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悪性崩落ルブナイキ  作者: 藤原(の)コウト
2/23

少女逃亡エスケープ 1

「待て! 待ちやがれこのガキ!!」

「はっ……!」

 湿っぽい路地裏を、少女は走っていた。力一杯振り回した腕と脚に、黒のボブカットとパーカーのフードが揺れる。

 もうかれこれ一時間、少女はそうやって追われ続けてきた。この『(まち)』を襲った、襲撃者に。

 レンガ仕立ての道では、注意しないと足が取られそうになる。中世風の街並み。

 この『街』では、こういうちょっとした路地裏でさえ手を抜かずに作り込んである。二年近くに渡って続けてきた景観改造は、この『街』の住人みんなの誇りだった。

 でもそれは今、百人もの襲撃者によって悪夢に塗り替えられてしまった。

「クソが! 待て!! 止まれ!!」「大人しくしやがれ!!」「逃げんじゃねえ!!」

「(また増えたし……ッ!!)」

 続々と増える追っ手に、少女はぎりり、と奥歯を噛む。その心地いいとは言いがたい感触に、一時間ほど続く逃避行の終わりはまだ見えなかった。

 路地裏に響くのは、後ろの連中の怒号だけ。さっきまではあっちこっちで悲鳴と戦闘音が鳴り響いていたのに、今ではそれも聞こえない。

 ということは、みんな無事ではなくなったのだろう。

『逃げろ』

 少女に思いを託した彼らは、一様に満足そうな顔をしていた。自分たちだって怖いくせに無理矢理笑って、少女を怖がらせまいとして。

 頭を()でた手、震えているのはバレバレだった。

「(…………)」

 奥歯に加えた力を緩める。代わりにその力を逃げる足に回す。

 葛藤している暇はない。そんなことをしている暇があれば、逃げることに全霊を尽くす。

 不幸中の幸いと言えば、当面の間彼らが殺される心配はないということだ。人質に使うつもりなのか何なのか知らないが、一箇所に集めて管理しようとしていた。

 あいつらの狙いは知らない。急に『(まち)』を襲撃してきたあいつらなんかの。

 ただはっきりしているのは、自分だけがどうやら特別視されているということ。

 腫れ物っぽく扱われているというか、現に今も、例のアレ(異能力)でも使えば少女くらい簡単に仕留められるだろうに、やらない。あるいは、やりたくてもできない。

 それが襲撃者の手心というわけではない。そんなもの、少女と同じくらい――ともすればそれ以上追い詰められた顔をしている彼らに、あるわけない。

 彼らだってやりたくてやっているのではなく、逆らえない誰かにやらされているだけ。それが何となく分かったとは言え、同情なんてしてやらない。『街』のみんなを傷つけたことに変わりはないからだ。

 けれど、だからこそ少女の胸は痛む。

 少女にとってそれは、天地がひっくり返ってもありえないことだったから。

「(……やめよう。今は、逃げることに集中するんだ)」

 路地裏の隙間から、空に向かって立ち上るいくつもの黒煙が見えた。『街』を焼く炎。同時にそれは、少女の心を焦がすものだ。

 ――早くしないと、『街』が……!

「うおぁ!?」「なあっ!? ち、ちくしょう、テメエ!!」

 曲がり角で、適当に立てかけておいた木材に追っ手が引っ掛かったらしい。振り向かずに内心「よし」とほくそ笑む。

 でもすぐに、一時の感情は消え失せた。路地裏に放置されていた余りの木材、それが元は何に使われる予定だったか、思い出したからだ。

 路地裏を抜けて、大通りに出る。途端に視界が広がる。

短く切り揃えられた芝生(しばふ)。まるで宮廷庭園のような美しい光景。

レンガ仕立ての街路、建物。その間から遠くに見える壁。『街』の中心部にそびえ立つのは、白亜の城だ。

現実離れした美しさを誇る『街』の景色と、それを台無しにするように乱立するイベント用の白いテント。その下の屋台。まだ残るソースの匂い。

 そして、火。

 衝撃を受けて爆発したガスボンベの火が、草木や屋台に燃え移って異臭を漂わせている。倒れたテントとめちゃくちゃになった屋台の周りに散乱しているのは、茶色の光沢をまとう焼きそばだ。もしくはたこ焼き、お好み焼き。西洋風に整えられた『街』には似つかわしくない、あまりに世俗で、だけど幸せとか嬉しさとか楽しさだとかが詰まったものだった。

 今日はお祭りだった。

 二年間の苦しみを耐え忍んで、やっと手に入れた安息の時間だった。

 みんな一丸になって頑張って、『街』と、城と、壁を完成させた。それを記念するお祭りだった。

 それなのに。

 襲撃者は、お構いなしに踏みにじった。

「……っ」

思い浮かぶのは、みんなと交わした約束――『絶対に逃げろ』。

みんな一様にそう言った。不恰好な笑顔と共に、目だけは(いさぎよ)く覚悟を決めて。

だけど、たった十六年と少ししか生きていない少女が背負うには、その願いは重すぎた。足が震えた。逃げ出したくなった。

 でも。

「(それでみんなを裏切っちゃう方が、ずっと怖い!!)」

燃える屋台を過ぎた。変な臭いの煙を突っ切った。やけに綺麗なまま残っている大きな城を横目に、少女は再び路地裏の暗闇に身を投じる。

『城を建てよう』だなんて最初に提案した人は馬鹿だ。それに笑って賛同した人も馬鹿だ。つまり少女も馬鹿だ。

だけどその馬鹿で、何よりも気高い行為を、こうも他人が一方的に(おとし)めていいものではない。

なんてことをするんだ――なんて、人並みの怒りも湧く。努力の成果を無下にされたやるせなさも。顔も知らない誰かに追い回される恐怖も。

それを背負ってこの『街』を守ろうとした彼らに、少女は思いを託された。一人明らかに狙われる少女を囮に逃げようともせず、愚直に守ろうとした――そして多分、倒れた。

「(……おじさん)」

 例えば、年齢が高いと言うだけで〝ベテラン〟なんてあだ名をつけられていた、『治安維持隊(ちあんいじたい)』のおじさん。黒詰(くろつ)(えり)の制服の、肩に刺繍(ししゅう)された『豚汁』のマークが擦り切れるくらい、仕事に一生懸命だったあの人。

 見たこともないような顔であいつらに立ち向かい、少女には笑顔をくれた。背中を押された。『逃げろ』『そんで助けでも呼んでくれ』

 そんな人でいっぱいだった。

 馬鹿みたいに優しい人ばかりだった。

 この二年、苦しかったのはみんな同じのはずだ。少女だけが優遇されて、彼らだけが身体を張る理由なんてどこにもない。『仕事だから』なんて、あの人はお祭りのために死に物狂いで休みをもぎ取ったのだ、と自慢してきたのに。今日だけはただのおじさんだったのに。

 おじさんと同じ、『治安維持隊』だけじゃない。『女の子だから』、『若いから』、『だから逃げろ』。少女が追い詰められる度、泣きそうになる度、彼らは狙ったように現れてピンチを救ってくれた。ヒーローみたいに。そっちこそ泣きそうなのに。

 だから少女は走り続ける。助けられたから、助け返すために。『街』の脱出ルートを探す。

 『街』の出入り口は二つ。だけどどちらも占領されているだろう。逃げるなら別ルートだ。

 壁。

 『街』をぐるっと覆う高さ四メートル弱の壁には、点検用に階段がついている。『街』の運営者たる『豚汁』ではない少女には、その階段の正確な位置は分からない。自分の足で探す必要がある。

 だが、壁の周囲はがらんどうだ。大抵の建物より背の高い壁では、太陽の光を遮ってしまう恐れがある。それを避けるために、壁から居住地まで最低五メートルは何もない空間となっている。

 五メートル。短いようで、長い距離。

 開けた道なので、さきほどのように何かで足を取ろうとしてもかわされる。入り組んだ路地裏みたいに、相手の目を撹乱(かくらん)することもできない。追っ手の足に追いつかれる可能性も高い。ただでさえ少女の足は速くないのだ。

それに階段の正確な位置も分からない。探す手間が省けない以上、捕まるリスクも格段に多くなる。

 走る。考える。走る。考える。その間にも壁はどんどんと近づいている。光の差し込む量が多くなっている。路地裏が途切れるのも近い。

 最後の曲がり角。真っ直ぐに見える壁。階段はなし。

「〜〜〜〜っ、えいっ!」

 結局、打開案は出てこなかった。

 酷使(こくし)した足の痛みを気合いで誤魔化(ごまか)して、高速で首を振る。階段はどこだ。

視界の端に、見つけた。

「あった!!」

「何がだ?」

 背後――違う、頭上だ。

「っ!?」

 建物の屋上に追っ手。どうやら、少女の考えは読まれていたらしい。

 わざわざこっちに声を掛けてきたということは、余程自信があるのか。

 今すぐ逃げれば、まだ間に合うかも――地の利ならこちらにある。『街』特有の、入り組んだ路地裏で()けるかもしれない。それに、相手は一度下に降りて来なければならない。その隙に少しでも距離を離せれば。

 と、思っていた。

「ああ!? どこ行くつもりだよ!!」

「嘘っ!?」

 追っ手は躊躇(ちゅうちょ)なく、屋上から飛び降りた――いや、飛び降りる直前に壁を蹴って、その勢いで少女の真ん前にまで回り込んだ。落下ダメージはどうやらないらしい。原因は明白だ。

 足を覆う、血のように赤いオーラ。

 科学では説明がつかない――〝異能〟の証。

「俺の『兎角疾走(ラビットフット)』に勝てるかよ!?」

 眼前に迫った兎男に、たちまち少女の体は硬直した。それは痛みであったり、半ば麻痺(まひ)していた恐怖だった。

 怖くないわけがない。たった十六年程度しか生きていない少女が、暴言を吐かれることや延々と追い回されることが、怖くないわけがないのだ。

 今までは、それを使命感が押し留めていた。

 だが今。改めて脅威を目の当たりにして、爆発した。

「ひっ、きゃぁぁああああああああああああ!?」

「おっ?」

 兎男が悲鳴に怯んだ隙に――と言っても、少女にはそんな打算を働かせる余裕はなかったのだが――逆方向に走りだす。

 すなわち、壁。五メートルの空白。階段を目指して斜めに走るなら、それ以上の距離。

「だからっ、勝てねえよ!!」

 つい少女の背中を見送りかけた兎男が、異能によって強化された脚力を存分に発揮する。ひ弱なガキにちょっとビビらされた屈辱も加わり、一気に少女を押し倒した。

「痛っ!!」

「あっ」

 兎男の()頓狂(とんきょう)な声。彼の脳裏によぎる、『決して傷つけずに捕らえろ』。あの人の、恐ろしく冷たい命令口調。

 やべえやっちまったか……? 蒼白な顔で、少女の状態を確認しようとした……その顔面を思いっ切り、少女は引っかいた。

「イデェッ!? クソ、この野郎!!」

「どいてっ!!」

 どん、と突き飛ばす。

 顔を押さえてうずくまる兎男を尻目に、少女は走る。さっきので擦れた頬が痛い。肘や、膝もじくじくと痛みを訴えている。それでなくとも走りっぱなしで足全体が熱い。

 だけどもう少し。

 後ろでまた別の追っ手の声が聞こえたけれど、階段はもうすぐそこ。追っ手に追いつかれるより、少女が登る方が早い。それに相手は、少女を傷付けることを恐れて遠距離攻撃もしてこない。

 もちろん、そんな保証はない。このまま逃がすより、怪我を負わせてでも捕まえることを優先されてしまえばそこで終わりだ。

 急ぐ。二段も三段も飛ばして階段を駆け上がる。暑いからパーカーは脱いで脇に抱えている。カンカンと足音がする。自分一人だけ。追っ手はまだ追いついていない。

「はぁっ……!!」

 一息で四メートルの壁を登りきる。呼吸を再開。風が吹き抜ける。

 普段より四メートル高い世界。かすかな開放感。髪がはためいて、白いうなじが露わとなる。

「はぁ……はぁ……」

 息を継いで、見た。

 眼下に広がる。


 一面の、瓦礫(がれき)の荒野。


「(……遠いなぁ……)」

 二年前、世界は滅んだ。

 たくさん死んで、残ったのは大量の瓦礫だけだった。

 そんな崩壊世界を何とかしようと、完全ボランティア組織『豚汁』が立ち上がった。彼らは『治安維持隊』や『医療班(いりょうはん)』など、役割によっていくつかのグループに分かれ、『世界復興』を掲げて日々活動している。

 その活動の一環で建てられた、大規模居住空間『街』。瓦礫まみれの崩壊世界にぽつりと浮かぶ、懐かしい原型を保った人工物。

 日本各地に建てられたそれは、だけど誰もいなくなった国土に対しては余りにもちっぽけだった。

 最寄りで、一番交流がある――なんて言っても、こんなに遠い。

 伸ばした手のひらに収まりそうなくらい小さくて、遠かった。

 五メートルなんて騒ぎじゃない。あそこに辿り着くまでに何度追いつかれるか分からない。

 でも、諦めきれない。

苛木(いらき)ちゃん……」

 少女は乾いた唇を震わせて、とある名前を呼んだ。

 それは友達の名前、いや、親友の名前。

 二年前、『崩落(ほうらく)』によって世界は滅んだ。少女と苛木の両親も死んで、二人だけで生きていくしかなかった。壁で囲われず、屋根で覆われず、家族のいない世界の寒さを知った。

 死んだ世界は厳しくて、辛かった。寂しかったけど、耐えられた。苛木がいたから。

 彼女は心底優秀だった。的確で、冷静で、頼りがいがあった。それ以上に、優しかった。

 家族がいなくなったことをいつまでも嘆く少女を、自分だって立場は同じのくせに、嫌な顔一つせず慰めてくれた。時には一緒に泣いた。そんな時は決まって、泣いてばかりじゃいられない、家族の分まで私たちは生きなきゃならないんだ、なんて言った。そう思わないと生きていられないくらい、街灯のない夜は暗くて寒かった。

 身を寄せ合って生きてきた。滅んだ世界でも、二人でなら何とか前を向いていられた。二人でなら希望を持っていられた。いつか聞いた、被災者を保護してくれるボランティア組織の変な名前。

 なのに。

 なのに。

 ある日目を覚ませば、苛木はどこにもいなかった――

「(……あなたがいなくなったのは、きっとあなたに全部任せっきりにしてたあたしのせい)」

 脇に抱えたパーカー。寒い夜に苛木がくれた、大切なもの。

「(だから、あなたのことは恨んでなんかいない。あんな状況で人を助けられる優しいあなたに、恨みなんかないよ)」

 ――だからせめて、その優しさと勇気を少しでも。

 ――あたしは絶対に、みんなを助けることを諦めないから!

 ざり、と一歩踏み出す。半歩飛び出た足の下、四メートル分の高さがある。想像していたより、ずっと高い。当然、壁の外側には階段なんて付いていない。

「っ……」

 いざとなれば飛び降りる覚悟はあるが、それで足を(くじ)きでもすれば逃げるどころじゃなくなる。周囲に梯子(はしご)を探すが、見当たらない。もっとも、あったとして設置する暇をあいつらは与えてくれなさそうだが。

 だから、意を決した。

 世界はまだ瓦礫まみれだが、『街』の周囲は綺麗に片付いている。どかした瓦礫が別の場所に積まれているのを、城から眺めたことがある。整備された地面は平らだから、足を挫く確率も低いはず。

 前に、高い所から飛び降りる術をおじさんから教えてもらった。というか、酔っ払ったおじさんから一方的に聞かされたのだが。

 五点接地、とかいうらしい。詳しいメカニズムは覚えてないが、確か着地の瞬間に体を丸めるのだ。ちゃんとやれば十メートルくらいから落ちても平気だという。

「(その半分以下……たぶん、大丈夫)」

 どくんどくんと心臓が早鐘(はやがね)を打つ。

 五点なんたらなんて、もちろんやったことはない。たとえ四メートルでも、打ち所が悪ければ死ぬ可能性だってある。失敗すれば痛いじゃ済まない。

「っ、はっ」

 動悸(どうき)が収まらない。

 怖い。一歩踏み出すだけがこんなにも。

 まだ飛んでないのに妙な浮遊感。目眩(めまい)がする。血の気が引く感覚。悪寒。

「!!」そんな少女の耳に届く、カンカンという階段を登る音、複数。

 思わず振り返る。揺れ動く黒い頭。辺りを見渡す。逃げ場なし。

 一つだけある――前。

「う……」

 ぐにゃりと視界が曲がる。流すまいとした涙が滲む。怖い。

「う、ああっ!!」

 でも、飛ぶ――のはできなかったから、壁の(ふち)に腰掛けて、落下高度を少しでも低くしてから、落ちる。

 間に合わなかった。

「させるか!!」

 落ちる直前の少女の襟首(えりくび)を掴んだのは、四メートルの壁をひとっ飛びで超えた兎男。

 後ろに引っ張られた襟が首に締まり、ぎゅ、みたいな情けない声が漏れる。パーカーを取り落す。

「野郎、さっきはよくも……痛えんだよ!!」

「やめろ馬鹿、無傷で捕らえろという命令を忘れたか!!」

 頬に引っかき傷を残す兎男は怒り心頭のようで、命令にも構わず少女を殴り飛ばそうとしている。別の仲間に取り押さえられてもなお、せき込む少女の耳に荒々しい恨み節が届いていた。

「……お前もだ。大人しくしてもらうぞ」

 落としたパーカーを拾おうとした少女もまた、後ろ手に拘束。暴れるけど、全く振りほどけない。

 四人の追っ手が、少女がまた逃げ出さないように監視している。その一人、兎男の暴走を止めた強面(こわもて)の男が何かに怯えるように無線機に話しかけ始めた。

「ええ、はい。捕まえました……も、もちろん無傷です! 怪我なんてさせていません!」

 ちらちらと少女の様子を伺いながらの発言だ。そんなに怪我をさせるのが怖いのなら、今ここで舌でも噛みちぎってやろうかなんて危険思想が去来するものの、実行する勇気はなかった。それでは本末転倒だと理性が言う。

「……は、はい。ではこれから、城へと運びます。い、急いで!」

 相手の顔なんて見えないのにペコペコしている。街中ですれ違いでもすれば思わず道を譲ってしまいそうな強面が、まるで上司に叱責された万年係長みたいだ。

 そのことがどうしても、少女には気がかりだった。

「……急ぐぞ。もう待っていられないらしい」

 そう言う顔も苦々しい。

強面男の台詞(せりふ)で周りの追っ手たちはすぐに動いた。必死な表情で少女を拘束し、そのまま階段を降りる。目的を達成したというに、晴れやかな顔をしている者はどこにもいない。

少女もなすがままではない。追っ手のどこかに隙はないものか、探したし実際抵抗してみたものの、しかし無駄だった。数人がかりで押さえつけられれば何もできることはなかった。お祭りのための飾り付け用ロープで、少女の手は後ろに回された。

今日を精一杯楽しもうと用意した飾りがこうして自分に(あだ)なすという構図、それがどうにも悔しくてならない。かと言ってできることは何もない。壁と居住区までの五メートルは、最初の時よりやけにゆっくり過ぎた。

路地裏、焼けた広場、城へと続く大通り。どこかで抵抗はした。そのほとんどは考えなしの力任せだったから力でどうにかさせられた。力量に差がありすぎて少しの怪我も負わせてくれなかった。次第に力が抜けていった。

足取りはふらふら。

息遣いはぜえぜえ。

汗はだらだら伝う。

どんづまり。

「……………………………………………………………………………………………………………」

 壁の上から見た、世界の惨状を思う。

 あの世界は優しくない。だけど同時に広くて、自由だった。

 『街』にそびえる、白亜の城を思う。

 美しいはずのそれが、今はなぜか恐ろしくてしょうがなかった。

 城の付近の路地や公園にはたくさんの怪我人がいた。見たことない顔ぶればかりだったから、あれは多分『治安維持隊』と戦った襲撃者だ。おじさんたちの奮闘の証だ。

 あいつらは治療の最中に拘束された少女の顔を一瞥(いちべつ)し、すぐに逸らした。または露骨に睨みつけてきた。何でこんな扱いを受けなければいけないのか、少女の顔も(うつむ)く。

 不意に、疼痛(とうつう)

 ――逃げられなくてごめんなさい。

 ――約束を破ってしまって、ごめんなさい。

 悔しい。

 どうしようもなく悔しい。

 せめて自分の代わりに、誰かが無事にあの『街』まで辿り着けたことを願うだけ。それしかできない。

 この手には何の力もない。

 あたしにもあの兎男みたいな力があれば、何とかなったのかも知れないのに――ただし現実、無力な少女は覚束(おぼつか)なく歩くだけ。

 擦れた頬が痛い。足先と指が冷たい。火照った体はすでに冷やされていて、置いてきてしまったパーカーが惜しい。秋の暮れ、薄着でいるのはただの無謀だ。

「っ」

 風が抜けた。最後の路地を出て、ついに城は目前となった。周囲には彼女たち以外誰もいない。まるで城に近付くのを怖がっているように。

 この城に王様はいない。強いて言うなら、この『街』の皆が城の主だ。

 誰でも入れて、誰でも泊まれて、綺麗で格好良い。誰かが作ろうと言い出して、誰もがそれに乗っかって、『豚汁』まで巻き込んで建てた城。皆の誇り。

 それが今は、(よど)んで見えた。

 傷や破損は見受けられないが、かえってそれが何者かの作為を透かすようで不気味だった。

「(玉座は――)」

 つ、と足を止めて頭を上げる。随伴(ずいはん)する男たちが迷惑そうな顔をするが、構わない。

 城の最上階、玉座。『街』を見下ろす絶好のスポット。

 その窓際に誰か立っているように見えて――

 そのさらに上で、何かが光ったように見えた。

「?」

「おいっ、いい加減にしろ!」

 肩を乱暴に押されて、つんのめる。突然のことでブレーキも効かず、縛られているので受け身も取れず転んだ。起き上がろうにも上手くいかない。慌てたように男たちが少女を引き起こす。

 なんか、それが気に食わなかった。

 第一、知らないヤツらから追いかけられる、捕まえられる、疎まれる、急に押される。転ぶ。しかも自分じゃどうしようもできず、その男たちの補助があって初めて起きる。それが悔しい。情けない。許せない。

「う、ううぅぅぅぅ…………!」

 気付けば泣いていた。男たちがぎょっとしたように息を飲む。

 口を閉じても嗚咽(おえつ)が漏れる。目を(またた)いても涙が流れる。歯を食いしばっても、眉をひそめても、どうやっても涙は止まらない。醜態(しゅうたい)を晒していることがさらに泣ける。

 感情がコントロールできない。恥ずかしい。

 滑稽(こっけい)な呼吸。肩の震え。もう立てない。座り込む。また男たちに立たされる。

 泣きたくて泣いているわけじゃないのに、どうしてか泣けてくる。そう弁明したくて、する意味あるのかと思い直して、涙を止めるのに全力を尽くした。駄目だった。

 歩く気はなくて、それを男たちに悟られて、半ば引きずられるように進む。涙の染みが点々と落ちては消えていく。軌跡(きせき)にすらならない。

 白い息のように(はかな)いそれが、寒々しくて、虚しくて、嘘くさくて、無意味で、心が(きし)んだ。

 不規則な呼吸がいつの間にか、意味を持った言葉になった。

 それは心が折れてしまった少女が、最後にできる抵抗だった。

「たすけて……」

 恥も外聞もない言葉だった。

「たすけて……っ」

 誰にも届かない言葉だった。

「誰か……」

 嗚咽の混じった、不明瞭な言葉だった。

 それでも言わなきゃいけない気がした。

「誰か、助けてよ……!!」

 悲痛な声は虚空(こくう)に消えた。

 ――はずだった。

「あ……?」

 男たちの足が止まる。

 少女を抱える手から動揺が伝わる。

「なん、え……?」

「ど、どこから……?」

 幽霊でも見たかのような反応。互いに顔を見合わせ、それが何かを確認しあっているような、だけど言語化すらままならないうめき声。

 明らかに、男たちの意図しない存在がそこにはあった。

「誰だ、お前……」

 あの強面男が、震える声で尋ねる。ドスを利かせようとしているのかも知れないが、それについては失敗していた。

 とにかくこう怒鳴った。

「誰なんだよ、お前はっ!?」

 しん、と静寂。

 さすがに、少女もそれが何なのか気になり始めた。霞む視界を(ぬぐ)うこともできないが、顔だけは前を向けた。

 ローファーが見えた。黒いズボンが見えた。不遜(ふそん)に組まれた腕が見えた。(そで)を通さず、マントみたいに肩に掛けられている学ランが見えた。その下の白い学生服が見えた。そのどれもがやけに汚れたり、破れたりしていた。

 その特徴は生身の体にも及び、顔面にも細かいアザや切り傷が目立つ。しかしそれを物ともしないような、生気と活力に溢れた死んだ目。年齢は少女と同じか、一つ二つ上。

 冬の風に黒髪を揺らして、その少年は堂々と仁王(におう)立ちしていた。

 誰もが呆気に取られる中、一人超然とする彼は周囲の注目を心地好さそうに浴びている。ステージに立つ舞台俳優のように。

 少年は周囲確認をするように目線だけ動かして、やがて他に誰もいないのを知ると男たちに向き直った。

 そして言う。

「僕? 『ルブナイキ』の鎌倉(かまくら)千土(せんど)だけど、それが何か?」

 彼はそうやってにっこりと、やるだけで二、三日は筋肉痛になりそうな嘲笑顔(えがお)を浮かべた。

 違う。

そんな得体の知れない表情を、彼は最初っから浮かべていた。


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