1話【彼女にとってそれは】
よくありそうな感じからはじまりますけど少々怖くなります。ご注意ください。
拝啓 お母さま
このお屋敷には悪魔がいます。
とてもおそろしい悪魔です。
◇◇◇
メアリはこれからお世話になるお屋敷を見上げた。
歴史を感じさせる立派な建物。正門から続く美しい石畳の周囲には手入れが行き届いた芝や庭木がみずみずしい葉をゆらしている。さわやかな風がとても気持ちいい。
「すてきなお屋敷ですね」
「気に入ってくれたのならよかった」
そう言って出迎えてくれたのはメアリの新しい婚約者であるヘンリーだった。彼は言葉づらこそ優しいものの、態度はそっけなく、メアリの手を引くこともせずに先へと屋敷へと行ってしまう。置いていかれないようにメアリは急ぎ足で追いかけた。
ヘンリーはメアリのことをよく思っていないのだろう。前の婚約者のことで色々あったし、社交界で広がるうわさを真に受けているのだとしたらメアリのことを男好きで奔放な尻軽な女と思っているはずである。だとしたら毛嫌いされるのも仕方がない。
(ちがうのになぁ……)
少しだけ悲しい気持ちで足を動かす。
これから一緒に過ごすのだからできるだけ仲良くしたい。追いついたメアリがこっそり息を吐いているとヘンリーが声をかけてきた。
「知っているかもしれないが、あなたをお呼びしたのは……弟の話相手になってほしいからだ」
「はい、うかがっています」
それはメアリも両親から聞かされていた。この滞在は新しい婚約者との親睦を深めるというより、弟の世話をすることが求められているようだ。少しだけ残念な気持ちは心の奥にしまって、それ悟られないよう明るくふるまった。
「昔から気難しくて今は部屋から出てこない。手はかかるかもしれないが、よろしく頼む」
つい屋敷へ足を踏み入れる。玄関ホールを抜け、ヘンリーに連れられるまま奥へ奥へと進んでいった。きっと例の弟の所へ連れて行かれるのだろう。プライベートルームにしては珍しく一階の北側に位置していて、そのせいか昼間でも廊下は暗く冷えびえとしている。
ひとつの扉の前でヘンリーが足を止める。
軽くノックをすると返事を待つことなくドアを開けた。部屋の中は廊下よりも暗かった。おそらく重いカーテンですべての窓を覆っているのだろう。光源を用意しなければ足元もおぼつかない。
「……だれ」
部屋の奥からか細い声がした。
ヘンリーの弟は名をシャノンといい、今年で15歳になると聞いている。ヘンリーと比べるとまだ幼いようで声も子どものようだ。メアリは一歩前へでて暗闇に向かい自己紹介をした。
「このたびヘンリー様と婚約しましたメアリです。しばらくこのお屋敷に滞在させてもらうことになりました。どうぞよろしくお願いしますね」
暗い部屋のなかでもぞりとなにかが動いた。しかしそれ以上はなにもなく、メアリに対しての返事もない。もしかして聞こえなかったのかもと思い、さらに部屋へ足を踏み入れる。
「シャノンくん、あの……」
「僕のことは、ほっといて」
同時にガシャンッと大きな音がなりメアリの足元にブリキの水差しが転がる。どうやらシャノンが投げつけたらしい。見かねたヘンリーが苛立ちまじりに息を吐く。
「癇癪を起こすな。メアリはおまえの話し相手として来てもらった」
ぴしゃりと叱りつける声に部屋はとたんに静かになる。
「明日からだ。いいな」
返事は何もない。ヘンリーもそれ以上は何も言わずに部屋をあとにした。
シャノンはもともと内向的で人見知りも激しく、面倒を見ていたのは母親であるマーガレットただひとりだったそうだ。この母と末息子は仲睦まじく、二人で観劇や小旅行に出かけたりしていたとメアリも聞いたことがあった。その彼女も一年ほど前に亡くなり、シャノンは引きこもりに拍車をかけた。
「あの調子で使用人も部屋に入れず困っている。きみに押しつけて申し訳ないと思うが……」
眉根をよせ難しい表情をするヘンリーに対し、メアリはふわりと笑みを浮かべる。
「せっかくいただいたお役目ですもの。時間はかかるかもしれませんが、がんばります」
メアリが前向きだったのが意外なのだろうか。しばらくしてヘンリーは力が抜けたような笑みを浮かべた。もとが整っている顔なだけに、メアリの胸が思わず高鳴る。
(……笑ったお顔ははじめてかも)
シャノンの件は幸先好調とはいかないけれど、ヘンリーとの関係も含めてこのお屋敷ではうまくやりたい。メアリは決意を新たにした。
◇◇◇
メアリがこれから滞在するライランス家は古くから貴族の称号を持った資産家である。先代までの財政は傾いていたのだが、当主であるダグラスはその商才をもって栄華をよみがえらせ、妻との間に三人子どもをもうけた。長兄イアン、次兄ヘンリー、そして末子のシャノン。まだ代替わりはしていないが最近は体調を崩すことも多くなり、ダグラスは保養地で静養していて今は不在だという。
長兄がいるものの、この家を継ぐのはヘンリーだ。ダグラスの才能を引き継ぐ若き貴公子はメアリをその婚約相手に選んだ。先日の婚約破棄騒動でメアリの名にはいろいろと傷がついているが、家格のつりあった年ごろの娘となれば候補は絞られてくるので仕方がないのかもしれない。
客室に案内され、夕食にまた会おうとだけ言ってヘンリーは去ってしまった。先ほどは笑顔を見せてくれたがやはり心の距離はまだまだあるようだ。
荷解きをしてしばし体を休める。
馬車での移動もあって想像以上に疲労していたらしい。目を閉じると、先ほどのシャノンとのやりとりが思い出される。
『ほっといて』
シャノンが潜む暗闇はメアリを拒否する。
メアリに求められていることはあの子と仲良くすることだ。頑張るとは言ったものの、きっとひと筋縄ではいかないだろう。
夕食の時間はヘンリーと二人だった。
当主のダグラスは不在、シャノンは変わらず部屋から出てこない。長兄のイアンは商売よりも研究が好きという変わり者で、今日も屋敷には帰ってこないそうだ。
立派な食堂でも席に着くのが二人ではなんだか寂しく感じる。かつては家族五人で、時には客人も加わってにぎやかな食事を楽しんだに違いない。
ヘンリーはあまりおしゃべりではなさそうで、かと言ってメアリもたくさん話すタイプではない。静かな空間でカトラリーのカタカタという音が響いていく。そろそろ食事も終わりだと思っていたところでヘンリーがやっと口を開いた。
「……つまらないだろう」
彼の表情は無に近い。
先ほどのセリフが指しているのはこの雰囲気だろうか。聞き用によってはこの屋敷のことにも、ヘンリー自身のことのようにも思える。どちらにしたって「はい」とは言えないだろう。
「この落ち着いた雰囲気は好きですよ」
確かに思っていた状況とは少し違っていて、屋敷の中は人が少なく全体的に影を落としたように暗い。華やかな見かけの裏に、なにか問題が巣食っているのだろうか。それでもメアリはこの状況を悲観していなかった。
メアリが笑顔で答えると、ヘンリーの口角が少しだけ上がった。本当に、少し。
重要なのはシャノンだ。
明日からどうやって接しようか、部屋に戻ってからもメアリはあれこれ頭を悩ませた。