03 鍛錬
男は兄弟殺しを経て、ひとまず直近の目標を定めた。
それは、己の所属していた群れ――つまり親の群れを壊滅させること。つまるところ、親殺しに他ならない。
だが、これは男にとって必要な過程であった。もしも、この場から逃げるように立ち去り、親の群れを見逃すような真似をすれば、それは逃走に他ならない。
時には逃走も必要であろうが――しかし、いつかは乗り越えねばならない敵として、男は己の親を殺す決意を固めた。
その為にも、男にはやらねばならないことが無数に存在した。
一つは自己鍛錬である。異形の怪物、ゴブリンとして生まれたとは言えども、その膂力は決して人間離れしたものではない。むしろ、鍛えた人間の成人男性と比べれば非力なほどでもあった。
そのような虚弱とも言える肉体では、勝てる相手も多くないと予想される為、男は強くなる必要があった。
幸い、男の前世の記憶には、強くなるための鍛錬方法、知識が無数にあった。強さへの憧れ、羨望を抱いていた前世での男は、実際に格闘技や武術に手を出すことは無かったものの、知識だけは趣味として集めていた。
そうした知識を活かし、男は己の肉体を鍛え上げ、より強くなる為の、生存の為の努力を開始した。
これが――偶然にも、ゴブリンの生物としての性質と合致した。
男の転生した世界には魔力が存在し、魔法が存在し、そうした環境下でゴブリンと言う種は魔法を使えぬ弱小な種であった。
しかし、代わりにゴブリンは環境への適応能力が極めて高く、自らの体質を変化させることであらゆる場所での生存を可能としてきた。
この生存能力の高さ故に、ゴブリンは世界中、どのような場所にも生息するようになった。
例えば、男や兄弟ゴブリンの緑色の肌も、森の中に生息する為に獲得した体質であり、これが砂漠になれば強い日光に耐えるため、黒く変色する。
実際、この世界にはブラックゴブリンと呼ばれる皮膚の黒いゴブリンが存在するが、彼らを森の中に放り込むと、一月も経たない内に皮膚が緑色に変色する。
つまりゴブリンとは、世代交代を経ることなく環境に適応する能力を持つ種であり、その適応能力の高さ故に繁栄する種であると言える。
この性質が――男の自己鍛錬と、見事に合致した。
男は愚直に、非科学的とも言える鍛錬を毎日のように続けた。筋力を高める為の訓練は無論のこと、拳を強くする為に巻き藁――代わりに巨木へと幾度となく突きを入れた。
人間であれば過剰な負荷により身体を壊すだけに終わっていたであろう鍛錬が――そのどれもが尽く、ゴブリンという種が持つ環境適応能力により開花し、実を結んだ。
男の筋力は日毎に増してゆき、拳は固くなり、骨格までも頑丈に変わってゆく。
元々は背の曲がった、ゴブリンらしい肉体だったにも関わらず、一ヶ月も経過すれば男の身体はかなり人間に近い形へと変貌していた。
顔立ちまで醜悪なゴブリン特有のものから、どこか精悍さも感じられる形へと整い、頭部の二本の小振りな角さえ無ければ、最早ゴブリンであるとは外見からは想像も出来ないような状態であった。
そうした幸運に恵まれた男であったが、しかしこの一ヶ月、常に幸運ばかりが付き纏っていたわけでは無い。
生存の為の、最低限必要な水分は確保できていたものの、食料については安定して得られることは無かった。
本来、ゴブリンという種は群れで獲物を追い込む形で狩りをする為、単独での狩りの能力は高くない。男なりに工夫を凝らし、罠を駆使したところで付け焼き刃に過ぎなかった。
そして――例え食料が得られなくとも、男は鍛錬を続けた。肉体が限界を超え、悲鳴を上げようとも、更に自身を虐め抜いた。結果として身体が壊れたことも、負傷したこともあった。
空腹、負傷、鍛錬による疲労――様々な悪条件下で、それでも尚、男は強くなることを、勝利を諦めなかった。
そして、不運は重なった。
連日狩りに失敗し、空腹下の状況かつ、過剰な鍛錬により拳を負傷し、固く握ることも不可能な状態。更には、この日の鍛錬を終えた直後で疲労も溜まりきっていた。
そんな男の目の前に――宿敵が現れた。
「……ゲギャ」
醜悪な笑みを浮かべつつ、男を狙う目を向けるのは、かつて所属していた群れを統率するゴブリンの長。
――この世界では、ジェネラルゴブリンと呼ばれる、ゴブリンの上位種の、さらに上位種に該当する種。
そんな強者が、男が打倒せねばならぬ宿敵が――そして、男にとっての父でもある者が、群れの脱走者を殺す為に姿を表したのだ。
男は即座に、臨戦態勢を整える。
身体を動かすことすら苦しい程の状況下で、遂に闘争が、生存を賭けた殺し合いが開始する。