婚約者の居る人を好きになってしまいました
「シュザンヌ――――君に伝えたいことがある」
目の前の貴公子――――アントワーヌ様はそう言って眉根を寄せた。ヘーゼルの色合いをした瞳が揺れ動き、わたしを熱っぽく見つめている。ギュッと握られた手のひらが、信じられないほどに熱い。
「わたしは……アントワーヌ様とお話しすることはございません」
答えつつ、わたしはそっと目を逸らした。
本当は二度と、彼と会うつもりは無かった。会えば心が揺れ動く。苦しくなると分かっていたから。
(馬鹿だなぁ、わたし)
本当は苦しみと同じぐらい、アントワーヌ様に会えて嬉しいと思う自分がいる。馬鹿みたいに身体が熱くなって、涙が零れ落ちそうになる。振りほどかなければならないと分かっているのに、繋がれた手の温もりを噛みしめてしまう。
彼には――――わたしの他に婚約者が居るのに――――。
***
わたしがアントワーヌ様と出会ったのは半年ほど前のこと。
我が国の貴族は、16歳になると王立学園に通うことになっている。同年代の貴族達が互いに顔見知りとなり交流を深めること、貴族としての礼儀や責任感を学ぶこと、また将来文官や騎士、宮廷魔術師となる才のあるものを見出すことがその目的だ。
何よりも社交を重んじる国柄のため、学園内にはホールや談話室が山ほど存在し、連日社交界さながらの賑わいを見せている。会話の内容は流行りのドレスや髪型、化粧や香水、絵画や音楽、文学作品についてと非常に多岐に渡るのだけど、それらは基本的に、高位貴族の自慢話を延々と聞く場だ。高位貴族においては知識や財力を他人に見せつけること、下位貴族はそんな高位貴族を上手に持て囃すことが、それぞれに求められるスキルらしい。
けれど、わたしにはそんな学園生活が苦痛で堪らなかった。
どの派閥に属するのか、派閥同士の争い、好きでもないのに購入しなければならない宝飾品の数々――――正直言ってうんざりだ。
(ただ貴族に生まれたというだけで、本当に尊ばれる必要があるのだろうか? 自分で稼いだ金でもないのに、何故あんなにも偉そうにできるのだろう――――)
そんな風に思うあたり、わたしは元々貴族に向いていないのだろう。ある日を境に、わたしはサロン通いを止めた。
代わりに通い始めた場所が、学園内にひっそりと存在している図書館だった。
図書館には、古い歴史書や魔術書、小説なんかが置いてあった。サロンで紹介されるのは小難しい哲学書や学者の論文みたいな身の丈に合っていない文学書が多いけれど、ここは違う。大衆向けだったり、専門的だったり、ラインナップは様々だけど、誰かの機嫌を取るためではない、本当に読みたい本が揃っている。
そこでわたしは、将来に向けた準備を始めることにした。普通に結婚してしまったら、わたしに待ち受ける生活はサロンでのそれと同じになるもの。だから、若い頃の母と同じ職業――――宮廷魔術師を目指すために勉強を始めたのだ。
そうと決めてしまえば、周りの目や雑音は一切気にならなくなった。『変わり者』と噂をされても、嫌味を言われても大したダメージはない。わたしは遠慮なく図書館に入り浸った。
「――――君、いつもここにいるね」
そんなある日のこと、わたしは一人の男性から声を掛けられた――――アントワーヌ様だ。
落ち着いた色合いのブラウンヘアにヘーゼルの瞳。貴族社会に必要な華やかさには多少欠けるものの、目鼻立ちのハッキリした美しい顔立ちをしていて、どこか理知的な印象を受ける。キッチリと一番上までボタンの留められたシャツは、着崩しファッションが流行の現代において、珍しい着こなし方だ。
とはいえ、彼を見掛けるのはこの時が初めてではなかった。わたしが図書館に通い始める以前からアントワーヌ様はこの図書館の常連だったらしく、いつも窓際の特等席に座っていた。気取った様子もなく一人静かに本を読んでいるアントワーヌ様は綺麗で、わたしは密かに憧れを抱いていたのだ。
「サロンが少し……苦手なので」
そう答えつつ、わたしは殆ど顔を上げることが出来なかった。アントワーヌ様がわたしを見ている――――そう思うだけで心臓がドキドキする。彼は「座っても良い?」と断りを入れた上で、わたしの向かい側の席に腰掛けた。
「魔術書が好きなの? この間から何冊も読んでいるみたいだけど」
そう言ってアントワーヌ様は穏やかに微笑む。そんな所まで見ていらっしゃったんだと思うと、恥ずかしさで頬が紅くなった。
「それもありますけど……卒業したら宮廷魔術師として働きたいと思っていまして。折角だからここで勉強を、と」
それからわたし達は、二人で色んな話をした。
彼がわたしの一つ年上で、侯爵家の長男だということ。本が好きで、社交が苦手だということ。爵位を継ぐまでの間、宮廷で文官として働くつもりだということ。流行り物ではなく、普遍的な物が好きだということ。話せば話すほど、真面目で誠実な人柄が感じられる。
穏やかで優しい気性。かといって、ご自分の意見が無いわけでも無く、論理的で聡明。そんなアントワーヌ様に、わたしは見る見るうちに惹かれていった。
けれど、アントワーヌ様は一番肝心なこと――――彼には既に婚約者がいるということを、わたしに教えてくれなかった。
彼に婚約者がいると分かったのはほんの一か月前。偶々聞こえてしまったクラスメイト達の噂話がキッカケだった。
「――――父から聞いたの。シャルレーヌ様はなんでも、すごく幼い頃に婚約を結ばれたんですって。お相手は従弟らしいんだけど、あまり目立つタイプじゃ無いそうよ。わたくし達の一つ年上で、アントワーヌ様って仰る方だとか――――」
「もしかして侯爵家の? 勿体ないわ! シャルレーヌ様は将来、社交界の花になる御方なのに」
話を聞いた瞬間、わたしは目を見開いた。衝撃と悲しみが、一気に胸へと押し寄せる。ギュッと胸元を押さえつつ、わたしは静かに目を伏せた。
シャルレーヌ様は社交に疎いわたしでも知っているような有名な御令嬢だ。
その類まれな美貌と財力から、他の令嬢に与える影響力は絶大で、学園内でも一二を争うサロンの主。彼女の派閥に入ることができれば、将来は安泰――――逆に目を付けられてしまえば社会的に死ぬとまで言われる方だけれど、あまりご自身のことを語るタイプではないらしい。これまでわたしは、シャルレーヌ様に婚約者がいるという話を聞いたことが無かった。
「そうなの。しかも最近、シャルレーヌ様はアントワーヌ様のことでお心を痛めていらっしゃるのだそうよ? なんでも、お二人が深刻そうな表情で何かを話し込んでいるのを見た方がいらっしゃるんですって。お気の毒なシャルレーヌ様」
「まぁ……一体何が理由なのかしら? まさかシャルレーヌ様がいらっしゃるのに、他に恋のお相手がいる……なんてことは無いでしょうし」
続けざまに、わたしの心臓が大きく跳ねる。
(まさか……わたしのせい?)
そう思いつつ、胸の動悸が収まらない。
アントワーヌ様とわたしは、殆ど毎日、図書館で逢瀬を続けていた。想いを確かめ合ったわけではないし、手を握るだとかそういう触れ合いがあるわけでも無い。けれどわたしは、どうしようもない程にアントワーヌ様のことを好きになっていた。
(だって、婚約者がいるなんて知らなかったのだもの)
知っていたら、こんな風に惹かれはしなかった。言葉を交わしたり、二人きりで会うこともなかった。そんな風に自分に言い訳をする。
(だけど、本当に引き返せたのだろうか?)
グイグイと心臓が押し潰されるような心地を覚えつつ、わたしは己に問いかける。
こんな時ですら、わたしはアントワーヌ様に会いたいと思っていた。声が聴きたい。彼に会って、笑い掛けられたいと、そう思っていた。
アントワーヌ様に見つめられるたび、わたしのことを尋ねられるたびに、特別な何かがわたし達の間に存在している様な気がしてくる。もしかしたら、彼もわたしのことを好きなんじゃないか。いつか、アントワーヌ様と結婚ができるんじゃないか――――そんな風に期待をしていたのだ。
(馬鹿みたい)
アントワーヌ様がわたしの気持ちに気づいていたのかは分からない。けれど、彼にとってわたしは何者でも無かった。……ううん、もしかしたら気づいていて弄んでいたのかもしれない――――そう思うと、胸が痛くて堪らなかった。
その日からわたしは、図書館に通うことを止めた。他に婚約者のいる方とお会いするわけにはいかない……好きでいるわけにはいかないから。
けれど一人で居ると、どうしてもアントワーヌ様のことを考えてしまう。仕方なく、わたしはサロンへの顔出しを再開することにした。他人に合わせて笑うことは苦痛だったけど、失恋の痛手よりはマシだ。華やかな話題に身を投じていれば、虚しさも紛らわせやすいと自分に言い聞かせた。
「シュザンヌ!」
そうしてひと月が経った今日、わたしはアントワーヌ様に呼び止められた。
久々に聞くアントワーヌ様の声に、胸が震える。いつも穏やかな彼の顔に、どこか焦燥の色が見え隠れしているように感じられて、わたしは急いで目を伏せた。
(期待なんてしちゃダメ! そもそももう会わないって決めたじゃない)
わたしはクルリと踵を返し、聞こえなかったフリをする。けれど、アントワーヌ様はわたしの手をギュッと握ると、無理やり彼の方へ振り向かせた。
「シュザンヌ、どうして無視をするんだ?」
彼は困惑しているようだった。わたしの反応に傷ついているように見えて、心がひとりでに喜ぶ。アントワーヌ様がわたしに心を寄せているんじゃないか――――そんな馬鹿なことを考えている自分に吐き気がした。
「この一ヶ月間、ずっと不思議に思っていた。どうして急に図書館に来なくなった? どうして僕を避けるんだ? 苦手だったサロンにまで顔を出すようになったってのは一体どうして? ――――ずっと、君を待っていたのに」
アントワーヌ様は矢継ぎ早にそう問い掛ける。真剣な表情。心臓がドッドッと大きく鳴り続ける。嬉しいと思う自分とダメだと諫める自分が、心の中でせめぎ合っているのだ。
(だけどわたしは、自分自身を嫌いになんてなりたくない)
ゆっくりと何度か深呼吸を繰り返し、わたしは徐に口を開いた。
「――――――よく考えたら、図書館じゃなくても勉強は出来ますし、社交は大事ですもの。これまで疎かにしていた分、頑張らなければと思ったまでで――――決してアントワーヌ様を避けたつもりはございません」
少しばかり声が震えてしまったけれど、何とか言い訳は立っただろう。けれど、そのまま立ち去ろうとするわたしの肩を、アントワーヌ様が押し止めた。
「嘘を吐くな。だったらどうして僕の顔を見ない?」
「それは……」
顔を見れば心が揺れる。好きだって――――婚約者がいると分かっている癖に『それでも良いから側に居たい』と望んでしまうと分かっているもの。けれどそんなこと、アントワーヌ様にお伝えできるわけがない。すっかり押し黙ってしまったわたしを見つめながら、アントワーヌ様が徐に口を開いた。
「ずっと――――君に伝えたいことがあったんだ」
その途端、ドクンと大きな音を立てて心臓が鳴り響く。全身の血がザワザワと騒いで、息が苦しくなった。
(本当は婚約者が居ること? それともわたしを弄んでいたこと?)
そう考えると、目頭がグッと熱くなる。けれど、こんな状況下ですら、わたしは胸のどこかで彼からの愛の告白を期待していた。本当に救いようがない――――大馬鹿者だ。
「シュザンヌ――――君に伝えたいことがある」
アントワーヌ様は繰り返しそう口にする。
「わたしは……アントワーヌ様とお話しすることはございません」
やっとの思いで口にした言葉は、情けない程に震えていた。大きくて熱い手のひらの温もりを惜しみつつ、わたしはそっと呪文を唱える。次の瞬間、アントワーヌ様をその場に残し、わたしの身体は自室へと転移していた。手のひらにはまだ、アントワーヌ様の温もりが残っている。
(アントワーヌ様……)
己の手のひらに口付けつつ、わたしはそっと天を仰いだ。
それから、アントワーヌ様は頻繁にわたしの教室を訪れるようになった。その度にわたしは魔法を使って身を隠し、彼と会わないようにしている。つい先程まで教室に居た筈のわたしが居なくなることで、不思議に思うクラスメイトもいたようだけど、今のところ事情を尋ねてくるものはいない。恐らくわたしという人間に興味がないからだけど、余計な詮索をされないので、正直とても助かった。
(アントワーヌ様も、きっとすぐに諦める筈)
彼の伝えたいことが何なのかは分からない。どんな理由にせよ、わたしはもうアントワーヌ様に関わる気はない。彼を忘れるための努力をすべきだと思った。
「お父様……わたしも他の御令嬢のように、そろそろ結婚を考えねばならない頃合いではないでしょうか?」
ある日、わたしは両親に向かってそんな風に話を切り出した。
父は目を丸くしつつ、そっと母に目配せをする。二人は小さくため息を吐きつつ、困ったように眉根を寄せた。
「そうは言ってもシュザンヌよ――――おまえも知っての通り、父も母も社交は大の苦手でね」
蛙の親はやはり蛙――――二人の社交性の無さは、娘のわたしもよく知っていた。わたしは唇を尖らせつつ、そっと身を乗り出した。
「伯父様ならば良い伝手をお持ちでしょう? どなたか良い人を紹介していただけるよう、頼んではいただけませんか?」
「それは構わないが――――何もそこまでして結婚を急ぐ必要はあるまい。子爵家はお前の弟が継ぐのだし、シュザンヌはずっと恋愛結婚に憧れていただろう?」
「――――――恋愛は……したくないです」
俯きながら、わたしはそう答える。
恋なんてもう懲り懲りだ。愛のない政略結婚ならば、こんな風に心が揺れ動くことは無いだろう。相手に浮気をされようが、白い結婚を突き付けられようが、何も感じることは無い。きっと、ずっとずっと楽チンだ。
「まぁ……シュザンヌらしくもない! 大体、今どき政略結婚でも恋愛は必要よ?」
「きちんと割り切って政略結婚に身を捧げたら、恋愛をする必要はありませんわ。お相手は奥様に先立たれたご年配の方でも、他の令嬢が逃げ出すような見た目の方でも、誰でも構わないんです。ただ結婚出来れば、それで」
きっぱりとそう答えれば、母は何とも悲しそうな表情を浮かべた。
大体からして現代の貴族は『政略で構わないからとりあえず結婚してしまえ』という風潮があり、不倫を楽しむことが一種の嗜みになっている。だから、滅多なことでは婚約の破棄は成されず、皆そのまま結婚をしてしまう。
わたしの両親は例外中の例外で、恋愛結婚だったうえ、余所に恋人を作ったりはしていない――――わたしにとっては理想の夫婦だった。けれど、そんな理想がまかり通るのは極々一部。お伽話の中だけに存在するような夢物語だ。
(どうせなら、もっと早くに気づきたかった)
気づいていれば、こんな風に傷つきはしなかっただろうに――――そんなことを思いつつ、悲し気な表情の両親を見遣る。二人にはとてもじゃないけど本当のことを話せそうにない。
「――――とにかく、よろしくお願いします」
そう伝えて、わたしは部屋を後にした。
***
翌日のこと。教室がいつになく騒めいて、わたしはそっと顔を上げた。見れば、教室の入り口に向かってクラスメイトが数人、何やら慌てた様子で駆け寄っている。
「――――シュザンヌ様を呼んでいただきたいの」
すると、人垣の向こうからそんな言葉が聞こえてきた。凛と高く響く、美しい声音だ。
(シュザンヌってわたし……よね?)
思わぬことに戸惑いつつ、わたしは目を丸くする。すぐに一人の令嬢がわたしの元へとやって来て「こちらへ」と促した。躊躇いつつも従えば、人垣がさざ波のように引いていく。その先に待っていた人物に、わたしは小さく息を呑んだ。
「初めまして、シュザンヌ様。わたくしのこと、ご存じかしら?」
そう言って一人の令嬢が美しく微笑む。太陽のような眩いブロンドに、海のように鮮やかな青い瞳。
「シャルレーヌ様……」
口にしつつ、血の気が一気に引いて行った。
「いきなりお呼び立てしてごめんなさいね、ビックリしたでしょう?」
「…………いえ」
何と答えれば良いのか散々迷った挙句、出てきたのはそんな言葉だった。こういう時に、自分の社交性の無さがつくづく恨めしくなる。シャルレーヌ様の顔が見れないまま、わたしはゴクリと唾を呑んだ。
「わたくしのサロンはどう? シュザンヌ様がいらっしゃるのは初めてよね?」
「仰る通り、今回が初めてです。……素敵な場所だと思います」
「そうでしょう? わたくしも気に入っているの。こんな風に誰かと二人きりで使うのは初めてだけど」
わたしが呼び出されたのは、シャルレーヌ様が社交の場として使われている大きな談話室だった。
上品な香水の香りに、美しく飾られた花々。濃紺のティーカップは、繊細かつ美しい模様が描かれた超のつく高級品だ。折角お茶を淹れていただいたものの、先程から緊張で身体が小刻みに震えていて、とてもじゃないけど手に取れそうにない。
(どうしよう……一体どうすれば良いの?)
シャルレーヌ様は、わたしが彼女を傷つけた張本人だと――――アントワーヌ様と二人きりで会っていたとお知りになったのだろうか。だからこそ、わたしを呼び出したのかもしれない。そう考えると辻褄が合う。
(わたしとアントワーヌ様との間には何もなかった)
わたしがただ、一方的に懸想していただけ。彼が婚約をしていたことを知らなかったし、そうと知ってからはちゃんと弁えている――――情けないことに、頭に浮かんだのはそんな言い訳の数々だった。
(そんな事情、シャルレーヌ様には関係ないのに)
傷つけてしまったことには変わりない。被害者面をするなんて愚の骨頂だ。わたしがすべきことは一つしかないのに、何を迷っているのだろう。
「実は――――」
「あの……この度は本当に、申し訳ございませんでした!」
「……へ?」
シャルレーヌ様が話を切り出すと同時に、わたしはソファから滑り降り、床に額を擦りつけた。慌てた様子でわたしの側に駆け寄ったシャルレーヌ様が「顔を上げて頂戴?」と口にしたけど、わたしは首を横に振りつつ、ギュッと目を瞑った。
「わたし……知らなかったんです。アントワーヌ様に婚約者がいらっしゃるなんて――――――いえ……そうじゃなかったとしても、軽々に男性と二人きりになるべきではありませんでした。誤解を招くようなことをして、本当に申し訳ございません!」
言いながら、涙がポロポロと零れ落ちた。自分の不甲斐なさが悔しくて堪らない。
シャルレーヌ様はそのまましばらく、わたしの側に座っていた。頭を下げているせいで、彼女がどんな顔をしているのかは分からない。怖くて怖くて堪らなくて、膝がガクガクと震えた。
「シュザンヌ様……そのまま――――幾つかお話を聞かせていただけますか?」
「はい……もちろんです」
もう逃げも隠れもしない。そう腹を括って、わたしは更に頭を下げた。
「シュザンヌ様はわたくしと――――アントワーヌの件を何もご存じなかったのね?」
「……はい。社交に疎く、お二人が婚約されていることすら存じ上げませんでした。本当にすみません」
シャルレーヌ様は学園の中心人物だもの。わたしがそういう事情を知らないことだって、彼女のプライドを傷つけかねない。重ね重ね謝罪をしつつ、わたしはグッと唇を噛んだ。
「いいえ……婚約のことはあまり表に出さないようにしていたから、知らなくて当然なのよ?
それにしても、アントワーヌはあなたに何も、事情をお話ししなかったの?」
「それは……はい。色々とお話をさせていただいたのですが、婚約のお話は一度も。
ですが、それは聞かなかったわたしが悪いんです! 婚約者がいらっしゃることなんて、簡単に予想できた筈なのに、自分に都合の良いように考えたから――――」
「自分に都合良く?」
そう言ってシャルレーヌ様はほんのりと声を弾ませた。わたしは小さく頷きつつ、ゆっくりと大きく息を吸う。シャルレーヌ様はわたしの背中に手を添え「最後にもう一つだけ」とそう口にした。
「――――シュザンヌ様はアントワーヌのことをどう思っていらっしゃるの?」
シャルレーヌ様の問い掛けに、わたしの心臓がドクンと大きく跳ねた。
(それは……本心をお伝えしても良いのだろうか?)
彼女が何を思ってこんなことを尋ねているのか、わたしには分からない。だけど、自分の気持ちに嘘を吐きたくは無かった。アントワーヌ様への気持ちを断ち切るためにも、きっとこれは必要なことなんだと思う。そんな風に自分に言い訳をしてから、わたしはゆっくりと口を開いた。
「……お慕いしていました。こんな学園、大っ嫌いだと思っていたのに、アントワーヌ様にお会いしてからは毎日が楽しくて…………本当に、大好きでした」
こんなことになってしまった今でも、わたしはアントワーヌ様のことを想っている。彼と過ごすひと時が、わたしにとっては何よりも大事だった。話したいことを話し、自分らしく居られることが、とてもとても嬉しかったのだ。
「…………だそうよ、アントワーヌ」
シャルレーヌ様の朗らかな声音が頭上で響く。
「……え?」
呟きつつ、わたしは思わず頭を上げた。その瞬間、目の前に跪いている一人の男性に目が留まる。
「アントワーヌ様……」
そう呟いた時には、わたしは彼の腕の中に居た。ドクンドクンと心臓が鳴り響き、胸が苦しくて堪らなくなる。その時、シャルレーヌ様がクスリと笑う声が聞こえて、わたしはハッと首を横に振った。
「アントワーヌ様、止めてくださいっ……! 婚約者の前なのに――――!」
「シャルレーヌはもう、僕の婚約者じゃないよ」
アントワーヌ様はそう言って、ギュッとわたしを抱き締めた。訳が分からないまま、わたしはひっそりと息を呑む。アントワーヌ様は小さくため息を吐きつつ、徐に口を開いた。
「実は――――ずっと前から、『婚約を解消したい』とシャルレーヌに相談されていたんだ。
元々僕達はいとこ同士で、結婚のメリットはあまり大きく無かったし、シャルレーヌには他に愛する人ができたからね。
だけど『婚約を解消するなんてあり得ない。他に好きな相手がいるなら、結婚した後に好きなだけ愛し合えば良い』って言う僕の父を説得するのに時間が掛かって、ズルズルと婚約を続けていた。その時点では僕にも婚約を解消する理由は無かったし、父の言うことも一理あるかもしれないと思っていた。
そんな時に、出会ったのがシュザンヌ――――君だった」
そう言ってアントワーヌ様は穏やかに目を細める。思わぬことに、わたしは目を見開いた。
「君に出会って、僕はようやくシャルレーヌの気持ちが分かった。本当に好きな人が――――シュザンヌがいるのに、どうして他の人と結婚しなければならないのだろう――――そう思ったから、僕はシャルレーヌと一緒になって、必死で父を説得した。
その時点では、君が僕をどう思っているかは分からなかった。振られるかもしれない。君のご両親に結婚を認めてもらえないかもしれない――――そう思ったけど、それでも僕はシャルレーヌとの婚約を正式に解消してから、君に気持ちを伝えようって決めていた。
そうして、ようやく父の説得に成功したのが一ヶ月前のこと。だけど、いざ気持ちを伝えようという時になって、君は唐突に図書館に来なくなってしまったんだ」
アントワーヌ様は困ったように眉を寄せ、わたしからそっと目を逸らした。
(本当に?)
わたしはアントワーヌ様を見つめつつ、唇をギュッと引き結ぶ。また自分に都合の良い夢を見ているのではなかろうか?そんな風に思っていると、アントワーヌ様はキリリと居住まいを直し、まじまじとわたしを見つめなおした。
「僕がシャルレーヌとの事情を話さなかったせいで、君に要らぬ誤解を与えた。シュザンヌがあんな風に罪悪感を抱く必要も、謝罪をする必要も無かったんだ。全部全部、僕のせいだ。本当にすまなかった」
そう言ってアントワーヌ様は大きく頭を下げた。わたしは驚きに目を見開きつつ、ゆっくりと首を横に振る。目尻に涙が溜まって、胸のあたりがじわりと温かくなった。
「――――アントワーヌがね『シュザンヌ様が話を聞いてくれない』ってあまりにも嘆くものだから、わたくしが一肌脱ぐことにしたの。まさかわたくしとの婚約が原因だなんて思わなかったから、ビックリしたわ」
シャルレーヌ様はそう言って困ったように微笑む。アントワーヌ様はバツの悪そうな表情を浮かべつつ、そっと頭を抱えた。
「シャルレーヌにも迷惑を掛けた。僕が不甲斐ないばかりに――――」
「本当にその通りよ? あなたは『社交なんて』って思うかもしれないけど、考えを伝えることってとても重要なんだから。ちゃんと身に着けないと、損ばかりの人生になってしまうわよ?」
そう言ってシャルレーヌ様はわたしの手を取り、優しく微笑む。
わたしはこれまで、シャルレーヌ様や他の令嬢を誤解していたのかもしれない。最初から合わないと決めつけて、真面に話を聞こうと思わなかった。自分とは異なる人種だと、思い込んでいただけなのかもしれない。
「それじゃあ、わたくしはこれで。
シュザンヌ様――――いつでもここに遊びに来てくださいね? わたくし、お待ちしていますから」
シャルレーヌ様はそう言い残し、わたしたち二人を置いてサロンを後にした。
「あっ…………」
「…………」
唐突に二人きりにされ、アントワーヌ様とわたしは、しばらくの間、無言で互いを見つめ合っていた。一体なにから話せば良いのか、皆目見当もつかない。心臓がトクトクと鳴り響く。最早どちらの心臓の音なのか、わたしには分からなくなっていた。
「――――シュザンヌに伝えたいことがあるんだ」
アントワーヌ様はそう言って、ほんのりと頬を赤らめた。ゆっくりと恭しくわたしの手が握られる。コクリと小さく頷きつつ、わたしはアントワーヌ様を見上げる。
(――――本当に良いのだろうか)
声を聞きたいと思うことも、会いたいと願うことも、許されないと思っていた。忘れなければならない、諦めなければならないと、自分に必死で言い聞かせてきた。だけど――――。
「僕はシュザンヌのことが好きだ。君とこの先の人生を一緒に歩みたいと思っている」
そう言ってアントワーヌ様は切なげに目を細める。心がどうしようもない程に温かく震えた。
「わたしも、アントワーヌ様のことが好きです」
もう彼への想いを抑える必要はないんだ――――そう思うと、涙がポロポロと零れ落ちる。アントワーヌ様はわたしの涙を拭いつつ、至極穏やかに微笑んだのだった。
この作品を気に入っていただけた方は、ブクマや広告下評価【☆☆☆☆☆】にてお知らせいただけますと、今後の創作活動のモチベーションに繋がります。宜しくお願いいたします。