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僕達は、頭を上げることが出来ない⑦

ゆっくりとふらつく足で休憩室を出たところで、店長とぶつかった。


「おわっ、なんや。坂田さんか」


 大袈裟に仰け反った店長が、私の顔を見て頭をかく。


「今日はすまんかったな、ほんまに」


 店長のせいじゃないやないですか。なんでそんな何回も謝るんですか。そんなに何回も謝られたら、色々考え込んでしまうやないですか。そんなに私は情けない顔ですか。私は、情けない女ですか。


「……あの」


 言いたいことは山ほどあった。だけど私の口から飛び出したのは、考えてもみなかったような言葉。


「高橋くんって、どんな子なんですか」


 へ、と素っ頓狂な声を上げ、店長が目を見開く。


「高橋、って……こないだ入ったボンボンのことか」

「そうです」


 どんな子って言われてもなあ、と店長の目は空中を彷徨う。


「……ええ子、としか言いようがないわな」


 ええ子。その一言で、十分だった。


「ええ子、ですか」

「せやな。仕事の飲み込みは早いし、目見て挨拶出来るし、少々のことで動揺せんし、ちゃんと周りも見てる。まあ、言うこと無しやな」


 そうですか、と私は呟く。本当にええ子や。心の底から、ええ子。育ちがいいから。でも、その理由は育ちだけでは無いのだろう。多分。


「高橋がどうかしたんか」

「いえ。さっき休憩室で会ったもんで」

「そうか。まあキッチンのことまで心配すんな。あんまし背負いすぎもしんどいぞ」


 店長はわざと大声で笑うと、事務室の方に入っていった。


 駐輪場でヘルメットを被って、行き先を考えた。高橋くんが一方的に取り付けた約束の時間まで、あと五時間はある。たとえ高橋くんの申し出を丁重にお断りし、健全で真面目なお金持ち男子高校生を家に送り届けるにしても、約束の時間に駐輪場にはいなければならない。


 とりあえず、一旦家に戻ろう。カプセルホテルで一夜を明かすなら、足りないものがいくつかある。今なら優樹は仕事で不在だ。


「充電器と、下着と……」


 言いながら、原付に跨る。面倒臭いなぁ、と思いながらも、内心少しそわそわしていた。どこかに一人で泊まるなんて、今まであっただろうか。まるで小旅行だ。そんなじわりとした昂りが、気持ちをどんどん大きくさせる。


 つーか、なんで私が出ていかなあかんねや。優樹の家ちゃうし。家事だって全部私がやってる。掃除洗濯料理にアイロン、全部私がやってる。優樹は帰ってきたらちょっとテレビ見て寝るだけやんけ。待って、あいつ何なん?


 原付を走らせて家に着いた時には、優樹への不満が最高潮に達していた。脱ぎ散らかされた靴を蹴飛ばして家に入る。狭い二DK。こもった匂い。同棲を始めた時は、将来に希望しかないななんて思っていたっけ。付き合いが長くなればなるほど、ああ、私はこの人と一生一緒に居られるんだななんて青臭いことを考えていたっけ。脱いでそのままの靴下に、愛着まで感じていたはずだ。なのに今はどうだ。二人を繋ぐ赤い糸だとさえ思っていたこの狭い部屋は、ただの牢獄と化している。


 バイトの鞄の中身を、一回り大きな鞄の中にどんどん放り込む。一番底から、ヤケクソで投げ入れた通帳と印鑑が出てきた。私が貯めたお金。ずっと貯め続けてきた、私の愛の証。安っぽくて情けなくてちっぽけな愛の証。私の愛は、どうやら百万円のようだ。


「もしも、もしもね」


 誰に言うでもなく、そう呟いた。もしも、私が本当にいなくなったら。優樹は探してくれるのだろうか。それとも喜んで私を捨てるだろうか。心配するのは、どっちだろうか。私のことか、それとも、私と共に消えた百万円か。


 重くなった鞄を肩にかける。原付のキーを指にひっかけ、玄関のドアノブを回す。腹いせに、優樹の汚いスニーカーを踏みつける。


「……自由や」


 狭い牢獄の外の空気は澄んでいた。まるで長い刑期を終えて出てきた犯罪者のような、そんな言葉が思わず飛び出した。笑いが込み上げる。


「自由や、自由や」


 何度もそう言いながら、私は原付に飛び乗った。軽い。重いはずの鞄も、体重も、無重力空間にいるかのように軽い。原付ごと空に飛んで行けそうな、言葉にし難い浮遊感。不思議なものだ。ただ家を飛び出したことが、こんなにも心地いいなんて。今日は、優樹のシャツにアイロンをかけなくていい。洗濯物も回さなくていいし、ご飯も作らなくていい。何もしなくていい。


『多神楽』の裏の駐輪場に近付くと、人影が見えた。私の原付のライトで、その人影のかけている眼鏡が少し光った。


「ぴったりですね」


 高橋くんが言う。言われて時計を見ると、九時五分だった。


「ほんまや」

「先輩、真面目なんですね」

「そんなことないよ」


 私は原付に跨ったまま、高橋くんを見る。淡々とヘルメットを被る高橋くんを見ていたら、どうしても聞きたくなった。


「……やっぱり、高橋くんは帰るやろ?」


 この真面目くんが、こんな女と一緒に夜の街に出ていくように見えなかった。淡々と帰宅準備をして、淡々と家路に着きそうな、そんな雰囲気を醸し出していたからだ。


 でも、心のどこかで、私はそれを拒んでいた。この真面目で何を考えているか分からない金持ちの青年が、私のような女と一緒に家出を決行する瞬間を見届けてみたいと願っていた。


 私の問いに、高橋くんはこちらを真っ直ぐ見据えた。本当に、心の中が読めない目だった。そして、まるで授業で先生に当てられて回答を述べるときのように、淡々と言い放った。


「なんでですか?」


 高橋くんは目を逸らさない。人と話す時は目を見なさいと親に教えられたんだろうなと、ぼんやり思う。何故なら私もそうだったから。


 なんでって、と私は呟く。


「だって、アレやろ、学校もあるし、明日」

「学校なんて、行っても行かなくても一緒やないですか」


 高橋くんは、それだけ言って原付に跨った。


「それとも、俺やったら足でまといですか」

 狭い二DKから飛び出した時と同じ感情が、心のどこかから吹き出す音がした。


「……いや」


 私は言う。


「足でまといなんかじゃないよ」


 高橋くんが原付のエンジンをかけたのを見て、私も自分の原付を発進させた。後ろから同じ音が追いかけてくるのを、耳の後ろでずっと聞いていた。


 行き先の打ち合わせもせんかったな。ふとそう思った。だが多分、そんなものは必要ない。テレパシーのようなものは存在しない。だが、それでもいい気がしていた。


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