僕達は、大人になることが出来ない③
「あれ」
朝六時半。本能というのは怖いもので、アラームをかけていなくてもふと目が覚める。二度寝を決め込もうとしたのに眠れなかったので、仕方なく起きてロビーに向かった。すると、見覚えのある黒髪がロビーで立っていた。
「おはようございます」
いつ櫛を通したんだろう、と思うほど真っ直ぐな前髪。ガラケーを片手に、高橋くんは頭を下げた。
「おはよう。寝れた?」
私が聞くと、高橋くんは相変わらず無表情のままで頭をかいた。
「いえ、あまり」
そうやろうなぁと私も苦笑する。ふと、ロビーの時計を見る。文字盤の下に、カレンダーも表示されるタイプの時計。七月。曜日は金曜日。
「……もしもし」
高橋くんの声が静かなロビーに反響し、私は振り向いた。ガラケーが、高橋くんの黒髪の中に埋まっている。
「……はい、しばらく帰りません。……大丈夫です、事件に巻き込まれたりはしてへんので。……俺の意思です。はい。……ただの家出です。……はい……」
高橋くんの電話の声を、寝不足で働かない頭で聞く。心地よい声が、淡々と言葉を紡いでいる。
「ええ……大丈夫です。信頼出来る大人と一緒です。これで十分でしょう。……不満なんてありません。もういいですか。……もういいですね。迷惑をかけますが、後はよろしくお願いします。それじゃ」
黒髪に埋もれていた白いガラケーが、ぱちんと音を立てて閉じられた。
「……誰に電話?」
聞きながらも、予想はついていた。後半部分、少し苛立ったように吐き出していた言葉を聞いていたら、想像するのは簡単だった。
「親です。ようやく俺がいないことに気づいたようだったので、一応」
高橋くんはガラケーをズボンのポケットに突っ込んだ。
「警察も、定期的に本人から連絡が来るんやったら動かないと聞いたことがあるので」
淡々とそう言い放つ高橋くんを、私はどこか幻でも見ているかのような気持ちで眺めていた。実在の人物とは思えない程に、高橋くんは完璧だった。
「……そうなんや」
やっとのことでそう答える。黒髪の中、見えている綺麗な形の耳。
「今日はどこへ行きますか」
口角の上がらない口が、そう動く。ひたすら日常から逃げ出そうとする高橋くんが、何故か眩しい。連れ出したのは私のはずなのに。
「……よし」
大きく深呼吸をして、私は手を一つ叩いた。
「やりたいこと全部やってみよか」
「やりたいこと?」
高橋くんが首を傾げる。
「そう、やりたいこと。やりたかったけど、やれんかったこととか」
昨日の夜ふと思いついた台詞を吐き出したら、また自由になった高揚感に包まれた。今の私たちは、何にも縛られていない。
「やりたいこと……」
高橋くんはそう呟いたきり、顎を撫でながら黙り込んでしまった。
「ゆっくり考えよ。時間はいっぱいあるし」
目が覚めてしまった午前七時。日が暮れるまで、あと十二時間はある。それに、明日も明後日も、その次も、まだ時間はある。考え込む高橋くんを見ながら、私はこれからのことを想像した。何をやってみよう。美味しいものをひたすら食べ続けてみようか。登山に挑戦してみるのもいいかもしれない。はたまたお洒落なカフェを探して飛び入りでバイトをするのも面白い。高橋くんも一緒にどうだろうか。きっと制服は似合うはずだ。
広がる妄想の世界の中、ぽつんと高橋くんの声が響いた。
「あの」
「どうした?」
「やりたいこと、ですよね」
そうそう、と私が続きを促すと、また高橋くんは顎に触れた。
「少し、抽象的な言い方になってしまうんですけど」
「うん、ええよ」
「大人になりたいです」
真面目な顔をして、高橋くんはそう言った。思わぬ言葉に、私の妄想の世界は一瞬にして萎んでしまった。
「……大人に?」
「はい。一体何を境に、大人になるんでしょうか」
「そりゃ……成人せんと無理なんちゃうかな」
「いえ、そういうことではなくて」
高橋くんは首を捻る。
「俺は大人ではないです」
「そやなぁ」
「じゃあ先輩は大人ですか?」
そりゃそうやろ、と言いかけて、押し黙る。高橋くんの言っていることは多分、『そういうことじゃない』。年齢とか、経験とか、そういうことで計る物を指している訳じゃない。だとしたら私は、本当に大人なのだろうか。油の匂いに塗れて、誰かに言われるがまま頭を下げ、誰かに押されるままに人生を選んできた私は、本当に大人と言えるのだろうか。
「……俺は大人になりたいです」
同じように考え込んでしまった私に、高橋くんはもう一度そう言う。大人になるって、一体なんだろう。頭のいい彼に分からないのだから、私が分かるはずがない。
「別に大人にならんでもええやんか。高橋くんいい子やし、そのままでええやんか」
そう答えたのは、もしかすると精一杯の足掻きだったのかもしれない。私が言ってほしい言葉だったのかもしれない。そのままでええよなんて、甘えでしかないのに。
「よくはないと思います」
高橋くんは、そんな苦し紛れの私の台詞を一刀両断した。あまりにきっぱりしていて、逆に清々しいくらい。
「俺が思うに、多分いい子は大人になれません」
じりじりと時計が進む。進むにつれ、ホテルの中のざわめきが徐々に大きくなる。
「でも、悪いのは悪いで、駄目だと思います」
小難しい話をするなあ、と思いながら、私は高橋くんの目を見て続きを促す。
「いい子と悪い子の境目って、どこでしょうか」
そんなこと、別にどうだっていいんじゃないか。そう言えなかったのは、私にも心当たりがあったから。店長が高橋くんのことを『いい子』だと紹介した時、何故か頭のどこかでその言葉が引っかかったから。高橋くんが『いい子』という言葉で片付けられてしまっていることに、疑問を覚えたから。そして、私もそうだったから。
「……境目を探してみませんか」
ロビーの端にあるエレベーターが到着を告げたのと同時に、高橋くんがそう呟いた。エレベーターのドアが開いて、眠そうなサラリーマンが降りてきた。よれたスーツ。精算を済ませ、早歩きで私達の横をすり抜けていく。
「面白そうなこと言うなあ」
私はサラリーマンを目で追いながらそう答えた。
「面白いですか」
「面白いよ」
私は腕をぐっと天井に上げて伸びをする。
「私も、損な女のまま死にたないねん」
「もしかして気にしてましたか、俺の言うた言葉」
「そりゃあ気にするよ。初対面の男の子に言われたんやもん」
すいません、と頭を下げる高橋くんを見て、私は笑った。
「ええよ、その通りやから」
私はもう一度伸びをした。私も高橋くんも、今日このカプセルホテルに『いい子』は捨てて行こう。
境目。そこを見つけた私達は、多分初めてその時大人になれる。
漠然とした目標に、私達はゆっくり傾き始めていた。荷物をまとめ、私達はまた原付に跨った。ひたすら家と反対の方角へ、二台の原付は走っていく。




