4.『宵の明星』の誓い
そうやって日々を戸惑いで過ごす中、季節はいつの間にか、梅雨に入っていた。
私はその日、特にメンタルに過敏になっていた。
「三浦さん、そこのフレーズもう一度」
今日も容赦なく金谷先生の指導の声が飛ぶ。
もはや針の莚でしかないクラブで心身共に疲弊し、私の神経はとうとう臨界点を越えた。
全身総毛立ったように身を震わせ、私は特練中、皆の前で叫んだ。
「私、もうクラブ辞めます!」
ガタンと椅子を蹴り、立ち上がると叫んだ。それは私の心の底からの悲鳴だった。
「三浦さん! 待ちなさい」
金谷先生の言葉も無視して、私は音楽室を飛び出した。
とぼとぼと夕闇の中を、唯歩く。
学校に戻る気には到底なれず、だけどお金も定期券も持たない私は、歩いて家に帰るしかない。
他に行く宛てなどない。
家までの距離は遠く、私は心細さに段々と歩みが鈍る。
そして、いつしか歩みが完全に止まり、私はがっくり肩を落とした。
その時だった。
誰かが後ろから私のその肩を掴んだ。
驚いて振り返るとそこには、
「……先輩……?!」
河合先輩が私の目の前に静かに立っていた。
先輩は「家まで送るよ」と呟いた。
しかし、私は全く素直になれない。
無視して、ぱっと歩みを進める。
しかし、ストライドの長い先輩は難なく私の隣に沿って歩く。
私は羽織った制服の白いカーデの中の両手を固く握り締めたまま、一言も発さなかった。
そうして、無言のまま国道沿いのバス道を更に五分ほど歩いていただろうか。
「なぁ、三浦。君、なんで新入生なのに、よりによって、ましてやソプラノ担当で代表入りしたのか、その理由まだわからない?」
私の右隣で黙って私に歩幅を合わせていてくれていた先輩が、ゆっくりと足を止め、そう私に語り掛けた。
私はつい足を止め、先輩を振り返る。
先輩は不意に空を見上げた。
つられて見た西の空。
梅雨空にしては珍しく、明るい『宵の明星』が輝いていた。
先輩は、その一番星を見つめたまま、ゆっくり言葉を紡ぎ始めた。
「君はさ、音感が人並外れて抜群にいいんだよ。『絶対音感』があるだけじゃない。生まれつきなのかなあ。『相対音感』て知ってるか? 簡単に言えば音を美しいと感じる感性。それが何より優れてるんだ。断言するよ。君が奏でる音は誰にも出せない。君にしか出せない、君だけの美しい音の魅力に溢れてる。それはもう音の魔法だ」
私はいつの間にか俯き、きゅっと唇を噛んでいた。
そうしないと、先輩の前で大声で泣き出してしまいそうだった。そんな自分を私は必死で抑えていた。
「君の今の立場が誰より辛いのはわかってるよ。でも、全国大会入賞を目指すには、君のソプラノが必要なんだ」
先輩は両手を制服のズボンの後ろポケットに突っ込んだまま、私の目線の高さまで腰を折ると、私の顔を覗き込み、私の瞳をまっすぐ見つめて言った。
「一緒に全国を目指そう」
「先輩……」
私はそれ以上、言葉にならない。
「三浦、頑張れよ。君ならやれる」
先輩は左手をポケットからすっと出した。
その手で私のロングカーデの上から私の右手を軽く握ると、黒いフレーム越しに柔らかく笑った。
ああ……。
先輩のこの笑顔をもっともっと見ていたい。
私が頑張って、先輩達の足を引っ張ることなく、もし『全国』に行けたなら。
もしかしてまだ見たことのない、先輩の特別はじける笑顔を見ることが出来るんだろうか。
潤んだ私の瞳から堪えきれない一筋の涙が、頬を伝って流れて、落ちた。
私は小さくこくんと頷いた。
◇◆◇
その日から、私は一切泣き言を言わなくなった。
放課後の特練の時間だけじゃない。代表だけで行われる朝練も、家での自主練も、誰より熱心に練習した。何をされても言われても、言い訳をせず黙ったまま、唯ひたすら練習に取り組んだ。
そして──────
「今日はアレ……入ってない」
朝、登校して重い気持ちで靴箱を覗いた私は、悪戯された楽譜が入っていないことに気付いた。
変化はそれだけではなかった。
「お疲れ。咲来ちゃん」
ピッチが終わり、音楽資料室へ向かおうとした私に小さく声をかけてくれた人がいた。
「梅田先輩……」
それは、あの代表部員発表の時、異議を申し立てた三年女子の梅田先輩だった。
同時に、私には少しずつソプラノパートとして必要な自覚が生まれてきていた。
「そう。三浦さん。その合わせる呼吸を忘れないように」
いつも厳しい金谷先生が珍しく特練中に笑みながら私に言ったのもその頃だった。
「すみません。高井先輩、ここのテナーのパートだけもう一度お願いできますか?」
私は、練習中も積極的に発言し、練習に能動的にのめりこむようになった。
唯一の一年生という立場ながら、いつの間にか私は五人の先輩達とも対等に渡り合える実力が身についてきて、曲の要を担うソプラノとしての責任も充分果たせるようになりつつあった。
そして気がつけば。
あれほど酷かったイジメもいつの間にか、なりをひそめていた。
◇◆◇
それは、あっという間に訪れた七月。
県大会本番までもうあまり間もない放課後のことだった。
その日も特練でヘトヘトになった帰り、靴箱まで来て私はふと足を止めた。
「侑里ちゃん……」
絶交状態だった侑里ちゃんが、靴箱の前に一人ぽつんと立っていた。
「咲来、ごめんね」
視線を落としたまま一言、侑里ちゃんがそう呟いた。
そして、私の許に歩み寄り、両腕で私の背中をぎゅっと抱き締めた。
「侑里ちゃん……」
「咲来……」
私達は二人で肩を抱き合いお互い、泣いた。
◇◆◇
「わあ豪華。美味しそう」
私はテーブルに並べられた夕食を見て、思わず声を上げた。
赤い色が華やかなビーツとキヌアのサラダ、帆立のプロバンズなど種々のオードブルに私の好きな分厚い揚げたての豚カツと有頭海老フライ、コーンポタージュスープなどのメニューが並んでいる。
「明日は咲来の初陣だものね」
そのお母さんの言葉に身が引き締まる。
明日は、夏の『青少年リコーダー・コンクール』の県大会。
「そんなに緊張しないの」
お母さんの言葉は優しかった。
「豚カツっていうくらいだから、明日は『勝つ』よ」
お父さんがぼそりと呟く。
「お父さん、そんなださいギャグ言わないで」
私は思わず吹き出した。
「明日、県立劇場で十時開始なんでしょ。お父さんと二人で聴きに行きますよ」
「えー、そんな恥ずいことしなくていい」
「お父さん、楽しみにしているのよ。ねえ、お父さん」
「まあ、咲来の晴れ姿だからな」
「緊張するよー」
「家でも学校でもあれだけ頑張ったじゃない。大丈夫」
確かに、やれるだけのことはやった。
その自信だけはあった。
「咲来らしく頑張りなさい」
「うん」
家族和気藹々と夕食を共にして、緊張が和らぐ。
大切な大会前夜の初夏の夜、私は優しい家族の存在に感謝しながら安らかに眠りに就いた。