僕達は、頭を上げることが出来ない①
「十番テーブル、これお願いします!」
カウンターに滑るようにして、黒いトレーが置かれる。皿の上の焼き鳥が、慣性の法則に従って奥に寄ってしまった。右手でそれを真ん中に直し、左手で生ビールを二杯持つ。
坂田詩織。今年の九月に三十になる。居酒屋チェーンの『多神楽』で働いている。自己紹介で言えるのはそれくらいの、薄っぺらい生活。
「アキちゃん」
十番テーブルに向かう途中で、カウンター席の近くにいるバイトのアキちゃんに声をかける。
「はい」
「今日八時から予約入ってたやろ? 座敷のバッシング先やってや」
分かりました、とパタパタ走っていくアキちゃんを見送る。いい子だけど、ちょっと気がつくのが遅め。いい子だけど。
居酒屋『多神楽』。たくさんの神様が楽しむ場所。お客様は神様です精神に基づいているにしても、大層な名前だと思う。
大学時代からここでバイトを始めて、のらりくらりと過ごしていたらバイトリーダーになっていた。それものらりくらりと過ごしていたら、いつの間にか社員になっていた。大学で勉強したことなんて、ここではこれっぽっちも役に立たない。注射の打ち方とか、高齢の人のお風呂の入れ方とか、カルテの打ち方とか。びっくりするくらい使わない。
「お待たせしました、生ビールの方」
十番テーブルに座っていたのは、仕事終わりのサラリーマン御一行様。五十代から六十代くらいに見える。
「おい、姉ちゃん困っとるぞ! ビール言うたん誰や」
「俺はお湯割り言うたぞ」
「あーあー何も聞こえへんわ!」
一番奥のお客様が手を挙げたのを見て、笑顔でそれを持っていく。焼き鳥も置いて退散する時になっても、まだ誰がビールを頼んだかを探す大声が響いている。
「すいませーん、注文いいですか」
二つ隣のテーブルから声が掛かる。
「はい、伺います」
私は席の下に仕舞われたバインダーを抜き取る。ご注文の際はこちらのボタンでお呼びください。ボタンの前に貼られたテープが、居心地悪そうにしている。
「坂田さん」
注文を聞き終わって帰ろうとしたら、アキちゃんに呼び止められた。
「どしたん」
「すいません、ダスターが無くて」
「どこ行ったんやろか」
どこ行ったも何も、誰かが使っているからに決まっているだろう。キッチンの奥の戸棚に、新品が仕舞われているのを出せばいいのに。
「仕方ないから新品出そか」
「出していいんですか」
「ええよ」
小走りで去っていくアキちゃんの後ろ姿を目で追いかける。エプロンの紐が外れて、地面を引きずっていた。
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家に帰ったら、夜中の三時だった。昨日は五時から十二時のシフトだったのに、あの後アキちゃんがグラスを割り、結局ラストの片付けまでしてしまった。
玄関でなるべく音を立てないように靴を脱いだ。唐揚げ臭いエプロンを洗濯機に投げ込んで、そのままスイッチを入れる。冷蔵庫の中身を一瞥して、明日の朝の献立を組み立てながら風呂に入る。出る前に軽く風呂掃除をしていたら、洗面所で音が鳴った。しまった、と思いながら、ドアを開けて顔だけ出す。
「……ごめん、起こした?」
「別に」
目が半分しか開いていない優樹が立っている。
「せっかくやし風呂掃除でもしとこかなって……今何時?」
「四時半」
優樹は大きな欠伸をした。
「優樹起きるの何時なん」
「六時半」
「ごめん」
「ええよ。もう起きとく」
もう一度ごめん、と言う。優樹が洗面所を出ていったのと同時に、私は風呂から出てパジャマを着る。
同棲を始めて、もう五年になる。優樹と付き合ったのは二十一歳の頃だったから、付き合いはもう九年目だ。これも、のらりくらりと過ぎていった時間。でも、進歩もなければ退化もしない。私はもう三十歳になろうとしているのに、何の変化もない。私の口座に溜まったお金は、一体いつ使うことになるのだろう。
濡れた髪を手早くドライヤーで乾かしていると、ちょうど洗濯物が終わる。この洗濯機の音で起きたのか、と気付いたのはこの時になってからだった。昼のシフトの時は帰宅するなり洗濯機を回すのが日課になっていて、無意識にそれをしてしまった。洗濯物を干して、ようやくリビングに向かう。ソファに座ってスマホをいじる男が一人。
「お前さあ」
隣に座ろうと思ったら、優樹が口を開いた。
「何?」
聞き返しながら、頭の中でため息をついた。お前さあ、から優樹の言葉が始まる時は、説教が始まる合図である。
「仕事仕事で一緒の時間が無いん分かってるん」
「分かっとるよ。ごめん」
「しかも夜中とかに帰ってきてさあ。俺明日も仕事やのに起きなあかんやん」
ごめん。でも別に、起きてこいなんて頼んでない。勝手にあんたが起きてきて、不機嫌なっとるだけやんか。そんな言葉を全部飲み込んで、頭を下げる。親が見たら、きっと情けないと言うだろう。うちの親は、母親の方が強い。でも、私はそうはなれない。私は私であって、母さんではない。頭を下げたら、満足してくれる。それを心得ているから、頭を下げる。
「まあ分かればええねんけどさ。ちょっとは俺の事も大事にしてえや。俺だって言いたないねん、彼氏と仕事どっちが大事なんとか。女々しいやん」
お前は女々しいやんか。ずっとずっと女々しい。一度別れ話を切り出した時に駄々を捏ね、友達と旅行に行った時には一番盛り上がってる時間に電話をかけてきた。女々しいやんか。全部全部、心の中の段ボールに詰めて、ガムテープを貼って、押し入れに入れる。後々面倒くさくならないように。
「うん。ごめん。なるべく夜のシフト減らしてもらう」
「お前さあ、それ前から言うとるよな」
しまった、地雷だった。じゃあ何を言ったら終わるだろう。頭の中はそれを考えるので精一杯だった。こっちがヒステリーを起こせば罵り合いになりそうだし、ここは私が引くしかない。そうやって、引いて、引いて、引いて生きてきたから、引き算以外の方法を知らない。
「ごめん」
「ごめんしか言わんしさあ」
「もっと、こう、どうにかする」
「仕事辞めたらええやん」
結婚資金のためにお前も働け言うたん自分やんけ。しかも、看護師は夜勤あるし忙しいからやめとけ言うたんも自分やんけ。どうしたらええねん。積み重なって倒れそうな段ボールを必死に支える。段ボールが倒れないように、右を支えたり左を支えたり、新しい段ボールを支柱にしてみたり、私の生き様は情けない。逃げて、避けて、言いたいことを絞り絞った残滓で私は出来ている。多分。
「それは、難しいかな」
「何でや」
「社員になってもうたし」
優樹はふんと鼻を鳴らした。
「また真面目アピールやん」
「アピールしてないよ」
優樹は、私が社員になったという話を嫌う。それと同時に、大学を卒業してるという話も嫌う。でも事実やし。アピールではないけど、私のこともちゃんと知っていて欲しい。それはわがままだろうか。
「分かったよ、もうええ」
「何が」
優樹は立ち上がり、スウェットの中に手を突っ込んで尻を掻いた。そのまま、狭い廊下に向かって歩き出す。
「寝るわ」
「もう五時やから、あと一時間もしたら起きなあかんで」
「言われんでも分かっとるわ」
優樹は私の方を振り向きもせず、リビングのドアを閉めた。ソファの上で、変な風に尻を浮かした、情けない奴が一人。明日のシフトは何時だっけな。そんなことを考えたのは、もう何も考えたくなかったから。
結婚すると思っていた。お前の勝手な妄想だろうと言われたら、そうかもしれない。でも、結婚資金という名前で二人で通帳を作りに行ったし、指輪のサイズも測ってあった。今も、目の前のサイドテーブルには、いくつかの新居の間取りが置いてある。そのうちの一枚を、そっと手に取った。人差し指にホコリがついた。
水を一杯飲んでリビングを出た。玄関に、優樹の靴が転がっているのを見つけた。それを揃えながら、二年くらい前の記念日にプレゼントした靴だなあなんて思った。その時私は何を貰ったんだっけ。というか、優樹は記念日を覚えていたっけ。
玄関の横の寝室に入ったら、優樹が背中をこちらに向けて丸くなっていた。布団を頭まで被っている。
女々しいやんか。言いたい言葉を押し込める。なんやねんその格好。察してちゃんはもう飽きたわ。そう思いながら、私は隣に潜り込む。同じように背中を丸めて、そっと背中をくっつける。
「……ごめんね」
そう呟く。これで満足か。
「……ん」
静かに背中が震えた。舌打ちはさすがにしなかった。