5.『青少年リコーダー・コンクール』県大会出場
そうして、満を持して迎えた『青少年リコーダー・コンクール』。
やるだけのことはやった、と思ってもやはりどうしても不安は拭えない。段々と緊張感が高まっていく。
午前十時に始まったコンクール『アンサンブル部門』の楠城中学の順番は七番目。
いよいよ、後二番目に出番が近づいてきたときだった。
うっ……!
急激に胸にせり上げてくる異物を感じた。
私は口元を押さえ、急いでトイレに駆け込むと洗面台でげえげえと胃の中のモノを吐くだけ吐いた。
体中から力が抜け、血の気が引いていくような気がする。
どうしよう……この一番大事な本番前に……。
どうしようもなく心細くなったその時。
「咲来ちゃん、大丈夫?」
背後から声をかけられた。
「綾部先輩……」
「これ、使って」
綾部先輩は綺麗にアイロンがかかった花柄のハンカチを手渡しながら、私の背中を軽くさすってくれる。
「大役だもの。体が緊張感に耐えられなかったのね」
可哀想にと先輩は呟いた。
しかし、
「でも。大丈夫よ、咲来ちゃん。あなたの音程は絶対に狂わない。音も澄んで綺麗だわ。いつも通りに吹けばいいのよ」
確かな瞳で先輩は私を見つめる。
「そうよ、咲来ちゃん。みんな、あなたのソプラノについていくから」
「咲来ちゃん、ガンバ!」
「先輩……」
気がつけばそこには、アルト担当の渡辺先輩と久木先輩も私を見守っていてくれた。
「大丈夫。綾の言う通りよ。いつも通りに吹けばいいのよ」
「自分の実力を信じて」
先輩方は皆、私を励ましてくれる。
私はジンとして、体の不調も忘れていた。
「トイレの前で河合君が待ってるわよ」
「え……? 河合先輩」
思いがけない一言に、渡辺先輩がにまにまと笑っている。
「わかりやすいわよね、咲来ちゃん」
「さ、お邪魔虫は退散するから、とっとと行く!」
そう言って、皆がさっさとトイレから出て行く。
「咲来ちゃん」
その時。
綾部先輩だけが振り返り、つかつかと歩み寄ると私の耳元で囁いた。
「これは今日だけの貸しよ」
「え……どういう……」
「あなたの頑張りに免じて今日のところはひいてあげる」
綾部先輩は言った。
「あなたには負けないんだから」
意味深にそう呟くと、綾部先輩もその場を立ち去った。
『あなたには負けない』……。その意味は……。
お手洗いを出ると、
「河合先輩……」
少し離れた所に確かに河合先輩が立っていた。
「大丈夫か?」
いつもの低いハスキーボイスで先輩は問うた。
「大丈夫です」
私は先輩の目を見つめて答えた。
「それでこそ三浦だ」
それだけだったけれど、その一言で私は奮い立つ思いだった。
「さあ。本番だ、行くよ」
「はい」
力強い河合先輩の言葉にしっかりと答えると、私は初陣を飾るべく歩き出した。
そして──────
『楠城中学校。曲は『エリザベス時代の二つの五重奏曲』』。
場内アナウンスがあり、私を先頭に五名が壇上へと登場した。
並んで椅子に座り、楽譜立てに楽譜を立てる。
その楽譜はもう何度も繰り返し読み込み、金谷先生からの注意を細かくペンで書き込みボロボロになった世界でたった一つの私だけの楽譜。
準備が整い、皆の様子を伺う。
ひと息吸うと、阿吽の呼吸で一斉に四種・五本のリコーダーの音が鳴り響いた。
五人の音はぴったりと合っている。
派手さはないけれど、短調の泣くようなメロディはしっとりと落ち着いていて美しい。
私は全身全霊をかけ、心を込めて一音、一音を奏でた。
時間にしてたった約四分あまり。
ああ……後一小節……。
私は万感の思いをその音に込めた。
最後の一音が会場に消えた瞬間。
大きな拍手が会場中に響いた。
「三浦」
舞台袖に戻った時、河合先輩が私に声をかけた。
「よくやったな」
私はふわふわとまだ夢の中にいるような、トランス状態だったけれど、段々と現実に戻っていた。
「私……」
「咲来ちゃん、頑張ったわね」
先輩方が皆笑んでいる。
終わった……。
「おいおい、三浦」
河合先輩の声が戸惑いを見せる。
私は緊張が一気に緩み、先輩の制服の裾を掴み泣いていた。
◇◆◇
「咲来、まだ具合悪いの?」
会場隅の私の隣の席に座っている侑里ちゃんが、私の顔を覗き込む。
「だって……」
私は緊張からは開放されているものの、またぞろ不安になっていた。
「もうすぐ発表だもんね」
「精一杯やったけど……最後に出場した開星学院、すっごい上手かった」
コンクールラストの学校、開星学院高等科はやはり高校生だけあってその演奏は完璧だった。
私達の演奏も負けてはいなかったと思う。
しかし、中学生と高校生ではではやはり経験の差が否めない。
「テクニックだけじゃないわ。曲の解釈、表現……どれをとっても……」
「咲来。弱気にならない。咲来達の演奏も素晴らしかった」
侑里ちゃんは続ける。
「あれだけ頑張ったんだもん、絶対優勝よ」
侑里ちゃんはそう言うと私の右の掌をぎゅっと握ってくれた。
『ただ今より結果発表を行います』
アナウンスが流れ、会場がしんと静まりかえる。
会場中が発表に聴き入る。
まず『ソロ部門』三位銅賞から発表される。
銅賞にも銀賞にも綾部先輩の名前はコールされなかった。
綾部先輩……。
誰もが祈るような気持ちだった。
そして。
『……一位金賞。楠城中学校、綾部未織』
どよめきが私の周りで起こった。
綾部先輩は嬉しそうに頬を紅潮させたが、程なく引き締まった表情になった。
『デュオ部門』の次にいよいよ『アンサンブル部門』の発表が来たからだ。
『三位銅賞、藤花高等学校』
そこまでは順当な順番だった。
問題は銀賞だ。
先に名前が出るのは開星学院か? それとも我が楠城中学校か?
しんと静まりかえり、会場中が固唾を飲む中。
『……二位銀賞、開星学院高等科』
その瞬間。
びくんと体が震えた。
だとしたら……!
それは間違いない。
『一位金賞、楠城中学校』
声にならない小さな歓声が部員全員からあがった。
『入賞した生徒及び学校の代表部員はステージに上がって下さい』
綾部先輩と河合先輩がすくっと立ち上がり、会場の端から舞台へと上がった。
賞状が読み上げられ、金のトロフィーが授与される。
皆がスマホで先輩の雄姿を撮りあった。
そして大役を務め終え、『アンサンブル部門』で目標だった県大会『一位金賞』を見事獲得し、私は皆と一緒にその晴れがましい栄誉を喜び合った。