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キングス・エッジ  作者: 土方コウジ
第一章 オペラシオン・セロッホ
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第一章 ⑤

 西暦二〇一七年。四月一七日。月曜日。一六時一分。

 日本。豐秋黌高等学校。二年四組教室。


 うっすら夕日の差し込む窓際で。

 京介と千恵は、並んで手すりに寄りかかっていた。


「……まあよかったじゃん。お近づきになれて」


 拗ねてしまった相手の機嫌を取るように、困ったような、少し艶っぽい声で、千恵が言った。


「……まーね」


 一拍おいて京介がまさしく、拗ねた男の声で応えた。

 

「いやぁ……それにしても。ぺらぺらだったね、カーチャちゃん」

「……ああ」



 ――昼休み。教室にて。

 京介は宣言どおり、カーチャに接触していた。

 話題ははじめての会話にありがちな、出身地についてだ。


『へえ~。いいとこそう』


 ざっくりとした概要を聴き、京介は無難な相槌を打った。

 自席に掛けたカーチャは、前席の椅子を失敬して座る彼に向かって、饒舌につづけた。


『ええ、いい街よ。都会すぎず、田舎すぎず。ノヴゴロドっていうのは新しい街って意味なんだけど、歴史はとっても古いの。近くに大きな湖があって、夏のあいだは泳げるのよ。そこで獲れた魚をウハーに使うの』

『うはー?』

『魚のスープ。たぶんだけど、日本でも比較的作りやすいロシア料理じゃないかしら』

『ふーん。やっぱスープ文化なんだ』

『そうね。寒いから。とか言いながら、夏は冷製スープを飲むんだけど』


 カーチャはくすっと笑うと、


『でも嬉しいわ、色々訊いてくれて』

『そう?』

『ええ。みんなが日本のことをたくさん教えてくれるのももちろん嬉しいけど。こうやって私の背景を知ろうとしてくれるのも、とっても嬉しいものよ』

 

 そう言って、今度はにっこりと微笑む。

 彼女が男子相手にここまでの笑顔を見せるのは珍しいので、教室内には『見て見て』と友人を肘でつつく者もいた。そして、まわりの席で聞き耳を立てていた男子たちの中には(なんてこった。そういう心理もあるのか……)と悔しがる者も複数人。彼らはおもに下心で、学校生活や日本について、得意げに教えてばかりいた連中である。将来ウザがられる“うんちく男”や“説教男”にならないために、このたび重要な教訓を得たのだった。

 とはいえ。

 これにはカーチャ自身がこれまで自分の生い立ちや、日本に来た経緯について積極的に話してこなかった、という事情もあった。そのためクラス内にはなんとなく『触れない方向で……』くらいの空気さえ漂っていたのだ。だから『背景を知ろうとしてくれて嬉しい』というのは、意外な言葉だった。

 それはさておき――


『そっか。じゃあ折角だから、ロシア語もちょっと喋ってみてくれない?』


 とうとう京介は、本題に切り込んだ。


『ちょっと京介。いきなり失礼でしょ』


 三人で輪を作りながらも、黙って会話の成り行きを見守っていた彩希が、困惑した表情で幼馴染を注意する。

 だがカーチャはなんの気負いもなさそうに、


『いいわよ』


 と快諾すると、ロシア語らしき言語をすらすらと話しだした。


『――どう?』

『……おー。ありがと。なんかごめん。聞いたことなかったから……』


 もちろん内容など分からなかったが、とても流暢であることは間違いなかった。ずっと使っていない言語でも、あとから学んだ言語でもなさそうだ。

 それよりも、ロシア語が予想以上に長文で、最後がなにやら問いかけるようなニュアンスだったことで、京介は少々面食らってしまっていた。

 

『……ぷっ、あはははは』


 不意にカーチャが笑い出す。

 京介がわけも分からず固まっていると、彼女は種明かしをした。


『今のはウクライナ語よ。似ているようでけっこう違うんだけど、まあ分からないわよね』

『……どゆこと?』

『一時期リヴィウに住んでいたの。いまも親戚がいるわ。あー可笑しい』


 カーチャがまた笑う。

 初めて見せるその一面に、クラスの注目がさらに集まった。


『佐倉くん、もしかして私が本当にロシアから来たか疑ってたんじゃない?』

『あ……いや、なんていうか。日本語がすごい上手だから、じつはこっちの暮らしが長いのかなーって』

『やっぱり。でも来たのは本当に最近よ。日本語は好きで勉強してたけど、自分でも上達ぶりに驚いてるくらいなの。けど教えてくれた従兄弟はもっと上手なのよ』

『はあぁ、そうなの』

『ご満足いただけたかしら?』

『そりゃあもう。満足したし、いらん恥もかいたし』


 京介は怒るでも赤面するでもなく、ただ控えめに肩をすくめて言った。意固地にならず、相手が一枚上手だと素直にみとめる、そういう態度だった。

 そんな彼の大人びた様子に、カーチャはすこし意外そうな顔をすると、


『ところで、私さっきなんて言ったと思う?』

『いやもう全然、これっぽっちも』


 京介は首を横に振って即答した。


『正直に言うと、最初はものすごくテキトーに、関係ないこと言ってただけなの。で、最後に“あなたが話しかけてくれて嬉しいわ。良ければ連絡先を交換しましょう〟って言ったのよ』


 それを聞いて、あとで京介を揶揄うつもりだったクラスメイトたちは顔を見合わせた。

 カーチャは身体を捻って、机の横に掛けたバッグからスマートフォンを取り出す。


『書類の不備ですっかり遅くなっちゃって、ようやく契約できたの。いいかしら?』



「――で、友達登録したんでしょ? プロフィール見せてよ」


 昼休みの出来事を始終見ていた千恵が、手を出して催促する。


「ああ。ちょっと待て」


 京介は胸のポケットからスマートフォンを取り出し、流行りのコミュニケーションアプリを起動した。それから『新しい友達』をタップし、新規登録された『友達』の情報を表示する。


「ほれ」

「どれ」


 京介が見せた画面を、千恵が覗き込んだ。


〈Катя〉――カーチャです――


 名前欄にはキリル文字。下のひと言欄から察するに、恐らくこれで“カーチャ”と読むのだろう。ちなみに背景画像は、彩希とのツーショットになっていた。


「へぇー」

「登録するとき向こうの画面も見たけど、キリル文字でいっぱいだったな」

「ってことは本当にロシア生まれのロシア育ちで、ついこのあいだ日本に来たってわけ」

「そーじゃないの? 一回おちょくられたから断言はしないけど。でも地元の話も随分してたし」

「ふーん」

「……でもま、これで俺は彩希に次いで、栄えあるカーチャのお友達登録第二号ってわけだ。交換するところを見てた、周りの視線の鋭いこと鋭いこと」


 言いながら、京介は得意げな顔でうんうん頷いた。

 いささか情けない過程を経たとはいえ、クラスメイトに先駆けて、東欧美少女の連絡先を手に入れたのは事実である。カーチャにさして好意があるわけではないが、これは単純に嬉しかった。


「じゃあ私は~、一二番目くらいかな」

「はぁ?」


 千恵の一言に、京介が間抜けな声をあげる。

 彼女はブレザーのポケットから自分のスマートフォンを取り出し、京介に見せた。


「ほら」


 そこには先ほど京介が見せたのと、まったく同じプロフィール画面が表示されていた。


「おいっ」


 咄嗟にそれを奪おうとする京介から、千恵はひらっと身を躱した。


「女子はあのあと、ほとんど交換したよ~」

「知ってるよっ。お前もしてたんだったら、見せてなんて言うなよっ」


 京介が怒り半分呆れ半分で抗議する。


「だって嬉しそうにしてたから。もっと喜ばせてあげようと思って」

「……いい性格だな、ほんと」

「ごめんごめん。でも男子だったら、まだ一人だけじゃない?」 

「ああそーかもね。それを心の拠り所に生きていくよ。どうせクラスのグループに入ったら、そこからみんな登録するんだろうけど」

「やだなぁ、拗ねないでよ」


 千恵は困ったように笑うと、


「でもカーチャちゃんも意外と、私みたいなとこあるんじゃない?」

「そうだな。最初はもっとシャイで上品な感じだったけど、緊張してただけかも。今日見せたのが本当のキャラなんじゃないか?」

「ね。まあそっちのほうがいいよ。ちやほやされるより、クラスにもっと馴染みたいでしょ。もちろん彩希ちゃんは居るけど。あんまり独り占めすると幼馴染が寂しがるしね」

「だからンなことないって。言ったろ、中学の頃から行きも帰りもバラバラで――」

「はいはい。それとさ――」


 それからしばらく雑談を続け、京介と千恵はそれぞれ帰途についた。



 豐秋黌高校と佐倉家は、徒歩一五分の距離だった。

 京介がこの歴史ある学校を選んだ大きな理由は、なんと言っても近いからだ。遠い昔、園バスで彩希となかよく通園して以来、彼は小中高と徒歩通学を貫いてきた。大学は流石にどうなるか分からないが、二時間もかけて通うくらいなら、キャンパスの近くで一人暮らしのほうが良い。将来の夢は徒歩通勤か車・バイク通勤。もしくは在宅勤務。遠出や旅行は嫌いではないが、毎日押し合いへし合いの満員電車はまっぴらごめんだった。


「ただいまー」


 いつものように玄関のドアを開けると、廊下からばたばたと妹が駆けてきた。

 京介とは違い黒髪で、それを()()頭巾の似合いそうなおかっぱに切りそろえている。とにかく元気な七歳児で、生傷の絶えないわんぱく娘だ。


「おにーちゃーん!」

「――っと。どうした優子」


 勢いそのまま突っ込んでくる妹を、京介は抱き止めた。お出迎えなど珍しい。

 優子は京介の脚に『ひしっ』と抱き着いたまま、ずっと上にある兄の顔を見上げ、


「あのねー、縄跳び知らない?」

「縄跳びぃ? また失くしものか」


 京介は呆れ顔で、妹の顔を見かえした。

 このあどけない元気印には、よく物を無くす一面があるのだ。


「失くしたんじゃないよ。お庭に置いといたらどっかいっちゃったの」

「部屋は」

「見た」

「学校は」

「見た」

「ちゃんと探したか?」

「探した」


 すべて即答。この自信はどこから来るのか。どうせ、いま挙げた候補の中から見つかるくせに。


「……ああそう」


 京介はため息をつき、


「分かった。探しといてやる」


 と言って、優子の頭をぽんぽんと叩いた。それから二階にある自室へ鞄を置きに、階段をのぼる。その背中に優子が呼びかけた。


「見つかんなかったら買ってくれるー?」


 京介は振り向かず、立ち止まらず答えた。


「さあ。だらしない子の面倒は見切れないな」


 ――縄跳びは、見つからなかった。



 聖暦一六九九年。四月一九日。水曜日。一四時四〇分。

 ベルジア。オート=アルドーニュ県。ツェルヴィッツ市。フォルテ・ディ・ガリツェリ。(ガリツェリ城塞)執務室。


「一七歳……か」


 つぶやくアリシアは、この城塞で二番目に上等な執務机に構えていた。

 むっつり眺めていた手元の資料から、机の前に立つ青年に視線を向け、


「若いな」

「少佐殿もまだまだお若いですよ」

「……ありがとう」


 そーゆー意味ではなく、戦場に出るには若すぎるという意味で言ったのだ――と、説明すると虚しい気持ちになるので、アリシアはそれ以上なにも言わなかった。

 このガリツェリ城塞は、首都グランツィヒを守るために築かれた古い防衛施設のひとつで、フランス語の名前の県の中にある、ドイツ語の名前の市の郊外にある、イタリア語の名前が付けられた、なんともややこしい城塞である(この世界の人間はそう感じたことは無いが)。草木生い茂る小さな丘陵の上にあり、質素で堅牢な堡塁と、レンガ造りの大きな兵舎が特徴だった。


「私はエリニ人の知り合いはいないんだが、みんな君のように日本語を好むのかな」


 アリシアは気を取り直して、青年に訊ねた。


「まあ……小さい頃は結構喋りますかね。母親が話すことが多いんで、それに影響されて。父親は出稼ぎですから。だけど……」


 青年は天井を仰いで思案する。


「男でこの歳になるまで話すとなると、自分くらいですかねぇ。まあ変わってるとは言われます」

「なるほど」


 アリシアは再び、手に持った資料に目を落とす。


〈名前 マーヤ・スリリャオナン〉〈年齢 一七歳〉〈性別 男〉

〈階級 伍長〉

〈出身 アレンツェ県 ピアネゴ村〉

〈所属 第五山岳旅団『アリエステル』 第二三重装山岳猟兵大隊 第三中隊 第一小隊〉


 アリエステル山岳旅団。ベルジア西部の国境地帯を守る精鋭部隊だ。

 険しい山々がそびえ立つ天然の要害を縄張りとし、毎年夏にはベルジア最高峰〈ナギン〉への訓練登頂も実施している。部隊は生まれながらの山の民で編成され、南部のテスタヴェーデ山岳旅団と共に畏敬の念を込めて『ベルジア陸軍山岳部』と呼ばれていた。なかでも重装山岳猟兵とくれば、普通は山の下に置いてくるような装備を背負い、切り立った崖をすいすい登るような連中である。

 そんな離れ業が出来るのも、青年がエリニ人だからだろう。

 エリニ人はベルジアの山岳地帯に暮らす少数民族で、下手をするとこの青年の出身地だという〈ピアネゴ村〉も、海抜四〇〇〇メートルくらいの場所にあるかもしれなかった。

 青年は外見もエリニ人らしく、アリシアを含めた大多数のベルジア人とは異なっていた。

 褐色の肌に、大きくて艶っとした黒い瞳。長い黒髪を三つ編みにしているせいで、一見男か女かわからない。


「……少佐殿、ひとつお聞きしても?」

「ああ」

「なぜ日本語好話者を探しているんですか」

「俳句部を作ろうと思ってな」

「……またまたご冗談を」

「やはり無理があるか?」

「さすがに、ちょっと」


 青年は困惑した愛想笑いを浮かべる。

 

「ふむ。……詳しくは話せないが。私はあらゆる状況下で日本語が出てくる人間を探している。感情が高ぶった時に、複数の言語が飛び出すようでは困るんだ」

「? はぁ……」


 不可解な話に、青年はとうとう上官相手に首をかしげた。

 アリシアも内心おなじ気持ちだったが、仕方がない。自分の副官曰く『あの世界では、自然に習得できる言語が多くてもたったの二つか三つ』なのだ。

 とくに門の先、()()()()では、ほぼ日本語しか通じないらしい。

 にわかには信じられないことだが。

 とにもかくにも、自分も日本語好話者なのは幸運だった。


「――そこで、だ。適性を見るため、きみにはある試験を受けてもらう」

「……試験。ですか」


 青年の顔に緊張の色が浮かぶ。


「ああ。その試験というのは……ふぁ……へくちっ」


 アリシアは鼻と口を両手で覆い、くしゃみをした。


「お大事にどうぞ」


 青年が当たり前のように言うと、


「合格だ」

「は?」

「きみの前にこれをやった連中は、『サルーテ』や『ゲズンタイト』を使ったので不合格だった。ふだん日本語で話していても、とっさの時にはそんなものだ」

「あ、ああ。そういうことですか」


 思ったより厳格な審査だ……と青年は思った。きっと他にも『ブレスユー』や『アヴォスゥエ』と言って落とされた者が居るのだろう。この四つはベルジアのどこでも聞く。


「いまのは一次審査だ。あす二次審査を行うから、今日はこれで帰っていい。それと、この事はくれぐれも他言無用にな」

「……はっ。では失礼します」


 ぴしっと直立不動。それからくるりと向きを変え、青年はドアに向かって歩き出した。


(参ったな)


 ――と、彼は思った。なんだか妙なことに巻き込まれている気がする。それに帰っていいと言われても、自分は急に命令を受け、まる一日かけてこの城塞にやって来たのだ。明日も続きがあるなら、原隊に帰るわけにはいかない。


(大きな兵舎があったし、言えば一部屋貸してくれるかな?)


 青年がそんなことを考えながらドアノブに手を伸ばすと――

 次の瞬間ドアが『ばんっ!』と勢いよく開き、大男が『うおおおおおっ!』奇声を上げて、執務室に乱入してきた。


「うわぁああああああああ!?」


 青年は悲鳴を上げ、小脇に抱えていた帽子を放り投げ、尻餅をつき、そのままズルズル後ずさって、執務机にすがりつく。

 大男は両手を広げ、猛烈な勢いで彼に迫るが――掴みかかってはこなかった。どうやら驚かすのが目的のようだ。


「えっ!? えっ!? なんなんですか!? なんなんですかマジで! びっくりしたぁ!」


 腰が抜けて立てない青年をよそに、アリシアと乱入した大男――カイルは満足そうに顔を見合わせた。


「日本語だったな。カイル」

「ああ。恥ずかしい真似を続けた甲斐があった」


 このしょうもないドッキリを仕掛けたのは、これで三回目だった。前の二人は“くしゃみ試験”をパスしたものの、カイルが驚かすと、『シャイセ!』だの『ピュタン!』だの叫んだうえ、ドイツ語で唾を飛ばしまくりながら罵詈雑言を並びたてたのだ。

 ふだん別の言語を話していても、怒るときはドイツ語。

 理由は――怒って聞こえるから。

 この悪癖のないベルジア人を軍内から探すのは、なんとも骨が折れた。

 実際、もっと時間がかかると思っていたのだが――幸運なことに、早くも合格者が出たのだ。

 事態が飲み込めず、床にへたり込んだままの青年に、カイルが手を差し出す。青年がその手を取ってふらふらと立ち上がると、アリシアが告げた。


「おめでとうマーヤ・スリリャオナン伍長。これで本当に合格だ。君はいまから私の部下になる。よろこべ、特殊作戦軍に栄転だぞ」

「は……? ぁぁー……はいっ」


 ぎりぎり取り繕ったものの、青年――マーヤは、まったく嬉しくなかった。

 栄転と言われても、自分は立身出世には興味がない。軍に入ったのも、エリニ人にとっては庭みたいなものである山岳地帯を巡回(おさんぽ)して、(ついでに山菜やキノコなんかを摘んで)家族を養えればそれでいいという考えからだ。

 だというのに。こんなわけの分からない試験をうっかりパスしてしまい、なんだか気合の入った部隊に配置換えになりそうなのである。正直たまったものではなかった。

 そんなこととはつゆ知らず、アリシアは矢継ぎ早に話を続ける。


「正式な辞令ももちろん出すが、こちらも急いでいてな。君にはそれよりも早く動いてもらう。とりあえずボードレール少佐ときみの原隊には私から――」


 ばぁん!

 と、先ほどのカイルより激しく、執務室のドアが開かれた。

 目を丸くする三人の視線を受け、たった今アリシアが口にした、ボードレール少佐が入ってくる。アリシアが借りている、この執務室の主だ。

 広い額に整ったダークブロンドの髪。高く細い鼻梁。三〇代半ばの、苦労の多そうな顔のボードレール少佐は、


「ランベール少佐、すぐにグランツィヒへ戻れ」


 走ってきたのだろう、息を切らし、肩は大きく上下していた。


「どうしたんです?」

「五時間ほど前、ハインリヒス・ハーフェンの灯台からチェルニーヒウが見えたそうだ」

「なっ……」

「水上艦を引き連れて、ガレー海沖を低空飛行していたらしい」

「いつの間に……北海沿岸のセヴェロザヴォーツクに居たはずでは?」

「詳しいことは不明だ。だが見たというんなら、実際居るんだろう。あれは海峡なんか関係なしにガレー海に入って来れる。なにせ飛んでるんだからな」


 空に浮かぶ船――空中艦を建造・保有できる国はごく限られていた。ベルジアも持っていないし、周辺国のほとんどもそうだ。が、そんな超兵器を相手は一隻だけ持っていた。

 空中巡洋艦チェルニーヒウ。大国ルテニア製のその艦は、五年ほど前に特例の払い下げで()()()に渡っていた(そして現在の正式な艦名はチェルニゴフ。艦種は空中巡洋戦艦だった)。その脅威度は、先日眺めた艦隊とは次元が違う。


「それだけじゃない。北海艦隊所属の例の戦艦が、またトルホー海峡の外側をうろつきだしたらしい。二日前から海峡局と揉めているそうだ」

「レゲンダ……性懲りもなく」


 旧艦名レジェンド。こちらはアルビオンにある巨大造船所、ニューランド・リッジ造船所製の戦艦で、一〇年前にチェルニーヒウ同様払い下げられたものだ。

 先月も北海からトルホー海峡を通ってガレー海に入ってこようとし、海峡局に止められたばかりである。その時はガレー海における艦数制限の条約を、ガレー海の軍港、ヴィガでの緊急整備の名目で破ろうとしていたらしいが……いやはや、まだゴネていたとは。


「そういう訳で、悠長に部隊を編成している場合ではないらしい。なんのことか私にはさっぱりだがな。とにかく選考を中止してすぐに戻れとのことだ。……まったく、海の異変で内陸の城塞内を走る羽目になるとは」

「申し訳ありません」

「ああいや、君を責めてるんじゃない。悪いのは全部向こうだ」


 ようやく息を整えつつ、ボードレールはことわった。


「残念だが、ここに集めた候補者も解散だそうだ。そっちはやっておくから君は急げ」

「分かりました。しかし――」


 言いながら、アリシアは立ち上がって、帽子掛けから制帽を取った。


「幸いなことに、条件に適った人間を一名だけ見つけました」

「本当か」

「ええ、たったいま。――彼です」


 アリシアの真っ直ぐな視線を受けて、マーヤはぎこちない愛想笑いを浮かべた。



 ――三日後。

 聖暦一六九九年。四月二二日。土曜日。二二時三分。

 アルツァイツ宮殿休眠区画。


 煌々と灯されたランタンと、それによって壁に投げかけられた、いくつもの人影。

 石造りの室内は張り詰めた緊張と、不気味な静寂で満たされていた。

 やがて、唯一この静寂を破っていい人物、ひときわ太い影の(あるじ)が、厳かに声を発した。


「ガルブレイズ大尉。貴様の参加に私は最後まで反対だった。貴様がいまここに居るのは、アルビオンからの強い要望と、陛下のご決断があったからだ」


 バッハが喋るたび、石壁に肥えたシルエットが揺れる。その周囲にはやはり、一〇名ほどの精鋭が控えていた。


「心得ております。閣下」


 あの姿見を背にしたカイルが、まっすぐな眼差しでバッハに答えた。

 その隣にはアリシア、さらにその隣にはカチコチに固まったマーヤがいた。


「…………。門に関してまったく無知だった我々が、ここまで素早く動けたことは貴様の助力が大きい。それは素直に感謝しよう」

「当然のことをしたまでです」

「向こうがどんな場所か、一切言えないのも分かった」

「アルビオンでの軍務中に知りえた事ですので」

「ああ分かっとる。何度も聞いた。だがいま、いま貴様はベルジア軍人だな?」

「もちろんです。全力を尽くします」

「……うむ」


 事ここに至ってようやく納得した様子のバッハに、アリシアがひとこと告げた。


「私は大尉を信じております」

「そうか。では少佐、私はきみを信じよう」


 それから少しの沈黙の後、バッハの威勢のいい声が、石造りの部屋に響き渡った。


「諸君らが身を投じる作戦は、ベルジア建国史上類を見ないものである。しかし陛下はこういう事態のためにこそ、私財を投げ打たれ、いみじくも王立特殊作戦軍を設立された。諸君らはその期待と負託に応え、自分たちに三軍のいずれとも違う、特別な価値があると証明しなければならない。……オペラシオン・セロッホ開始!」


 三人がいっせいに姿見へと振り返る。

 カイルがその装飾に手を触れると、鏡面の端から墨汁のような黒が滲んで広がり、やがて全体を漆黒に染め上げていった。

 アリシアは息を飲んでそれを見守り、マーヤはただただ言葉を失っていた。

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