2.突然のコンクール代表指名
「あー、今日もハードだわ」
体操服姿で更衣室へと向かいながら、侑里ちゃんがそうこぼす。
「リコーダー部って何? 気楽な部活動だとばっかり思ってたのに……」
「ほんと……。まさか陸トレがあるなんて誰も思わないよね……」
私もへとへとになりながら呟く。
リコーダー部の活動と言えば、優雅で呑気な室内楽のように思っていたけれど、実は全く違っていた。
広い音域で豊かな音色を出す為に必要な腹筋を鍛える為、ジョキング、腹筋運動など陸トレが必須なのだ。それは新入生誰しも予想していなかった。
「でも、咲来は『ピッチ』はすぐ慣れたよね」
「音合わせ? うん。あれはなんとなく……勘で」
制服へと着替えながら私は言った。
リコーダー部の活動……それは運動部かというようなトレーニングに取り組んだ後、ようやく楽器の練習に入るのだが、まずは『ピッチ』という音階練習の音合わせから始まる。Cマイナーから順番に音を出し、音程を皆で合わせるのだ。
陸トレが終わり、リコーダーに触れてもまず最初はこのピッチの練習があり、部員全員の音程が完全に合うまでは譜読みもさせてもらえない。
「あれ、わっかんないわー。先輩達は、「もっと上げて」とか「ソプラノのそこ低い」とか簡単に言うけど」
何のことやらさっぱりという感じで、侑里ちゃんは首をすくめた。
もっとも侑里ちゃんだけじゃない。新入生はまずみんなこのピッチがよくわからず、四苦八苦している。
リコーダー部の練習。それはとても地味で辛いものだった。
それでも、不思議と私は辞めようとは思わなかった。
リコーダー……それは素朴な温かい音色で、私の心を掴んで離さなかった。
◇◆◇
「かんぱーい!」
「乾杯!」
学校に一番近い『ミスタードーナツ』で、私と侑里ちゃんはおかわり自由のロイヤルミルクティーの白いカップをカチンと合わせた。
ミスドのティーはお砂糖を入れて甘く飲んでも美味しいけれど、ドーナツの美味しさを引き立てるためにこれはいつも無糖で頂くのが私のスタイル。
「やったね! 咲来。二人ともソプラノに選ばれて」
「うん。新入生の中では私達だけだもんね」
私は早速、大好きな『オールドファッション・ハニー』をご機嫌に頬張る。オールドファッションにシャリッとした食感の分厚いグレーズがかかったドーナツで、しっかりした甘さが味わえるミスドのメニューの中でもとりわけ人気の一品。
一方、侑里ちゃんは、もちもちの生地に蜂蜜入りのグレーズをかけたシンプルな程よい甘さの『ボン・デ・リング』がお気に入りで、ミスドでは必ず真っ先に頂く。
「でも、入部当初からすると随分、部員減っちゃったね」
「まあ、あの練習メニューだもんね。そりゃあ、辞めたくもなるわよ」
「でも、侑里ちゃんは陸トレへっちゃらじゃない」
「私は元々、運動部に入りたかったんだもん。それを咲来につきあわされてさあ」
そう言う侑里ちゃんはまんざらでもない表情をしている。
陸トレにピッチが基礎の練習内容に耐えられない部員は多く、最初の約三週間で新入部員は、入部当時の三分の一以下の約十数名に絞られていた。
けれど五月に入ったばかりのこの日、私と侑里ちゃんは二人ともアンサンブルでも花形の同じ『ソプラノ』パートに振り分けられたのだ。しかも、一年生の中では私達だけのたった二人。
「私達、辞めずに絶対、続けようね!」
「うん!」
その時、私達は二人で固く誓い、笑い合った。
そう、確かにその時までは──────
◇◆◇
しかし、そう……。
それは忘れもしないゴールデンウィークも過ぎ。新緑が日ごと鮮やかになっていく五月半ばのことだった。
「我がリコーダークラブはこの夏の『青少年リコーダー・コンクール』に出場を予定しています。七月の県大会で一位になり、そして、八月の全国大会出場、そして入賞が目標です。創部以来十年間、我が部は県大会に優勝して全国大会に出場したことはありますが、まだ全国大会入賞の経験はありません。輝くメダルを戴くことは部の悲願です」
その日の放課後は、陸トレもピッチもなしで部員全員、音楽室の机に並んで座っている中、リコーダー部顧問の金谷先生が壇上で説明をしている。
「そこで、今日はコンクール代表部員を発表します」
先生のその言葉に、部員一同、固唾を呑んで身を固くする。
「ソロ部門・ソプラノ。三年・綾部未織」
「はい」
綾部先輩がおとなしやかに落ち着いて返事した。
綾部先輩は一年の時からソプラノパートで、副部長。当然という雰囲気が漂う。アンサンブル部門のソプラノ担当と兼任でも綾部先輩なら文句ないだろう。
誰もがそう思った。
しかし。
「アンサンブル部門・ソプラノパート。一年・三浦咲来」
その時。
ドクン、と心臓の音がした。
「三浦さん、返事は」
「は、はい……」
教室中が騒然と気色ばんでいる。
私は自分の耳の聞き間違いであるに違いないと思うものの、掠れるような声でようやく返事をしながら、周りの射るような視線を全身で感じていた。
それから、アルト二名、テナー一名が選ばれて、
「バスパート。三年・河合匠吾」
「はい」
最後に、河合先輩の名前が呼ばれ、河合先輩は低い声ではっきりと返事をした。
代表部員は私以外皆、三年生だった。
「以上ソロ部門一名、アンサンブル部門五名が今年の代表メンバーです」
何故……。
何故、新入生の私が……。
まだ私は自分の耳を疑っている。
代表に選ばれて喜ぶような雰囲気では到底なかった。
「納得いきません!」
三年女子の梅田先輩が立ち上がった。
「ソプラノは『四声』の中でもメインで曲をリードする、アンサンブルでも特に重要な言わば要です。それをよりにもよって入部したての一年生なんかが……」
言葉には出さないが、音楽室にいる部員誰もがその言葉に同調している。私は身の置き所なく、その冷たい響きをただ呆然と聞いている。
しかし、
「異議は認めません」
毅然と金谷先生はその一言を放った。
「代表部員には基礎練の後に特別練習をします。明日から陸トレ、ピッチ終了後は、音楽資料室に集合すること。今日はこれで終わりますが、明日からまた皆さん、練習に励んで下さい。以上です」
(練習なんか……やってらんないわよ)
(あーあ。私、三年間でとうとう一回もコンクールに出られなかった)
ひそひそ声だが、確かに私に聞こえるように先輩方の声が私の耳に響く。
一年生も納得できないように憮然とした顔をしている。
私は、隣の席に座っている侑里ちゃんを縋るように見つめた。
「亜依ちゃん、帰ろ」
しかし。
侑里ちゃんは私の存在など目に入っていないように隣の席の亜衣ちゃんに声をかけると、席を立った。
「侑里ちゃん……」
私はそれ以上言葉が出ない。
皆がさっさと音楽室を出て行く。
後にはぽつんと私一人だけがその場に残された。
「うっ……」
思わず嗚咽が漏れる。ぽたぽたと涙が流れる。
いつまで経っても涙は涸れない。
どうしよう。
明日からどんな顔して部に来ればいいの……。
途方に暮れていたその時。
「三浦」
頭上から声をかけられ、顔を上げると河合先輩が固い表情で私を見つめていた。
先輩は、部長としてこの事態を重く受け止めたのだろう。
「大丈夫か?」
スッと先輩は青いチェックのハンカチを私の前に差し出した。
私は躊躇いながらも黙ってハンカチを受け取り、目尻の涙を押さえた。
「これから正直大変だと思う。けど……金谷先生にも考えがあってのことだよ。明日から代表みんなで頑張ろう」
真摯な表情で、力強く先輩はそう言った。
先輩はその場から立ち上がれない私の前にずっと黙って立っていてくれた。
先輩は部長としてどの部員にも気を配り、等しく優しい。
だから、私に向けられた特別な好意なんかじゃない。
それはわかっているけれど。
先輩の言葉は胸に染み、私の目からは涙がいつまでたっても流れ続けた。