第一章 ③
聖暦一六九九年。四月七日。金曜日。一四時五分。
ベルジア王国。首都グランツィヒ。アルツァイツ宮殿休眠区画。
質素倹約と言えば聞こえはいいが、ようは財政難である。
それを理由に広大な宮殿には『休眠区画』と称して、使用を控えている場所が幾つもあった。めったに掃除もされずほったらかしの部屋たちも、かつては華やかな宮廷生活の舞台であり、現在の倍以上いた使用人たちの生活の場だったのだ。
「土嚢を積み上げる前に埃をどうにかしてほしいな。まったく」
そうぼやくアリシアは、休眠区画のひとつである、大きな石造りの部屋にいた。
薄暗い半地下の、かび臭い物置部屋。小さな採光窓からは日の光が差し込んでおり、それが舞い上がる大量の埃を幻想的に光らせている。
息を吸うのも躊躇われ、彼女は鼻と口を手で覆った。
「埃もそうだが、まずはこのガラクタを片付けたほうが良い」
彼女の隣に立っていた副官――カイル・ガルブレイズ大尉が、低く野太い声で言った。
頭のてっぺんからつま先まで、劇画調のように線の太い男である。二メートルの巨躯は筋骨隆々、眉骨の出た精悍な顔立ちで、プラチナブロンドの髪はいかにも軍人らしく刈り込んである。
そしてこの男はアリシアとまったく趣が異なる軍服――野戦服を着用していた。ベルジア軍で唯一、オリーブドラブの迷彩服姿なのである。
「ガラクタとは失礼だな。どうやらこの部屋の物品は、トレルイエの遺した錬金術の道具らしいぞ。貴重な品だ」
「……なら尚更、どうにかしないとな」
ため息交じりに言い、カイルは陰気臭い部屋をあらためて見渡した。
ちょうど学校の教室くらいの室内には、カイル曰くガラクタ――アリシア曰く貴重な品が、埃をかぶって、ところ狭しと並べられていた。
……いや、敷き詰められ、積み上げられ、一部は散乱すらしている。
たとえば、木枠で固定された怪しいガラスの球体。たとえば、得体のしれない液体の入った蒸留酒の瓶。布で覆われた大掛かりな装置に、物々しい密閉容器。流しのついた大机と、その上に載った古めかしいフラスコやビーカー。
ほかにもバケツ、ひしゃく、火ばさみ、薬品類、植物標本などなどなど――
差し詰め廃校の理科室、もしくはマッドサイエンティストの隠れ家といったところか。
そして、そんな惨状を呈する部屋のいちばん奥には、一枚の大きな姿見があった。
自立式で、楕円形。
この部屋にまったく似つかわしくない、豪華な装飾に縁どられた大鏡で――紛うことなき、王侯貴族の品だと分かる。
だがそれ以上に異様なのは、姿見の周囲だった。その鏡を――まるで危険物でも囲うように木の柵が、さらにそれを囲うように、軍用の土嚢が積んであるのだ。
まるで姿見包囲網だが、これには重大な意味があった。
「――ん? カバーはどうした」
ふと思い出したようにカイルが訊ねる。
「姿見のか? あまりにばっちいので洗濯に出した」
「…………。そうか」
「しかしまあ、どこから手を付けていいやら」
一度は『貴重な品』だとのたまったアリシアも、部屋の惨状に思わず愚痴をこぼした。
この部屋の以前の使用者――高名な錬金術師にして、自らを『自然哲学者』と称したポール・トレルイエ。
ベルジア人なら誰もが尊敬する人物だが、この状況では部屋を散らかし放題にして夜逃げした、アパートの元住人という感じがしてしまう。
そして自分たちは、そのアパートの管理業者というわけだ。
二人がしばらく途方に暮れていると、ふいに背後の木製ドアが開いた。
「待たせたな、少佐」
入ってきたのは、たっぷりと顎肉を蓄えた将官――バッハだった。
アリシアもカイルもすぐさま姿勢を正し、敬礼する(二人とも無帽だったので、直立不動を敬礼とした)。
「異常は無いかね」
「はい。今のところは」
答えながら、アリシアはバッハに続いて入ってきた女性兵士に目をやった。
二十歳前後。軍服はアリシアのものより質素なデザインで、装飾もずいぶんと抑えられている。襟の階級章は、彼女が一等兵であることを表していた。
彼女も部屋に入るなり、素早く直立不動の敬礼姿勢をとった。
「もしや彼女が?」
アリシアが訊ねる。
「うむ。偵察部隊所属のフェリス人でな。優れた五感が役に立つだろうということで、決まった。身辺調査も済んでおる」
「なるほど。貴重な人材です。きみ、名前は?」
「は、はい! アリーゼ・シャルディー一等兵です」
「よろしくアリーゼ。私はアリシア・ランバート、こっちはカイル・ガルブレイズだ」
「お、お目にかかれて光栄です」
そう言うシャルディーの声は、ひどく上擦っていた。身体も直立不動を通り越して、ほとんど硬直してしまっている。
無理もない。大尉、少佐、そして大将。目の前の上官があまりに豪華すぎるのだ。例えるなら小学一年生が担任、学年主任、校長に囲まれるようなものである。
「ふっ、そう堅くなるな」
アリシアは緊張する彼女の両肩に手をやり、わしわしと揉んでやる。
シャルディーは困惑とくすぐったさの入り混じった顔で、
「はっ。き、恐縮です……っ」
それに合わせて、ブロンドの髪から真上に突き出たふさふさの耳が、ぴくぴくと動いた。
猫を思わせるフェリス人の耳は、時に目より口よりよく語るのだ。
「――では、彼女はこのまま預けていく。作戦は一〇日後、時間通りにな。私も立ち会う予定だ」
「はっ」
いくつかの詳細を詰め、すこし訛りのあるドイツ語を話していた大将閣下は部屋をあとにした。
残された三人はあらためて、部屋の奥に目をやる。
姿見は堂々と、まるで自分がこの部屋の主であるかのように鎮座していた。
「……怖くないのか?」
しばし続いた沈黙のあと、アリシアが静かに訊いた。
シャルディーは気合を入れるようにふん、と鼻から息を抜き、
「もちろん怖いです少佐。でもせっかく任せていただいた任務ですから。覚悟は出来ています」
「そうか」
「それにあれを一度くぐるだけで、けっこうな手当てがいただけるんです。そろそろ新しいバッグが欲しかったんで頑張ります……なんて。ははは……」
精一杯の冗談を言って微笑む彼女に、アリシアもどこか悲しげな笑みを返した。
「では私も君になにか、ご褒美を考えておこう」
「あ、いえそんな、とんでもありません……!」
「俺も考えておこう」
「た、大尉までっ」
「いいじゃないか。楽しみは多い方が頑張れるぞ」
しんみりとした空気を吹き飛ばすように、カイルは快活に言った。それから少しトーンを落とし、
「――で、その頑張るにあたってだが。君はその耳をどうにかしないとな」
「へ?」
彼女の耳が、またぴくりと動いた。