僕達は、大人になることが出来ない④
境目。その言葉だけが頭の中をぐるぐると回っている。そしてその言葉を知ってか知らずか、私たちの乗った原付はまた県境を越える手前を走っていた。途中何度かガソリンスタンドで給油をし、その度に金をどちらが払うかの押し問答を繰り返した。結局毎回私が通帳を突きつけ、渋々高橋くんは押し黙った。途中で寄ったファストフード店で、私達はハンバーガーを食べた。高橋くんはその店のハンバーガーは食べたことがあるがナゲットは食べたことが無いと言ったので、ナゲットも注文することになった。二人の胃袋は小さめで、結局食べ切れなかったナゲットが高橋くんのリュックの一番上に入っている。
これまでの道中のことをそんな風に思い出しているのは、昼過ぎに何度もスマホが点灯していたからだ。バイブレーションさえ鳴らないように設定した私のスマホは、何度も静かに優樹からの着信を知らせていた。
「……いいんですか」
ファストフード店の騒がしい店内の中、ハンバーガーをコーラで流し込んだ高橋くんはそう言った。私は見ないふりをしていたスマホをその時初めて手に取って、結局裏向きにして机に伏せた。
「ええんよ、気にせんで」
そう呟いたはいいものの、本当は気が気でなかった。気にしない方が難しかった。
一日以上家を空けたことは、優樹と同棲を始めてから一度も無い。しかも連絡もしていない。いっその事優樹を着信拒否にする、というのも頭の片隅にはあった。だけど出来なかった。結局私は、『そういう女』だ。
信号待ちでポケットからスマホを出すと、優樹からの着信を知らせる通知の上の時計が午後二時を指していた。平日のこの時間は車通りも少ない。交差点の信号が赤になったのを見てスマホをポケットに戻そうとした時、液晶が光った。
【店長】
表示された名前を見て、さっと血の気が引く。交差点がどちらも赤信号になる、一瞬の空白の時間。すぐ我に返って、スマホはポケットに突っ込んだ。原付を走らせながらも、さっきの名前が頭をぐるぐる回っている。
冷静に考えればそうだ。今日だって朝から出勤する予定だった。しっかりシフト表には私の名前が載っている。一緒に名前が入っていたのは誰だったっけ。ひーちゃんだっただろうか。私が来ないことに気付いたひーちゃんが店長に電話したのだろうか。そうなると、仕込みを二人でしなきゃいけなくなってしまったのだろうか。それとも店長がヘルプで入ってくれたのだろうか。店長はどう思っているのだろうか。真面目にやってきた奴が、急に連絡も無しにバックれたことを。
もう何度目か分からない交差点。きちんと守る赤信号。守らなければ、死の危険がある。
『先輩って損ですよね』
もう何度目か分からないフラッシュバック。損だと思う。本当に。目の前の道路は車が少なくて、横切る車は二台ほど。平日の昼間なんてこんなものだろう。ましてや都会から少し離れた場所では。この赤信号を突っ切れてしまえば楽だろうと思う。少し早く到着出来る目的地が、目指す場所か墓の二択になるんだから。
静かになった交差点に、またささやかな騒がしさが戻る青信号。結局私は、その二択さえも選べない。
何だか息苦しい気がした。自由を手に入れたなんてはしゃいでいたほんの少し前の気持ちなど吹き飛んで、今ではヘルメットの中に変に冷たい汗をかいている。ハンドルを握る手も、濡れてよく滑る。後ろから聞こえる原付の音が、心地よかったはずの音が、何だか怖い。例えるならそう、寝坊したと直感で分かった時の目覚ましの音みたいに。
大通りを通るのが苦しくなって、私はふと細い道へ原付を曲がらせた。センターラインも信号もない道は、大通りの店の裏口や札の掛かったドア、そこそこの大きさの家が並んでいる。小刻みな背後の原付の音が少しスピードを上げ、隣に並んだ。走らせたままちらりと隣を見ると、同じように高橋くんもちらりとこちらを見た。私たちはどちらからと言うわけでもなくスピードを落とし、ふと現れた空き地にしか見えない駐車場に原付を乗り入れた。
「どうしはったんですか」
ヘルメットを外しながら高橋くんは言った。汗で濡れた髪に指を通して、風を送り込む。
「うん、ちょっと」
「さっきスマホ見てましたよね」
よぉ見てんな。思わずそう言った。もう既に私の中では、高橋くんには敵わないという公式のようなものが出来上がっていた。
「店長から電話やったわ」
「今日先輩シフト入ってたんですか」
「そりゃもう。朝からしっかり入れてたから」
家に放り出してきた制服を思い出す。洗濯機にも入れずに床に落としてきた。優樹はそれをきちんと拾って洗濯機を回しただろうか。もしそうでないとしたら、揚げ物の臭いが染み付いてしまう。
「店長に電話しなくてもええんですか」
高橋くんがそう言う。
「高橋くんは家族には電話しとったな」
「一応しておきました。かなり怒鳴られはしましたけど」
飄々とそう答えた高橋くんは、不意に目を私の後ろに向けた。その目線を追うように、私も振り向く。
着信のことだけで頭がいっぱいで気付かなかったが、どこからかいい匂いが漂ってくる。嗅ぎなれた匂い。
「……たこ焼きの匂い」
私の言葉に、高橋くんがヘルメットを被り直す。原付のエンジンをかけ直し、こちらを見た。
「行きませんか」
高橋くんは笑わない。でも昨日からずっと高橋くんと行動していて、今の彼が楽しんでいるということだけは理解していた。たった二日間を一緒に過ごしただけなのに。思わず苦笑した。
「高橋くん、さすがにたこ焼きは食べたことあるんよね?」
私もヘルメットを被りながら言う。着信履歴が並ぶ時計は午後二時半。おやつには少し早いが、いいだろう。何より、高橋くんが少しでも行きたいと思うところなら何処へでも行くつもりだった。
「あります。でも」
「でも?」
「買い食いはしたことがないんで」
なるほどな、と思いながら私もエンジンをかけた。医者の息子はどこまでも想像通りだ。
「電話の件は」
今度は高橋くんが私より先に駐車場を出た。細い道でこちらを振り返り、やはり笑わないままで言う。
「たこ焼き食べながら考えませんか。せっかくだし」
せっかくだし。高橋くんの言葉に、私はヘルメットの上から頭をかいた。その通りだ。どうせ今すぐに電話をかけたところで、素直に仕事場に戻れるような場所じゃない。ここがどこかはよく分からない、だけどとにかく遠くまで来てしまったのだ。今更仕事には戻れない、だから縛られなくてもいい、多分。
「そやな」
私が言い終わらないうちに、高橋くんの原付はゆっくり走り始めた。匂いを辿りながら走らせる原動機付自転車は、歩くスピードよりもゆっくりだった。




