃんと大事な人リストに入ってる」
嫌われてるのは俺の方だとイアンはからからと笑った。
「それはイアン兄さんが悪いって聞いた」
「俺も若かったんだよ。本当にあの時は悪いことをした」
「……今は?」
ふいっと視線をそらしたイアンにもはや信頼はない。
イアンは調子がいい男で、どんなに歯が浮くような恥ずかしいことでもペラペラと語ってしまう。女の人はそれですぐに騙されてしまうといつの日かヘンリーがこぼしていたのを覚えている。あいつから褒められても話半分に聞いた方がいいとも言っていた。
だからこれも調子のいい男がリップサービスでぺらぺら喋っているだけ。本気にしてはいけない。きっとみんなそう言う。
「ちゃんと覚えておけ。兄さんたちはおまえの事を愛してる。俺らは本当にロクでもない人間だけど、おまえを大事に思ってる」
抱きしめられたぬくもりにまた涙がでそうになる。
優し気にほほ笑んで、本当に調子がいい。
「だから強くなれ」
それでもシャノンにとって、兄の言葉は絶対的な指針だった。
◆◆◆
結局、アーネストは屋敷に戻りたいというシャノンの願いを許してくれなかった。まだシャノンの体調が戻らないからと言われたけれど、もう歩いてまわれるぐらいは復活している。
アーネストは親切な人だと思う。距離感が少しおかしい時があるけれど、別にイヤじゃないし、自然と受け入れているところがシャノンにもある。
拾った子猫を途中で投げだせないのと一緒なのかもしれない。保護対象がいくらぴーぴー鳴いたところところで心配から手放すことはないのだろう。
だったら、自分の足で戻るのみだ。
アーネストが隠れ家と呼ぶこの家。彼が滞在する時間はかなり限られている。ずっといるのはウィリムともう一人の男の人だけだろう。どちらも住み込みで、二人そろって家を開けることはなさそうだった。
少し動きたいとウィリムに言えば家の中を案内がてら歩かせてもらった。足は問題なく動く。家の間取りを頭に入れながら、彼女たちの仕事時間を把握する。
必ず逃げ出す隙があるはずだ。
そこを狙ってこの家から脱出する。
幸運なことに、リビングと思われる部屋の壁には辺りの地図が大きく張り出してあった。ライランス家のお屋敷は中心地区から西にのびる通りをまっすぐ行けばいい。部屋の窓から見える大きな時計塔がこの中央広場にある時計塔と一緒なのだとしたら、この隠れ家は広場の東にある住宅街の一角にあるのだろう。
朝日が昇るを方向を確認してそこからわりだした方角を地図と合わせると、なんとなく目指すべき方向が定まった。
必要なのは顔を隠すストールと、街に紛れても溶け込む服。窓の外から眺めていた風景を思い出せば、ウィリムのメイド服でも大丈夫だろう。体型は似ている。
懸賞金をかけられているとアーネストは言っていた。うまくいけばライランス家に連れて行ってくれるだろうが、生死問わずだとしたら手っ取り早く命を狙ってくる輩もいるはずだ。
辻馬車をつかまえることができたらそれが一番いい。イアンと乗ったときは行き先を告げて、降りるときにお金を払っていた。屋敷までついてしまえばきっとどうにかなる。
(……怖い。本当はここにずっといたい)
震える指先を抑えながら、ウィリムの部屋から拝借したメイド服に腕を通していく。彼女はいま台所で夕食を作っていてしばらく離れない。もう一人の男の人は部屋でなにか作業をしているはずだ。裸足になって足音を消しながら階段をゆっくり降りていく。
(でも、メアリに会わなきゃ)
玄関の扉には鈴がついている。来客を知らせるためのもので、これが鳴ったら二人のうち誰かがのぞきにくるだろう。音を消す方法を考えたけれど諦めた。もたもたしてバレるより、音を最小限にして一気にここを離れることに賭ける。
(今ならまだ間に合う。……ごめんアーネスト)
ちゃりんという鈴の小さく軽やかな音とともに、シャノンは外へと飛び出した。