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僕達は、大人になることが出来ない②

 高橋くんは結局外のトイレで、ジーパンと白いTシャツというシンプルな格好に着替えた。大きくて、目が眩みそうなほど明るいディスカウントストアを二周したのに、私はシンプルなコーディネートしか提案出来なかった。


「ごめんな、ファッションとか私もあんまりよく分からんねん」

「俺もあんまりよく分からないです」


 高橋くんは、ディスカウントストアの安くて薄い袋に、きっちりと畳んだ制服を押し込んでいた。あまりに畳み方が綺麗で、ディスカウントストアの袋さえ高級店の袋のように見える。


「あの」


 原付を停めたコンビニまで戻ろうとした時、高橋くんが私を呼び止めた。


「ん?」

「ありがとうございます」


 何が、と返すより先に、深々と頭を下げられた。


「えっ、私何もしてへんで」


 慌てて言ったが、高橋くんは頭を上げない。艶々とした黒髪が揺れている。


「俺の我儘ばかり聞いていただいて、お金まで出していただいて」


 頭を下げ、くぐもった声で高橋くんはそう言った。


 そんなことどうだってよかったのに。服のお金とか、それくらい払えるし。私はまだ頭を上げたままの高橋くんをもう一度見る。やっぱり読めない。彼の心の中が。それが無性に悔しくなった。


「ええんよ、ええんやって」


 何度かそう言って、ようやく高橋くんは顔を上げた。


「お金には私、困ってへんし」


 自虐的にそう呟いた。ふわりと脳内を掠める、給料明細。社員になって、時給が少し上がった。だけど特に嬉しいとか、そんな感情は湧き上がらなかった。


 そんなことをぼんやりと考えたあと、私はハッとして顔を上げた。持っていた鞄を公園の地面に置き、中身を探る。


「困ってへんにしても、俺だって自分の物は自分で用意出来るくらいのお金は……」


 高橋くんがまだごにょごにょ何か言っている。私はそれを聞き流しながら、鞄の中を掻き回す。


 あった。これだ。


「これ!」


 私は、指に触れた硬い物を取り出し、高橋くんの目の前に突き付けた。


「えっと、これは」

「『私の』通帳」


 腹いせに持ってきた、優樹との結婚資金の書かれた通帳。七桁の数字が、そこには刻まれている。


「ここに、百万入ってる。見て」

「でも」

「ええから見て」


 おずおずと、高橋くんは両手で通帳を受け取った。細い指が通帳を開く。


「私な」


 口から流れるように飛び出す言葉を、私はもう止められなかった。本当にそんなことをしてしまってもいいのか、なんて、体のどこかに少しだけ残った理性が叫んでいるが気にしない。今更理性もクソもあったもんじゃない。私は自由になったのだから。


「私な、もうその百万いらんねん」


 私が言った言葉に、高橋くんが顔を上げた。やはり無表情ではあったが、微かに目が見開いた気がした。


「要らない、とは?」

「そのまんまの意味。その百万、もう使わんねん」


 高橋くんがゆっくりと瞬きする。ただ、言葉を促されている気がした。


「せやからさ、高橋くん。手伝ってくれへん?」

「何をですか」

「この百万、全部使い切るの」


 高橋くんがもう一度通帳に目を落とした。そして、顔を上げ、もう一度通帳に視線を向ける。


「……これ、使い切るんですか」

「うん。だってもう要らんし」


 その通帳を作りに行った時は、それが二人の愛を示す指標だと思っていた。でも今はもう、ただの数字の羅列でしかない。だらだらと流れた時間を表すだけの数字。


「一回、ゼロに戻したいねん」


 全部リセットしてみたい。そして、戻ってみたい。優樹に出会う前に。何もかもがだらだら過ぎていくより前の世界に。この七桁の数字もただの数字だったと、そう思いたい。なんや、大したことないな、と笑ってみたい。


 そんなことを考えつつ、私は高橋くんから通帳を受け取った。大金が入っているとは思えないくらい軽い紙の束。こんなちっぽけな物が、愛の指標であっていいはずがない。


「……いいんですか」


 高橋くんはそう言った。


「さすがやね、高橋くんは」


 思わず私はそう答えた。


「何がですか」

「なんでそんなことするんかって、理由は聞かんのやな」


 ああ、と高橋くんはまた顎を指でなぞった。


「言いたくないから言わんのかなと思って」


 車の通りが徐々に少なくなっている。耳元で挑発する蚊の音が、近付いては遠ざかっていく。


 何を言うでもなく私たちは歩き始め、原付に跨った。ホテルの場所も調べないまま、また原付のエンジンを稼働させる。人気の無い大通りは、点滅の黄色信号が支配している。


 この時既に私は、何もかもを考えるのをやめていた。明日の仕事のこと、優樹のこと、高橋くんの家出の理由も、考えるのをやめた。ただこの大通りで、カプセルホテルを探すことだけに熱中していた。きっと、考えても無駄な事だ。考えるだけ、無駄な事だ。


 適当に見つけたカプセルホテルは、女性のスペースと男性のスペースが別になっていた。


「ここで一旦別れるけど、大丈夫? 分かる?」


 天井と廊下を交互に眺めている高橋くんにそう声をかける。真っ黒くて真っ直ぐな前髪が、こちらを振り返る。


「大丈夫です。分からんかったら、見つけた方に聞きます」


 では、と言って、真面目な男子高校生は深々と頭を下げた。ほなまた明日。私もそう言って、頭を下げた。


 カプセルホテルの自分のスペースに入ると、一気に疲労感が押し寄せる。だらりと伸ばした足を念入りに揉みほぐしながら、スマホの電源をつけた。優樹からメッセージの一つや二つ来ているかと思ったが、意外にも来ていなかった。そりゃそうか。自分から出て行けと怒鳴った手前、今更連絡も出来ないだろう。アイツはそういう男だ。


 ベッドに潜り込み、目を閉じた。明日の予定を立てようと思ったが、やめた。そうやって毎日、まだ起きていないことを考えて最善の選択肢を探そうとするのは、高橋くんの言う『損』なんじゃないか。


 リセット。小さい頃、親に押されたゲームのボタンを思い出す。ゲームは一日三十分まで。その決まりを一生懸命守った。ある日、ついつい没頭してしまって、約束の時間を十分過ぎてしまった。悪いのは私だったけど、怒った父親に押されたリセットボタンは、さすがに堪えるものがあった。毎日三十分、きっちり積み上げてきた物が、たった一つのボタンで全て崩れ去っていく様。もしかしたら、この心の中の段ボールが不安定なのは、その時心の中で地震が起きたからなんだろうか。いや、まあ全部私が悪いんだけど。


 とにかく、と私は、眠らない目を無理やり閉じた。


 積み上げても、崩れるのは簡単。そのことを私は知っている。だから、今度は私が崩す方になってみようと思う。


 掛け布団を抱き締めて、私は大きく息を吐いた。嗅ぎなれない匂いは、あまりいい匂いとは言えなかった。

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