僕達は、頭を上げることが出来ない⑤
ハルちゃんの家は、ごく普通の一軒家だった。ぶっきらぼうな返事がインターホンから聞こえ、蹴り飛ばすようにして玄関のドアが開いた。
「こんにちは、森さん。お電話いただいた店長の湯田です」
店長が無理やり作った笑顔で会釈している。店長の名前って湯田やったんや。『店長』としか呼ばんから知らんかった。呑気にそんなことを考えていたら、店長がこちらを振り向いた。ドアから顔を出した森さんも、今にも噛みつきそうな猛犬の顔でこちらを見ている。
「あ、えっと、坂田です」
思わず狼狽えて、印象の悪すぎる自己紹介をした。森さんの顔が、みるみるうちに真っ赤になる。これは第一印象をしくじったかもしれない。
「この度は本当に申し訳ありませんでした」
森さんの変貌に気付いた店長が、空気を変えようと頭を下げた。私も仕方なく頭を下げた。
「あのねえ、いい加減にしてくれんかな!」
後頭部に、森さんの金切り声が降ってくる。
「うちのハルちゃんはねえ、一生懸命仕事してんのよ! それを新人やからって適当に扱って、指導もちゃんとせんと、ハルちゃんが一人なんも見て見ぬふりて、あんたら二人ともどういう教育受けてきたんよ!」
頭を下げたまま、私はしょっぱい顔をする。ああ、自分の子供を『ちゃん』付けで呼んじゃうタイプの人か。
「その点に関しては、少し誤解があるようでして……」
店長が言う。店長は、正しいことは曲げたくないタイプである。そちらの言い分も分かるが、こちらの言い分もある。どうしてもそれは譲れないタイプ。こうなると泥沼だ。意地と意地のぶつかり合い。
「何が誤解よ! 言うてみぃ!」
「春奈さんは、少し自分を持っていらっしゃるようでして……」
我儘で私たちの言うことを聞かない、とは言えなかったんだろうな。大声の押し合いを聞きながら、私は別世界に飛ぶ。
先日、初対面の高橋くんに言われた言葉を思い出す。先輩って、損ですよね。自分でもそう思う。でも、店長の方がよっぽど損だと思う。すいません、すいません、とだけ呟いて頭を下げればすぐに終わるはずなのに、自分の言いたいことは絶対に言ってしまう。疲れた顔は、もしかすると店長自身のせいかもしれないのに、どうしてそれに気付かないのだろう。
「……ちょっとあんた! あんたがハルちゃんのこと放ったらかしにしてたんやろ! ぼさっとしてないで何とか言いなさいよ!」
森さんの声がして、我に返った。両手で森さんを制する店長が、落ち着いてください、と声を張り上げている。
何とか言いなさい、と言われても、言うことなんてない。ハルちゃんは私の言うことを聞いていない、私は指示をする、ハルちゃんは動かない、だから仕方なく私が動く、動いてる間私はハルちゃんを見ることは出来ない。ただそれだけのことだ。
ふと森さん宅に面した道路を見ると、ご近所のおば様達がこちらを見てひそひそと喋っている。向かいの家の窓からは、何事かと主婦らしき人が顔を出している。
ああ、面倒やなあ。そうやって貴重な時間を、ご近所の噂話と要らん好奇心で潰してしまってええんですか。火曜十時にやっているあのドラマなら、そんな風に叫んだりするんだろうか。
「森さん、落ち着いてくださいて! この子はただの教育係で、このことには関係ないでしょう」
店長の声が聞こえる。遠くの方で。ただの教育係。そうだったな。ただの、教育係。私は、今流行りのあの女優ではないし、ドラマの主人公でもない。ただの教育係で、どちらかといえばモブ。だから、言いたいことは言わない。飲み込んで、潔く、ドラマの尺をきちんと一時間で終わらせるために、頭を下げるのだ。
「この度は、不快な思いをさせてしまって本当に申し訳ありませんでした」
はっきりと、一語一句誰も聞き逃さないようにそう言う。
「私の目が行き届いていませんでした。大変申し訳ないです」
深々とお辞儀をしたら、地面が見える。ちょっとだけ色褪せたタイル。階段の端っこは、少し欠けている。動きを止めた店長からは、きっと私の頭頂部が見えていることだろう。
「以後、このようなことがないよう一層注意して参ります。ハルちゃんはお仕事を頑張ってくれています。きっとこの先、良い人材になるはずです」
頭を下げたまま言ったのは、微かな対抗心。森さんの顔を見なくて済むから。
ふん、と鼻で笑うような声がする。
「ちゃんと謝れる子なんやねえ。感心するわ」
小馬鹿にしたように、薄ら笑いの混じった声を、頭頂部にぶつけられる。
「あんたみたいにヘコヘコ頭しか下げれん子は、きっといつまでたってもロクな仕事に就けんのよ」
そっと上げかけた頭が、上がらなくなった。
「森さん、もうええでしょう。ハルちゃんの件はこれで和解ってことにさせてくれませんか」
「和解、ねえ。こんなんで私が許すとでも思てんの? 親の気持ちも知らんで、馬鹿にすんのも大概にしてや!」
森さん、と店長が疲れた悲鳴を上げる。
「ええか、こんな小娘を教育係にしとんのが悪いんよ、分かるか店長さん。ええ歳こいてちゃんとした仕事もせんとフラフラしとるような子にうちの子任せんといてください」
森さん! と厳しくなった店長の声が、住宅街にこだましている。周囲のひそひそ声が一層大きくなった気がした。
頭が上げられないまま、ドアは勢いよく閉められた。それが試合終了の合図だったかのように、近所の人達がそそくさとそれぞれの道に散っていく。
「……帰ろか、坂田さん」
店長が、下げたままの私の頭をぽんと叩いた。それがスイッチになったかのように、私はゆっくり頭を上げた。
私の目の前、正面に見える、森さんの家のドア。クリスマスでもないのに、お洒落なリースがかかっている。玄関脇の鉢植えは花盛りで、窓の向こうのカーテンは、綺麗な水色をしている。
「……坂田さん、帰るで」
車のドアを半分開けた店長が、私を呼んでいる。
「……はい」
踵を返して、階段を降りた。幸せなんだろうか。人を怒鳴り散らして、得意気に笑うことが。
自覚はあった。流れ、流され、ふわふわと風に吹かれてここまでやってきた。父親に言われた通りに看護学校に進学して、母親に押されるがままに優樹と同棲し、優樹に言われるがままに金を貯め続けた。ロクな仕事に就けん。きいきい無駄に高いおばさんの声が、耳に押し寄せてきている。
「あんま気にせんでな」
何かを感じ取った店長が、そう呟く。
「ごめんなあ、変に連れ出してきて」
「構わないですよ。結局店長一人で行っても、結果は同じでしょ」
そうだ。あの人の言うことなんて、真に受けなくていい。あの人はとにかく、正論に見せかけた押しつけの意見で人を見下したいだけだ。私が行っていようが行っていなかろうが、結局あの人は怒鳴ったし、鼻で笑ったのだろう。
「……今日は早退でええで」
店長が言う。その、謎の優しさが逆に辛い。
「いや、逆に今家に帰ったら余計に気分悪いままやないですか」
それやったら、何も考えんでええように働かせてくださいよ。そう続けたら、店長の眉は八の字になった。
働かせてくださいよ。何も考えんでええように。ただ、ハイボールを割る比率と、卓のバッシングのことしか考えなくていいように。
寂しすぎる慰められ方にもっと寂しくなりながら、私は店長の横で車に揺られていた。