8.心を占めていく大切な想い
「あー、咲来! 生クリーム吹きこぼれてる!!」
その時、侑里ちゃんは慌ててコンロの火を消した。
「もう。咲来、しっかりして。小学生でもこのくらい出来ることだよ」
侑里ちゃんは頭を抱えている。
年は明け、あっという間に二月になった。
ヴァレンタインデーが近づき、女子は皆、浮き足立っている。男子だって興味なさそうな顔しているけれど、内心はチョコの一個くらいもらいたいと思っているのが丸わかり。
私は迷ったけれど、やっぱり侑里ちゃんの言う通り、チョコレートリュフを手作りすることにした。
けれど、初っ端からかなりの苦戦を強いられている。
溶かしたチョコレートは冷やして固め、ラップに包んで軽く丸めるんだけどこれが結構難しい。
綺麗な丸形にならない。大きかったり、小さかったり、形が凸凹。
「ねー、侑里ちゃん、どうしよう……」
「これくらいで音を上げない。とにかく全部丸めてまた冷やさなきゃ」
侑里ちゃんはてきぱきチョコを丸めていく。
更に冷蔵庫で冷やすこと約一時間。
そして、いよいよラップを外して再び丸め直した。
しかし。
この段階でこの手作りトリュフの失敗は歴然だった。
形が歪すぎる。いかにも、手作り……。
「ま、ま。とりま試食しよ!」
侑里ちゃんが場を取りなし、そう言った。
果たして。
一粒、食べてみた瞬間。
「何……? これ」
二人とも顔を見合わせた。
なんともミルクくさく、甘ったるい。
形以前の問題……明らかに、味わいが微妙。
「咲来。生クリームの分量、間違えたんじゃないの?」
「そんなことない。確かにレシピに……」
そう言って、レシピを見直した私は青ざめた。
「ど、どうしよう……。侑里ちゃん。私、生クリームとチョコレートの分量、勘違いしてた……」
私は今にも泣き出しそうに呟いた。
「道理でチョコを丸めるのにも苦労したはずだわ」
はあーっと侑里ちゃんが大きく溜め息をついた。
「ごめん。ここまで咲来が料理下手だとは思わなかった私が悪かったわ……」
「どうしよう。侑里ちゃん」
オロオロして泣きつく私に、
「どうしようもないじゃん。今度の日曜! 街に買いに行くのよ。センスいいチョコを選べば問題ないわ」
と、侑里ちゃんはきっぱりと言った。
そうして私はその週末、街へとチョコレートを買いに行くことにした。
◇◆◇
ヴァレンタイン数日前の日曜日。
私はチョコレートを買いに出かけた。
侑里ちゃんは昨日からインフルにかかってついてこれなくなったから一人で来たけれど、街はヴァレンタインムードで華やいでいる。
女の子達があちこちのお店で嬉しそうにチョコレートを選んでいる。
どれにしようかなあ……。
私はチョコレート特設会場でもみくちゃにされながらも、お財布片手に一生懸命チョコを吟味している。
ハート型のチョコレートなんてひかれるよね。ミッフィーのキャラクターチョコは子供っぽいかな。ウイスキーボンボンは好みがあるし……。
迷いながらうろうろしていると、
「試食しませんか?」
と声をかけられた。
その声につられ、チョコレートの欠片が刺さっている爪楊枝を一本取って食べてみる。
「に、にっがーい!」
それはチョコレートなのに苦さばかり感じられる。
試食を勧めてくれた店員さんは、
「この味が好きな人は好きなんですよ」
と、クスクス笑った。
私はなんだか子供扱いされたような気がしてむっとしたけれど、その味は確かに独特だった。
「これは、カカオポリフェノールが72%入っていて体にも良いんです。それに、他の甘いチョコレートよりインパクトがありますよ」
そんな店員さんの売り言葉に、私はちょっと大人っぽいパッケージのそのチョコに興味を持った。
黒い箱は品があって、チョコの味もオリジナル。
「……これ。ください」
「お買い上げありがとうございます!」
結局、買っちゃった。
白い紙バッグに入れられたチョコを大事に抱える。
雑貨屋さんでシンプルな音符がモチーフの可愛いメッセージカードも選んだ。
結構、いい買い物できたじゃん。このまま帰るのは勿体ないからお茶して帰ろうかな。いつもミスドやマックだけど、中学生になったんだもん。一人でカフェに入ってみてもいいよね。
なんとなくウキウキとしながら私は、思い切って前から憧れていたお洒落なカフェ『ラタン』まで来た。
それが間違いだった──────
ドアを開けた瞬間。
見てしまったのだ。
河合先輩と綾部先輩が奥の籐製のソファ席に並んで座っている所を。
なんで……。
二人は楽しそうにお茶している。
それはリラックスして寛いでいて、まるで恋人同士のように。
「いらっしゃいませ」
黒服の店員さんに声をかけられ、ハッとして私は踵を返した。
闇雲に小走りで急ぎながら、二人の笑顔ばかりが脳裏に蘇る。
『あなたには負けないんだから』
あの時の綾部先輩の言葉が胸を掠める。
ヴァレンタインまで告白を躊躇った自分が今となっては愚かしい。
河合先輩と綾部先輩はクラスメイト。同じクラブの部長・副部長同士で三年間、コンクールの代表部員としても切磋琢磨してきた。二人の仲に何かあっても、やっぱりおかしくない。
いつしか歩みが止まり、うなだれる。
俯いた私の目から涙が零れて落ちた。
どうして。
こんなに辛い思いをするのなら。
恋なんてしてしまったんだろう。
◇◆◇
ヴァレンタインデー当日の放課後、誰もいなくなった教室で。
「咲来。ほんとにいいの?」
「うん……」
そう言うと私は、チョコレートの箱を開けた。
中から一枚、薄い四角のチョコレートを手に取り、思い切って口にする。
カカオ72%の苦さは私の舌にも心にも刺さった。
それは大人っぽい先輩のイメージに合わせて買ったビターチョコ。
「苦い……。苦いよ、侑里ちゃん」
「咲来。泣かないの」
そう言って、侑里ちゃんも一枚、口に放り込む。
二人して黙々とチョコを食べた。
甘い物好きの侑里ちゃんが黙ってつきあってくれたのは本当に救いだった。
そうして、私の中学生になって初めてのヴァレンタインデーは涙に暮れる一日となった。
◇◆◇
そうやって暫くは失意の日々を過ごした。
でも。
卒業式が近づくにつれ、私の心に徐々に変化が起き始めていた。
先輩はもうすぐ卒業してしまう。
クラブで会えないのは勿論、偶然に登下校の時や廊下ですれ違ったりすることも出来なくなってしまう。
私のことなんて忘れられていく。
そう思ったとき。
私の胸に湧き上がる想いに気がついた。
先輩と会えなくなるなんて。
先輩から忘れられるなんて。
そんなのは嫌。
私の心を占めていく想い。
それはとても大切な想い。
あの一年前の春の出逢い。
美しかった宵の明星……。
嬉しくて涙したコンクール優勝と入賞。
いつも、いつでも先輩は優しく身守ってくれた。
私は。
私は。
先輩のことが……。