4 エイプリルフールの約束
四月一日に私は尼リーヒルズに引っ越した。
入学前に慣れておくため、というのが一応の理由だ。
私は、親が二兄伯父さんへの下宿代を有効活用するためだと推測している。
『そこまでケチらなくても』と私は思う。
今年の四月一日は平日だ。
そんな日に、私は引っ越しをするのだ。
まだ家の鍵を預かっていないので、二兄伯父さんがいなければ尼リーヒルズに入れない。
なので二兄伯父さんが仕事から帰宅する時間に合わせての引っ越しだ。
とは言っても荷物はほとんどない。
父の車で済む程度。
今日は亜音も一緒に念願の尼リーヒルズに来ることができた。
最初は母親もダメと言っていたのだが、あまりのしつこさに音を上げたのだ。
お金を要求しない、変なことを言わないという約束をさせられて。
そういう風に取られるような言動があった場合、母親の判断で小遣い減額処分という厳しい約束をさせられていた。
私たちは、尼上市のファミレスで夕飯を食べて時間を潰した。
そして二兄伯父さんと約束した時間に尼リーヒルズを訪問したのだった。
今回、うちの末っ子陸翔も、みどりおばあちゃんの代わりに来た。
まだ小学生なので、私と離れるのを寂しがっているようだが、男の子なので我慢している様子が見える。
「ここが二兄伯父さんの家かあ」
亜音が薄暗くてはっきりと見えない家を眺めて感動している。
カーポートには、前に来た時と同じように車が二台駐車している。
動いているようには見えない。
大体駅前なのに、車って二台も必要なのかと思う。
「義兄さんの車って、あんまり乗っていなんだろ。安く譲ってくれないかな」
父親がそんなことを言っている。
「あの車、高そうだけどいくらくらいするの」
母親が大きい車を指さして尋ねる。
「そうだなあ、後ろのエンブレムが見えないからはっきり言えないけど、現行型だし、あのホイールの形を見ると安いグレードではなさそうだから、六百万から一千万円くらいかな」
軽く父親が言った。
「それをあなたはいくらで譲ってもらおうと考えたの」
「百万くらい♪」
「殺すわよ。絶対言わないでね」
母親が怖い顔で父に迫った。
「言ったら殺すし、十五年はお小遣い無しよ」
父娘でお小遣いを減らされたらいいんだ。
その分、二兄伯父さんの下宿代を増やして欲しい。
母親がインターホンを鳴らす。
前回のように二兄伯父さんがチワワを抱っこしながら出てくる。
「いらっしゃい。入って」
前回よりも緊張せずにみんなで入る。
亜音はきょろきょろと室内を見回している。
しゃべりたいことはあるはずだが、変なことを言ったら小遣いを減らされるので、黙っているのだろう。
「俺、車から荷物出してきますので」
父親がすぐに車に戻る。
どうやら二兄伯父さんと一緒にいるのが苦手らしい。
「これが家の鍵。無くさないでね」
二兄伯父さんから家の鍵を渡された。
全く使っていない新品の鍵だった。
新品も新品、まだキーホルダーも付いていない。
父親が私の荷物を二階の部屋に入れる。
大した荷物はない。
私も母親も、そして亜音も一回ずつ荷物を運んで終わった。
父親だけ三回昇り降りした。
私の部屋を見た亜音は、
「お姉ちゃんだけずるい」
と予想通りの言葉を放った。
私だけずるい。
それは私も思う。
こんな立派な部屋に一人で住むのだから。
「あなたも勉強して尼東に入ればこういう部屋に住めるかも知れないわよ」
母親が二兄伯父さんのいないところで嘘を吐く。
正確には嘘ではないかも知れない。
住めるかも知れない、と言っているだけだから。
「もう、スポーツなんか辞めて私も勉強一筋になる」
亜音ができもしないことを言った。
部活で期待されている以上、部活をサボって勉強するのは不可能だろう。
それに勉強嫌いだし。
フローリングに直接敷いた布団に亜音が寝転がる。
「私がここに住む」
叶わない希望を口にする亜音。
その気持ち、十分すぎるほど分かるよ亜音。
譲ってあげたいけどダメ。
ここは私の部屋。
私が初めてもらった一人だけの部屋。
そんな亜音に
「ここに野グソされそうだからダメ」
と牽制する。
「いつのこと言っているのよ。ねえ、そんなことより時々遊びに来てもいい?」
亜音が私に尋ねる。
私の代わりに母親が答える。
「お姉ちゃんは、二兄伯父さんの好意で安く下宿させてもらってるだけなのよ。少しでも二兄伯父さんがへそを曲げたら、花蓮も住めなくなるのよ。それを分かってあげてね」
「ちぇっ、分かってるけどさあ。でも羨ましいじゃん。こんなきれいなお部屋に一人で住めるなんて。しかも尼リーヒルズに」
亜音は本音を隠そうともしない。
それが人に好かれるところでもあるのだが。
「尼リーヒルズ?」
母親が怪訝な顔をする。
「尼上市とビバリーヒルズを掛けたの」
ドヤ顔で亜音が説明した。
「そんな変なこと言って、二兄さんに迷惑かけちゃ駄目よ」
「はあい」
おとなしくする約束をしてきたからか、亜音は普段よりも聞き分けがいい。
こんな感じで私の部屋への荷物運びとセッティングはあっさり終わった。
「お姉ちゃん、たまには帰ってきてね」
陸翔が泣きそうになるのを堪えながら別れを惜しむ。
私までちょっとだけ悲しくなった。
多分私と本当に別れたくないのは陸翔だけかもしれない。
「二兄、それじゃ花蓮をよろしくね」
母親が二兄伯父さんにお願いして、私の家族は私を置いて自宅へ帰った。
父親は車に乗って母親と二兄伯父さんとの別れを催促しているようだった。
よっぽど父親が二兄伯父さんを苦手にしているんだろう。
父親は私との別れを惜しむ様子は全く見せずにさっさと帰った。
家族が退去したリビングで、私は二兄伯父さんと二人っきりになる。
「二兄伯父さん、これ下宿代です」
私は親が帰ってから現金入りの封筒を差し出した。
母親が私に預けていたものだ。
「ありがとう」
そう言って、二兄伯父さんは中身を確認せずリビングにある茶箪笥の引き出しに入れた。
私が渡したお金に興味はないようだ。
「それじゃあ、この家のルールを説明しよう」
二兄伯父さんの言葉に、私はちょっと緊張した。
メモしたほうが良いのかな。
「この家で一番大切なルールは、このちわまる君を大切にすることだ」
そう言ってチワワを抱っこした。
「このちわまる君の食事は、朝ご飯と夕ご飯の二食、ご飯はこのケースに入っているものをスプーン摺り切り一つ。水はこまめに交換すること。ペットシーツは朝に交換。シーツはここに入っている。ここまでは分かったかな」
このくらいならメモしなくても十分分かる。
「食べたいものがあったら、ここからさっきの下宿代を出して買ってくれ。一応冷蔵庫に入っているものは、好きなものを好きなだけ食べてくれ。ジュースも好きなものを飲んでいいが、お酒は厳禁だ。料理はしたければしてくれ。俺も料理はする」
そう言って、冷蔵庫を開けた。
予想通り、中身はたくさん入っていた。
ワインの瓶や、初めて来た日に飲んだのと同じウェルチも新品で入っていた。あの日飲んだウェルチはお土産で貰って帰ったのだ。
その他にチーズの塊や大きめのソーセージも見えた。
なんてセレブな冷蔵庫だろう。
これを好きなだけ飲み食いするなんて、月二万円では足りないだろう。
なんで二兄伯父さんが下宿を認めたのか未だに分からない。
まさかだが、ちわまる君の世話のため?
ペットシッターとして雇われた?
DAADAADAA?
それはシッターペット。
いずれにしても、冷蔵庫の中身は食べ放題飲み放題。
料理スキルがほぼゼロの私としては猫に小判かも知れないが、ウェルチと塊だけで生きていけそうだ。
「それと、花蓮ちゃんの携帯番号教えて」
二兄伯父さんが言った。
……これは聞かれると思っていた。
「ありません」
「ん?」
「スマホもガラケーもありません」
私は答えた。
父親も母親も、そしておばあちゃんも私に携帯を買ってくれなかったのだ。
下宿でお金が掛かると言って。月二万円の下宿代ってそんなに負担になるのか。
「はぁ?どうやって親と連絡取るの?」
「要件があるときは、伯父さんの固定電話か携帯電話を借りろ、と言われました」
私は素直に答えた。
「んっ?ちょっと待て。ところで花蓮ちゃんはお金をいくら預けられた?小遣いはいくらもらっている?」
鋭い。
隠すつもりもなかった。隠すほどのことではない。
実家に帰されるなら早いほうが良い。
あのけちん坊の母親が簡単にお金を預ける訳ないじゃない。
「ちゃん付けしなくてもいいです。花蓮でいいです。当座一万円貰っています。小遣いは今まで月に二千円。今月分の小遣いは二万円の中に入っているそうです。これからは、下宿代で余った分を小遣いにするように言われました」
私は母親からの伝言をはっきり言ってすっきりした。
強制送還は早いほうが良い。
「やっぱりそうか。そういうことも全部ひっくるめての全部込みなんだ」
二兄伯父さんは、顔に手を当てながら嘆く姿勢を取った。
「里子はそういう癖があるからな。まあ仕方ないだろう。それを分かっていて話を詰めなかった俺も悪い」
諦めたような表情で二兄伯父さんは言った。
二兄伯父さんは悪くないと思う。
普通は下宿生の小遣い込みの下宿代なんてありえないだろう。
母親の『そういう癖』とは、お金に厳しいということだろう。
下宿代二万円が、まるまる二兄伯父さんの懐に入る訳ではないのだ。
私は全額渡すつもりだが。
母親は、下宿代=食費+宿代+雑費(小遣い含む←ここ重要)と考えているのだ。
下宿をお願いしたときの話の流れから言って、この二万円は宿泊費+生活費と考えるのが普通だろう。
食費と言っても、この金額なら、普通は三食七日間ではないだろう。
二万円を三十日で割ると一日当たり六百六十六円。
悪魔の数字だ。
まさかそこに高校生の小遣いまで含まれているとは思わなかっただろう。
と言うより、一日六百六十六円を食費に回したら、下宿代が月二十円ですか。
一か月三十一日なら赤字ですか。
母親は食費三食七日をしっかり入れた上で、その他に小遣いなんてことを考えて私を送り出したのだ。
このことを説明しなければならない私が恥ずかしい。
毎日パンの耳だけでも文句は言えない金額です。
「その様子だと、生活用品も要注意だな。ちょっと部屋を見せてくれないか」
二兄伯父さんに言われた。
私自身は充分に満足しているのだが、心配なら見せてもいい。
多分、伯父さん基準で言ったら少ないのだろう。
さあ、乙女の部屋を見やがれ。
スケベ二兄伯父さん。
JKの身体で下宿代支払いましょうか?まだ入学式してないけれど。
なあんてね。
二兄伯父さんチェック開始!
「テレビは?」
「ありません」
「パソコンは?」
「ありません」
「タブレットは?」
「ありません」
「机は?」
「ありません」
「ベッドは?」
「ありません」
「何があるの?」
「多分必要なものは全部あるはずです」
顔に手を当てる二兄伯父さん。
何を嘆いているのだろう。
私にとっては充分な物が揃っている。
家があって、布団があって、服がある。
それ以上に何が必要なのでしょうか。
テレビはリビングのを見せてもらえればいい。
あのテレビ、すごく大きい。
父親が悔しがっていた。家のテレビは五十インチ。
父親は五十インチでも『うちのテレビはデカい』と自慢していたが、それより間違いなく大きい。
ただ何インチなのか、私にはよく分からない。
パソコンは必要ない。
机はダイニングテーブルを使わせてもらえればいい。
ベッドは無くても布団はある。
三年間生活するのに、後は何が必要なのでしょうか。
お金?
それは必要だ。
落ち着いたらアルバイトでも探そう。
「週末買い物に行こう。生きるための最低限じゃなくて、文化的な生活をするための最低限を。花蓮もこれから高校生だ。高校生として最低限のものは持っていなくてはならない」
二兄伯父さんは、そう言ってくれた。
非常にありがたい。
私はこの家に住まわせてくれただけでありがたいと思っているのに。
多分足りないものはあるのだろうが、顔に手を当てるほど足りないのだろうか。
足りないもの。
あ、あるかも知れない。
恋愛するために必要なものが。
スマホない。
化粧品ない。
おしゃれな洋服ない。
おしゃれな靴ない。
恋愛脳がない。
→最後のが一番重要かもね。