僕達は、頭を上げることが出来ない⑧
原付を暫く道なりに走らせる。サイドミラーに映る小さなライトは、近づくことも遠ざかることもなく、一定の距離を保ったまま点灯している。
なるべく遠くへ。無意識にそんなことを考えた。その考えに比例して、自分の家からどんどん遠ざかる方向へ原付は進む。私は真っ直ぐに、東を目指していた。
そういえば、と、私はサイドミラーの小さなライトに目をやる。私は一泊する用意をしてきたが、彼は用意を持っていない。高橋くんは着の身着のままだ。そんなことに気付くのに、どうやら一時間もかかってしまった。
すぐ先に見えたコンビニに原付を停める。高橋くんの原付もそれに続く。
「お疲れ」
私は、ヘルメットを取る高橋くんに声をかけた。いつも通り無表情で、高橋くんはこちらを向く。
「お疲れ様です」
「えらい遠くまで来てしもたな」
「もうすぐ県境越えそうですね」
高橋くんは、道路標識を見ながらそう呟いた。その言葉が後悔を表すのか、それとも期待を表すのか、私はやはりどうしても読み取れない。
「……高橋くん、用意何も持ってへんやろ」
高橋くんの後悔の言葉を聞きたくないがためだけに、私は無理やりこちらに話を引き戻す。標識から目を逸らした高橋くんは、私を見て、そういえばそうですね、と言った。
「コンビニじゃ服は買えんけど、食べ物と充電器くらいは売ってるんちゃうかな」
畳み掛けるようにそう言ったが、高橋くんは表情を変えない。眉一つ動かさず、私を見ている。
やはり、頭のええ子には私のことなど理解できないのだろうか。高橋くんのこの目は、一体私をどんな人として映し出しているのだろう。ろくな仕事に就けない、可哀想な女だと思っているだろうか。今日、一緒に逃げようと言ったのは、哀れみからだろうか。
「……ガラケーの充電器も売ってますかね」
ぽつりと、高橋くんがそう呟いた。
「ああー、どうやろか。もし無かったら、あっちに大っきいディスカウントストアがあるはずやわ。二十四時間営業の。そこやったらあるん違うかな」
へえ、と高橋くんが言う。
「とりあえず、コンビニ入ろか。暑いし」
馬鹿みたいだ、と思う。高校生の子を連れ出しておいて、その子が帰りたがる言葉を聞きたくないなんて馬鹿げている。心の底から馬鹿げている。
でも。私は、コンビニのドアを開けて私が入るのを待ってくれている高橋くんを見た。このいい子が、この優等生が、家や学校を捨ててしまいたい理由を、私はどうしても知りたくなってしまっている。いつか零れ落ちるかもしれない高橋くんの独白を、私は近くで聞いていたい。
コンビニの中は、寒すぎる程にクーラーが効いていた。湿った服の中にぱたぱたと空気を入れながら、私はコンビニの中をぐるりと一周する。カゴの中に、お茶と冷やし中華を投げ入れる。自分が作ったのではない晩御飯なんて、何年ぶりだろうか。今頃優樹はどうしているのだろうか。考えても、ろくなことが無い。どうせ今頃のびのびとカップ麺でも啜っていることだろう。
レジに向かおうとしたところで、目の端に高橋くんが映った。カゴの中には、充電器とお茶とおにぎりが二個入っている。
「充電器あったんや」
私が言うと、高橋くんは頷いた。
「ありました」
「ほんならよかった。晩御飯それで足りるん?」
「そんなに食べるほうではないので」
そうやろうな、と言いかけてやめた。高橋くんの細い腕と足を見ていたら、そんなことは一目瞭然だ。私は、高橋くんからカゴをひったくる。
「お金は少し持ってきてます」
高橋くんが言う。
「ええんよ。おばちゃんが奢ったる」
「先輩はおばさんっていう歳ではないです」
「ええんよ」
カゴを二つレジに置いて、会計をする。店員は、この時間に学ラン姿で佇んでいる高橋くんを訝しげに眺めたあと、商品をレジに通した。値段は、二人合わせて三千円にもならなかった。
片方のレジ袋を高橋くんに渡すと、卒業証書でも受け取るかのように両手で受け取り、すっと頭を下げた。
「そんな申し訳無さそうにせんでもええよ」
「俺もお金稼いでますし」
「ええって。高橋くんは将来のために置いときな」
私は、将来使わんかもしれんし。そうはさすがに続けられなかった。
「……どうする? 晩御飯どこで食べよか」
自分の頭に浮かんだネガティヴな言葉を消し去るように、高橋くんにそう言う。高橋くんは何かを考えるように顎に手をやったまま動かない。
「……とりあえずどっかのカプセルホテルでも探そか、暑いし」
スマホを取り出して近くのホテルを探そうとした時、高橋くんが口を開いた。
「あの、外で食べたりできませんか」
「え?」
スマホの電源を付けかけて、やめた。
「外で? 暑いで」
「なんかこう、外で食べてみたかったんです。ピクニックってそんな感じなんでしょう」
ああ、そういうことか。またこの台詞一つで、大人は色んなことを想像することが出来る。彼は多分、ピクニックをしたことがない。
「ピクニックっちゅうんは、昼間にするもんやで」
「そうやったんですか。外で食べたらピクニックかと思てました」
ふむ、とまた顎に手をやって考え込む高橋くんを見て、私はつい噴き出した。可愛いところもあるもんだ。
「……面白かったですか」
高橋くんがこちらを向く。静かに呟いた言葉に、思わず慌てた。もしかして、噴き出したのが気に食わなかったのだろうか。その顔にあまりに色がなくて、急に怖くなった。高橋くんの表情が変わらないのは、ずっと怒っていたからだろうか。
「あ、いや、ごめんな、そういうつもりじゃなくて」
慌ててそう言う。すると高橋くんは眼鏡の中に指を入れ、目をごしごしと擦った。
「……先輩って、損ですよね」
目を擦り終わった高橋くんが、静かにそう言う。
「え?」
「俺も損です」
しんとした街の中、静かな声だけが落ちる。微かに聞こえる車の音が、まだこの世界が終わっていないことを知らせている。
「怒ってるように見えましたか」
今度は何度も瞬きをしながら、高橋くんは言う。何度も何度も、何かを目から追い出すように。
「みんなそうみたいです。怒ってるように見えるらしいですが、俺は怒ってません」
最後にぎゅっと強く目を瞑ったあと、ゆっくり開いた目が私を映す。そこには確かに私と、後ろに建っているコンビニの光が映っている。それしか、映っていない。
「先輩も、俺が言ったちょっとの言葉で、焦ったり心配したりする。損です」
損。そうかもしれない、と思う。高橋くんの目には、きちんと全てが映っている。そして、映ったものだけを見ている。ただそれだけ。
「似てるんやと思いますよ、俺達」
高橋くんはそう言って、原付とは逆方向に歩いていく。
「え、どこ行くん」
「さっき通ってきたとこに公園ありました。歩いてすぐのとこです。そこで食べませんか」
食べませんか、と尋ねながら、高橋くんの足は止まらない。もう既に高橋くんは、公園で食べることに決めているようだ。
「……まあたまには、悪ないか」
高橋くんの後を追いかける。片手のレジ袋の重みが、歩を進めるのと同じリズムで沈んだ。