01 辺獄
――ランスオルム大陸。
この世界における最大の大陸であり、嘗て大陸全土を統治していたランスオルム帝国と呼ばれる大国家に由来する名前を持つ。
現在は複数の国家によって各地が異なる制度、政治体制にて統治されており、時に覇権を争い、時に利益を求め、争いの絶えぬ時代が続いていた。
そして、ランスオルム大陸西部には――極めて険しく標高も高い山脈が連なり、麓には広大かつ深く暗い大森林が続く、人類未踏地帯が存在する。
人々はこれを『辺獄』と呼び、畏怖し、また時には冒険し、踏破を夢見る者たちによって日夜様々な手段を用いて開拓を試みられている。
そんな辺獄の、比較的安全とも言える浅層。森が比較的深くなく、生息する危険生物も少なく――とは言ってもあくまでも比較的に、ではあるのだが、そういった理由から人類が踏み込むことの可能な範疇ギリギリの地域。
一人の女が居た。
女は何やら魔術師らしきローブに身を包み、明らかに森の探索には向かない格好をしていた。
そして、女は三匹のゴブリンに追われ、駆けていた。手にした杖らしき物の残骸は、中程から折れたものであると見受けられ、到底武器にも、ましてや――魔法にもまともに使えたものではない。
「――ファイアッ!!」
女は、声を上げた。それが呪文であると、理解できるような脳味噌はゴブリンには無かった。
折れた杖を振り、ゴブリンへと向け、呪文を唱えたことによって女の魔法が発動するのだが、しかし不十分な道具を利用して実行された魔法は、大した威力を発揮することはなく、小さな火の玉をゆらりと飛ばす程度のことにしかならなかった。挙げ句、狙いすら正確に定まらず、炎はゴブリンに直進する事無く、森の木々の合間を縫うように飛び、やがて消える。
この世界における魔法――正確には魔術と呼ばれるその技術は、女が実行してみせたように、簡単に発動するものではない。適切な触媒を用いて、適切な呪文を唱えることによって初めて効果を発揮する。
女の魔術が失敗に終わったのは、まず触媒に折れた杖を用いてしまったことに原因がある。但し、女の技術では杖という触媒を使わねば、一言きりで魔術を発動させることは不可能であったため、ゴブリンに追われるこの状況下では使用せざるを得なかったのだが。
そして第二に、集中力の欠如という要因も重なり、魔術は適切に発動することが無かった。
ただ何にせよ、女の起死回生の一撃、苦肉の策とも言えるが、そんな攻撃魔術が失敗に終わったため、より状況は悪化したと言っても良かった。
女は苦い表情を浮かべながら必死に逃げつつ考える。状況を打開するための策と、そして何故己がこのような目に遭わねばならないのか、という不条理への怒りを同時に胸中へ抱く。
そうした理由から、思考が偏っていたこと、さらには後方のゴブリンへと顔を向けていたことから、前方への注意力は散漫となっていた。
そして――ドシン、と何かにぶつかる感覚により、女は立ち止まらざるを得なかった。
木にでも衝突したか、と考えた女が正面に向き直って――その目に入れた存在は、鬼であった。
褐色肌の、恐らくは変異種のオーガと呼ばれる怪物――この世界では、魔物と呼ばれる生物。それが女の目の前に現れた。
と同時に、女は死を覚悟した。オーガとは本来、辺獄のさらに深部、人類が足を踏み入れることの可能な限界付近に生息する怪物であり、ゴブリン等とは隔絶した力を持つ。ゴブリンの上位種であるハイゴブリン、さらに上位種のジェネラルゴブリンであっても、通常のオーガに敵うものではない。
さらに、このオーガの皮膚は日によく焼けた人間のようにも見える褐色をしており、本来の黒や深緑の皮膚とは大きく異なっている。
こうした身体的特徴に通常の種と異なるものを示す魔物は変異種と呼ばれ、大抵の場合は通常の種を遥かに超える力を持つ。
つまり――女の目の前に立つ怪物は、褐色肌の鬼は、女が逃げることしか出来なかった三匹のゴブリンとは比較にもならない程の圧倒的な力を持つ、正に『化け物』である。
最早、命運は潰えた、と女は絶望する他無かった。
だが――不思議なことに、褐色のオーガは女を無視し、ゴブリンの方へと向かっていった。
女が困惑する間に、オーガは三匹のゴブリンへと襲いかかる。