2話【灰色の世界に差す】
次の日の朝、メアリはさっそくシャノンの部屋へ行ってみた。静まりかえる部屋の前に立ち、コンコンと扉をノックしてみても反応はない。
「シャノンくん……あの、メアリです」
さすがに扉を開けることはできず、部屋の前で声をかけるのみだ。どれだけ待っても返事はなかった。
(昨日の状態を考えたら無理に入るしかないのかしら)
待っていてもシャノンが開けてくれる日は来ないだろう。次は昼食を運びがてら突撃しようか、なんて考えながら仕方なくきびすを返す。するとこちらへ向かって歩いている男の人が目に入った。
「おや」
背が高くしっかりした体つきの男の人だ。ヘンリーよりも年上に見えるが、髪が長く着崩した服からどこか軽薄な印象を受ける。思い当たる人物にメアリは慌てて頭を下げた。
「あ、あの、昨日からこちらでお世話になっているメアリと申します」
「弟の婚約者だね。オレはイアンだ。基本的に王立学院の研究室にこもっているけど、たまに帰ってくるんだよ」
よく見ると髪の先が濡れていて石けんのいい匂いがする。風呂上がりなのかもしれない。お互いに「よろしく」と言って握手をした。大きな手だった。メアリはすぐに離すつもりだったのに、イアンは手を握ったままふっと目を細めて笑った。
「かわいい子だね」
お世辞だとわかっているのにメアリの頬に赤みがさす。
「おっといけない、また悪い癖が」
イアンはパッと手を離し、「じゃあね」と手をふり行ってしまった。なんというか女性に手慣れた人という印象だ。
ヘンリーも美形だがイアンにはさらに色気のようなものがある。恐ろしい兄弟だと思いつつ、まだ見ぬ未子シャノンが気にかかった。
昨日見た部屋の中は真っ暗だった。カーテンを締めきり日の光を拒絶して、部屋から一歩も出ないような生活をしていれば体に不調をきてしていてもおかしくない。
(やっぱりメイドさんの代わりに昼食を運んでみよう。まずはちゃんと会ってみないと)
決心がつくと許可をもらうためにヘンリーの元を訪ねた。午後から出かけてしまうようなので、話をするなら今のうちだろう。彼は執務室にいるらしく使用人をつかまえて案内してもらった。重厚な扉をノックして用件を伝えると「入って」と奥から聞こえてくる。
机に向かい真剣な表情をするヘンリーはまた違った雰囲気をまとっていた。近寄りがたいというか、気を張っているのかピリピリしたものを感じる。しかしそこはあえて空気を読まず、にこやかに話を切り出した。
「あの、シャノンくんの昼食をわたしが持っていっていいでしょうか。その時に少しでもお話できればと思っていて」
ヘンリーは顔を上げないまま口を開く。
「かまわない。あとで使用人に連絡しておくよ。ありがとう」
「い、いいえ。こちらこそありがとうございます」
あっさりと承諾をもらってしまった。もう少しやり取りがあるかもと思っていたので拍子抜けだ。それに用件が終わったということは退室しなければいけない。しかしメアリはもう少しヘンリーと話をしたくて話題を探った。それは案外ぱっと思いついたのだが。
「さっきイアン様にお会いしました」
「……なんだって」
思いのほか硬い返事。瞬時にこれは失敗だと悟った。
シャノンの時とは違い、ヘンリーは手を止めてメアリを真っすぐに見たのだ。その瞳にも声にも苛立ちが感じられてメアリの背筋にひやりとしたものが流れる。会ったこと自体を責められている気がして、返す言葉を必死に探した。
「軽くごあいさつをしたら行ってしまわれたので、大してお話はしていないのですが……」
予想外だった。
これほどヘンリーの気に触るとは。
イアンとヘンリーの間には何か確執があるのかもしれない。今後イアンの話題は極力ださないようにと考えながらメアリは当たり障りのない返答を試みる。
視線が絡み、じっと見つめ合う。それはとても長い時間のように思えたが、実際には数秒だったのだろう。ヘンリーは「そう」とだけ言うと、また顔を手元に戻してしまった。
ライランス家の人間関係についてもう少し理解する必要がありそうだ。メアリは頭のなかにあるチェックリストに追記をしつつ、急いで執務室をあとにした。
◇◇◇
「シャノンくん、お昼を持ってきたので入りますね」
控えめにドアを開けると、キィィィと不気味な音が鳴った。部屋は相変わらず暗い。一歩、二歩とゆっくり中へ立ち入ると床に物が散乱していることに気づいた。昼食が載ったカートをいったん止めて暗闇に目を凝らす。
「……シャノンくん?」
奥にかろうじてベッドのようなものが見えた。カートはその場に置いてそろりと足を踏み出すと、ベッドへ近づいていった。自分がどんどん闇に飲まれる感覚に陥る。足元に散らばっているのは本のようだった。こんなに暗くては文字も読めないだろうに。そんなことを考えながらメアリはようやくベッドへ手が届く場所まで来ることができた。
「シャノンくん、もしかして具合悪いの? 大丈夫?」
ベッドの上でもぞりと塊がうごめく。
「暗くてよく見えないから、カーテン開けるね」
お伺いを立てればきっと断られるだろうから先に手を動かした。ずいぶんと締め切ったままだったのだろう。外から入ってくる明かりに反射してホコリが舞っているのが見えた。
カーテンを開けても北側の部屋に直接日の光が差すことはなく、外の明るさが間接的に照らしているだけだ。それでもさっきの暗闇よりはぜんぜんいい。
「お昼ごはん持ってきたの。一緒に食べない?」
「……やだ」
やっと聞こえた声は泣きそうなのを必死に堪えているようだった。毛布にくるまったまま顔をを出すこともないが、昨日みたいに攻撃的ではないのでもう少し様子を見ることにした。
「ベッドに座ってもいい?」
「……」
拒否の言葉は聞こえなかったのでメアリはそろりとベッドの端に腰を下ろした。
「わたしメアリって言うの。あなたとお話したいと思ってここへ来たんだけど……それよりもあなたの体が心配だわ。ごはんはちゃんと食べてる?」
カートに乗っていた食事はポタージュのようなスープとパン、それにカットされた果物だった。聞けば用意してもあまり食べないようで、それでも喉が通りやすいよう食事が工夫されている。料理人の心遣いか、あるいは指示した人間がいるのか。
毛布がうごき、隙間からシャノンの目元がのぞいた。暗がりの中でも、その青い瞳に怯えが混じっていることがよくわかる。
メアリは敵意がないことを表明するために優しくほほ笑んだ。やや間があって、もぞりと毛布が動く。
「……僕」
「ん?」
また声を聞かせてくれるようだ。
耳をすませてじっと待つと、あの細く小さく泣きそうな声が必死に言葉をつむいだ。
「……僕のこと見ても、笑わないで」
心からの叫びなのだろう。
メアリは「わかったわ」と静かに応える。
「だ、大丈夫って、あんまり聞かないで」
「うん、わかった」
「大きな声で怒鳴らないで」
「うん」
シャノンが安心できるよう、メアリは落ち着いた口調でゆっくりと言葉を返す。
「他にはなにかある?」
毛布の中から喉の奥からしぼりだすようなうめき声が聞こえる。きっと伝えたいことは他にもたくさんあるに違いない。
「近くにいってもいい?」
またしても拒否はでなかったのでメアリは毛布のかたまりのすぐ隣へ移動した。きっとシャノンは子猫みたいに丸まっている。メアリはその背中にそっと触れた。それからゆっくりと毛布ごしに背をなでる。ゆっくりと、優しく。
毛布のなかでシャノンが小さく嗚咽をもらしているのがわかった。
「今のままじゃダメだって、僕もわかってる。でも……怖い」
シャノンは泣いていた。
「うん」
まずはこの子に寄り添うことから始めよう。
暗がりに差し込む薄い光がメアリを照らす。見る人がいれば、その姿はさながら聖母のようだとこぼしたかもしれない。