6.全国大会本番
それから、約二週間後の夏休みも中盤。
私はクリーニングしたての白い半袖のセーラー服に身を包み、前の晩にワックスで磨き上げたローファーを履いて身繕いする。
「しっかりね。咲来」
「うん。行ってきます」
玄関でお母さんに見送られ、私は家を出た。
「あっつい……」
その日も朝からやかましいほどの蝉の鳴き声が辺りに響いている。朝七時になるかならないかなのに陽射しは強い。
今日は、全国大会本番の日。
新幹線で会場のある東京に向かうのだ。
駅への道すがら、私はイメトレで自分のパートの旋律を繰り返し反芻し、同時に五人で共鳴する音を思い出していた。
あれは……。
駅前のバス停で降りたときに気がついた。
誰より早く集合場所に着こうと思って家を出たつもりだったけれど、改札口にはもう河合先輩が来て立っていた。
「河合先輩、おはようございます。随分早いんですね」
「おはよう。それは君も同じだろ」
「いえ。珍しく早く目が覚めて……。仕方なく」
「とか言って本当は、ソプラノパートとしての責任とか感じてたんだろ?」
先輩の言葉は図星だった。
リコーダーアンサンブルは皆の音が合わさり重なって初めて成り立つ音楽だけど、やはりソプラノが全員を引っ張る役目を担っているのは間違いない。
私はじっとりと汗ばむ掌を軽く握った。
そんな私を前にして、急に先輩はズボンのポケットをごそごそと探ると、何かを私に差し出した。
「三浦、これ」
「はい?」
「飴ちゃん、嫌い? ストロベリー味だよ」
先輩が渡してくれたのは、小さなキャンディだった。
「飴ちゃんって……先輩、関西の人みたい」
思わず私は吹き出していた。
「ああ、そういや母親の田舎、大阪だった」
ポリポリと先輩は頭を掻いている。
「朝からなあに、二人して」
「先輩」
振り返ると渡辺先輩と綾部先輩が立っていた。
「二人で一緒に来たってわけ?」
「ち、違います! 河合先輩の方がずっと早くいらしてました」
「隠さなくてもいいわよ」
「そんなんじゃ……」
「麻衣、そのくらいにしてあげなさい。咲来ちゃん、困ってるじゃない」
綾部先輩が横から助け船を出してくれた。
「綾部と渡辺にもまだ確か二、三個……あった」
先輩が更にポケットから二個のキャンディを取り出して、一個ずつ二人に渡す。
「ありがとう、河合君。私、キャンディ大好きなの」
綾部先輩が嬉しそうに笑う。
それは華やいだとびきりの笑顔で。
綾部先輩も……河合先輩のことが……。
『あなたには負けないんだから』
あの時の先輩の言葉が蘇る。
ダメ! 今、そんなこと考えちゃ……。
何よりも今はこれから奏でるハーモニーを大切にしなくては……。
「みんな早いわねえ。私が一番だと思ってきたのに」
そこに、久木先輩がやってきた。
「みんな考えることは同じよ」
「そうそう」
そうやって皆で賑やかにやっていると、
「皆さん、おはよう」
「金谷先生、おはようございます」
涼しげな麻の生成りのスーツを着た金谷先生が歩み寄ってきた。
「後は、高井君ね。もう集合時刻なんだけど」
そう金谷先生が言ったのも束の間、
「すみませーん! 遅れました!」
ハアハアと息を切らし、高井先輩が駆け寄ってきた。高井先輩は背が低く、言ってはなんだけどずんぐりむっくり。額から滝のように流れる汗をタオル地のハンカチで拭き拭き、フウフウと息を整えながら言った。
「昨夜、なかなか寝付けなくて……寝坊しちゃってすみません」
「大事な日に寝坊するくらいが大物なのよ、高井君。それに眠れたんだから大丈夫」
遅刻して恐縮している高井先輩の気をほぐすためか、先生がそんなフォローをする。
「他の皆さんはよく眠れましたか?」
「はい!」
「よろしい。それでは皆さん、参りましょう」
そう言うと、金谷先生は先頭を切って歩き出した。
その後に先輩方が続き、私は一番後ろから皆を追いかけた。
◇◆◇
「ふわあ。すごい人」
初めて行く東京は正に都会そのもの。
どこを向いても人・人・人……!
「三浦、こっち! はぐれるなよ」
「は、はい! すみません」
河合先輩から右腕を急に掴まれ、心臓が飛び出しそうになる。ぼやぼや歩いている私が悪いんだけど……。
地下鉄のない地方に住む私達は、その乗り継ぎだけでも迷子にならないよう注意が必要だった。
「東京来るのもしかして初めて?」
河合先輩が私の隣に並んで言う。
「は、はい……。私、県外に出たの小学校の修学旅行以外なくて」
「そりゃ、お上りさんもいいとこだな」
やや呆れたように先輩は言った後、ぼそりと呟いた。
「はぐれそうなときは俺の腕に掴まればいい。とにかくはぐれるな」
「は、はい……!」
そう。
はぐれないように。はぐれないようにするだけ。
それはわかっているけれど、先輩の言葉は私のハートには刺激的だった。
ふと思った。
せめて先輩が冬の制服を着てたらな。
ブレザーの裾をそっと握るのに……。
◇◆◇
午前九時半に会場入りすると、既に他の学校の面々も控え室で準備を着々と整えていた。
私は、大切な愛器であるメックのロッテンブルク・バロック式ソプラノリコーダーをずっと胸に抱えている。
この楓の木のリコーダーは甘く澄んだ音色で、殊にアンサンブルの時、ハーモニーの美しさが際立つ。代表入りが決まって、お母さんが楽器の値段も音に比例するからと言って買ってくれた三万円もする高級品だ。
しかし、緊張しているのか、私は急にトイレに行きたくなった。
スマホと財布とハンカチ、リップクリームだけ入っているポシェットを持ち、ティッシュカバーを目印にリコーダーを控え室の机の上に置くと、私はお手洗いに行った。
トイレを済ませて、溜息を吐く。
広くて綺麗なお手洗いには誰も居ない。
鏡を覗き込むと、夏場だというのに練習のしすぎで唇はカサカサに乾いている。
私はほのかな淡いピンク色のリップクリームを塗った。
鏡の中の自分は青白い顔をしている。
どうしよう……やっぱり緊張してる……。
県大会の時のような吐き気はないけれど、気分が悪い。
スマホで時刻を確認するともうすぐ出番が回ってくる時間。
急いでお手洗いを出た瞬間、軽い目眩を感じ立ちくらんだ。
その時。
「三浦」
「河合先輩!」
あの時と同じように、河合先輩が立っていた。
「これ。ダメじゃないか、手放したら」
そう言うと、私のマイリコーダーを渡してくれた。
「すみません……」
素直に謝った。
確かに、いっときとは言え、大事なリコーダーをあんな控え室に置きっぱなしにするなんて迂闊すぎた。
「緊張してるのか」
静かに先輩が問う。
私はこくんと小さく頷いた。
心細くて、心細くて仕方がなかった。
「三浦」
先輩はあの私が逃げ出した梅雨の日の時と同じように、私の顔を覗き込み、目線を私に合わせると言った。
「三浦。君ならやれる」
それは、何より信じられる、他の誰でもない河合先輩の言葉だった。
「行くぞ」
「はい」
そうして私は、全国大会本番に臨んだのだ。