20話 逃がす者と追う者
馬が一頭いなくなってしまった。それが何を意味しているのかを察して、シャノンは体を震わせる。その後も従者と何か会話をしているようだが、もうシャノンには何も耳に入らない。
(メアリはすごく機嫌が悪い。いつもみたいに部屋へ来て、僕……わたしがいなくなったのに気がついたんだ。わたしのことを探してる?)
不謹慎ながらも嬉しさが込み上げる。
理由はともあれ、メアリはシャノンがいなくなって困っているのだ。
ふいに、シャノンを捕まえていた腕の力が緩んだ。もうメアリはどこかへ行ってしまったらしい。毛布がめくられると外の明るさ目に沁み、息苦しさから新鮮な空気をたっぷりと吸い込む。もう陽の角度からして昼に近いのかもしれない。
頬に大きな手が添えられたかと思うと、ゆっくりと上を向かせられる。目の前には確かにあの時の男の人がいた。
「俺はアーネスト。きみの名前は?」
上から覗き込む瞳は薄い灰色で、優しくシャノンを見つめている。敵意は感じられない。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、心が揺らいだ。
目の前の人が味方になってくれて、万事うまくいく。そんな都合のいい未来を想像してしまって、すぐにありえないとばっさり切り捨てる。
「……」
たかが名前だろうと答えることはできなかった。相手の目的がなにかわからない以上、下手に情報を与えるわけにはいかなかない。助けられたとは言えこの状況にも納得がいっていない。
睨むように見返すと、アーネストは困ったように小さく息を吐いた。
「なにも言わないか……」
アーネストは手櫛で雑に髪を整えながらベッドから出ると、すぐ横に備えてあった椅子に腰を下ろす。まるで一晩中そうしていたかのように、ベッドのそばでシャノンを見つめる姿は様になっていた。
無造作に開いたシャツの隙間からは健康的な肌が見え隠れする。ヘンリーより日に焼けていて、社交的というか外によく出る生活をしているんだろう。男らしくて、余裕があって、何も持っていないシャノンには羨ましいくらいだ。
「顔立ちはライランス家の上の兄弟によく似ている。加えて明るいブロンドの髪にその青い瞳。シャノン・ライランスで間違いないな」
「……」
相手はシャノンが何者かわかった上で部屋から連れ出している。目的があるはずだ。警戒心から自然と眉間にしわがより、相手を威嚇するように睨みつける。
やがてアーネストのまとう穏やかな態度が変わった。灰色の眼差しには鋭い光が宿り、シャノンを真上から縫い付けるような力強さがあった。もう甘い仮面は外すらしい。
「今日この屋敷からきみを連れ出す。これはきみの安全を確保するためであり、ひいては姉であるケイト・リパーキンの捜索のためだ」
抵抗しないでくれると助かるよ、と含みのある笑顔でアーネストは言う。悲しいかな、シャノンには抵抗する気持ちも体力もなかった。しかし積極的に情報を開示する気にもなれなかった。
彼が探しているケイトはもう死亡しているという事実に改めて胸が痛む。侍女のダフナも、きっと苦しい最後を遂げただろう。彼女たちが今どうなっているかはシャノンにはわからない。おそらく遺体は隠されている。その死が冒涜されていないよう祈るばかりだ。
ケイト、ダフナ、イアン。
そっと目を閉じて亡くなった三人の死を悼む。
「……まだしばらくは体を休めるべきだ。ゆっくりおやすみ」
大きな手がシャノンの頭を撫でる。
先ほどまでの高圧的な物言いはどこへやら。傷ついた子犬か猫かに接するように、声も手つきも慈しみにあふれたものだった。
◆◆◆
幼いシャノンにとって兄とは日常をかき回す暴風のような存在だった。
いきなり現れて楽しそうに手を引くイアンとその横でぶすくれるヘンリー。強引に遊びに誘うのはいいけれどシャノンは体力が続かず、見かねて声をかけてくれたのはいつもヘンリーだった。彼は内向的で気難しいけれど、いつも周りの状況をよく見ていた。イアンは「悪い」と笑ってシャノンの頭をぐしゃりとかき混ぜていた。明るくて、社交的で、太陽みたいな人だった。戸惑うことも多かったけれどシャノンにとってあの時間はかけがいのないものだった。
そして外にあまりでないシャノンにとって年上の彼らは絶対的な指針だった。彼らが暑いと言って袖をまくれば寒がるシャノンがおかしいのだろうし、夜の庭に探検に行こうと目を輝かせて言われれば怖がるシャノンがおかしいのだ。
母から異常な愛を受ける生活が始まってからは二人との交流はほぼなくなった。
それでもシャノンにとって二人の兄は特別だった。
知らない間に二人はみるみる大人の男になった。
高い身長にしっかりした肩幅。しなやかな筋肉のついた手足。広い背中。兄ながらカッコいいと見惚れたほど。
反対に、シャノンは歪になった。
女として生まれて、求められたのは男の振る舞い。幼い頃はそれでよかった。でもどうしたって体は男のようにならない。型に無理やり押し込めて、その結果が歪で中途半端で、母の期待に応えられなかった惨めなシャノン。
しかし自分が歪であるとは案外気付きにくいもので、他人から指摘されて初めてわかることがある。日々を過ごすうちに固まっていく価値観に疑問を抱くには何かきっかけが必要なのだ。シャノンの場合は兄たちだった。指針であった彼らがシャノンを否定するならば、それはきっと正しい。たとえどんなに残酷であっても。
『おまえ、女だよな』
『なんでまだそんな格好してるんだよ、おかしいぞ』
『母さまに言えよ。嫌だって』
『男になりたいのか?』
『信じられない』
『ぜったいに変だ』
『俺が言ってやる。こんな気持ち悪いことはやめろって』
『服持ってきてやるからまともな格好をしろ』
気持ち悪い……?
母さまは喜んでくれる。
母さまは笑ってくれる。
必要としてくれる。
愛してくれる。
だから自分なりに頑張った。
これは、気持ち悪いことなのか。
でもまともってなに?
過去の記憶がぐるぐると脳内で暴れる。
父とイアンの確執。後継者。ヘンリーの婚約者。イアン。不貞。嫉妬、僻み、劣等感。兄たちの仲に亀裂が入り始めたのはいつだったか。母の死。そして不信。
次々と流れる暗い記憶に息がつまりそうだ。
シャノンの意識は深く深く沈んでいた。途中で暗くなったり明るくなったり体が揺れたりと瞬間的な浮上はあったけれど、まぶたの重さには勝てない。
どれくらい時間が経っただろう。まどろみから覚めた時にはもう、そこは知らない場所だった。
「……ここは」
木目の見える低い天井。せまい部屋。簡素な内装。窓の外からはいろんな音が聞こえる。
「あ、目が覚めましたー?」
声をかけられた方を向くと、そこにはエプロン姿の女の子がいた。淡いブラウンの髪はウェーブかかっていて、肩口あたりの長さだ。同世代かもしれない。目を引くのは顔に巻かれた包帯だった。右側の目を完全に塞いでいる。
「あなたは」
「あたしはウィリム。アーネスト様からあなたをお世話するよう仰せつかりました」
ウィリムと名乗った少女はにこり笑ってお辞儀をした。アーネストからの指示ということはここは彼の管轄下にあるのだろう。
急に不安が襲ってきた。
ここはライランス家の屋敷ではない。眠っているあいだに運びだされたのだ。そういえば衣装箱にいれてどうのと聞いた気がする。
はたして自分はどういう扱いを受けるのか。ベッドに横たわったまま、シャノンは胃が冷えて重たくなるのを感じた。




