少女決戦インザファイアー 1
この暗い部屋では、『街』の様子を写した青い光だけが光源だ。
その光を凝視しながら、柳衣憧理は乱暴に自らの親指の爪を噛んでいた。
「(……まずい)」
極彩色のフードに、長すぎるくせにロクなメンテナンスもしていない髪。いっそサイケデリックとも取れる不気味な風貌を、彼女は苦しげに歪めていた。
「(まずい、まずい! この局面で出ヶ島が出てくるなんて想定してない! まだあの三人組も撃退してないってのに、いくら何でも早すぎるでしょう!?)」
柳衣からしても、『街』の襲撃なんて大事件を隠し通すつもりはない。どれだけ隠蔽工作を施そうとも、『豚汁』は絶対に探り当てる。それほどの力があいつらにはある。
しかし、『「豚汁」が気付いた時にはもう遅い』という状況を作り出すまでの自信はあった。『街』の住人を交渉カードに使い、有利に事を進める算段は整っていた。
なのに、だ。いくら何でも早すぎる。彼は一体、どこから襲撃を嗅ぎつけたというのだ。
「(出ヶ島仁……! ワタシの能力で、どうにか……っ!?)」
柳衣がその身に宿した異能は、『認識を変える』力。
ただしその影響力は、一+一の答えを三にも四にもするほど強力なものではなく、あくまで認識をわずかに『ズラす』だけ。一+一は二だが、一+二は三。柳衣は、そうやって余計なものを差し込んで人の心を操る。
それも、ただ心で念じればいいというわけではなく、対象と直接言葉を交わす必要がある。言葉を交わして、説き伏せる力。それだけ見れば話術とさほど変わらないように思えるが、ここに一つ崩壊世界らしい理不尽が加わる。
柳衣に認識をズラされた彼らは、ズラされた認識に一切の疑いを持たなくなる。正確に言えば疑いは持つのだが、『柳衣の言うことだから間違いないのだろう』と盲目的に信じてしまうのだ。
苛木は一見柳衣に反抗的だが、それも彼女が柳衣を正しいと認めている(という誤認識)からこその態度だ。言っていることは正しいが、何となく気に入らない――これでも『信用』は成り立つ。
だが。
「(……ダメ。それじゃあダメ! ワタシじゃ出ヶ島に近づけないし、今のあいつが話を聞いてくれるだなんて思えない!)」
そもそもの条件、対話。それさえ叶わないのであれば、柳衣の能力に意味はない。
計画を完遂するのであれば、出ヶ島は絶対に排除しなければならない。だけど柳衣の手札では、彼を倒せる駒がない。
「(……失敗?)」
その言葉を実感した途端、柳衣は全身が震えるのが分かった。
「(失敗、した? ワタシが?)」
くらぁ……っと、気が遠くなるような衝撃。椅子から落ちかけた体を支えたのは、一人の女の顔だった。
現『崩壊組』ボスの、白髪の女。彼女の名前を知るものはおらず、目元を舞踏会なんかで使うようなマスクで隠し、肢体を分厚いコートで覆う、正体不明の実力者。
「ああ……」
柳衣は彼女の見えない顔を、白い髪を、声を思い出し、熱い吐息を吐き出す。
先ほどとは全く種類の違う震えが彼女を襲う。恍惚に身をよじらせる。
「ああ、白の君……ワタシが全霊を尽くすに足る、最高の支配者様……」
そう嘆息する柳衣憧理には、一つ『悪癖』とでも呼ぶべきものがあった。
彼女はとにかく、『人に必要とされたい』し、『人を必要としたい』のだ。その二つの欲求は閾値を超え、すでに呼吸や睡眠なんかと同じように、『そうしないと生きていけない』くらいに肥大化してしまっている。
そのくせ一つのことにまるで執着しない性格が合わさり、誰かを慕っては忘れ、誰かに愛されては飽きる。簡単に人の心を蔑ろにして、鼻歌混じりで人間関係を壊す。そうして人を消耗品や嗜好品扱いし続け、周囲を敵だらけにして、生きづらくなったところで『崩落』が起きて彼女は異能を手にした。
壊れた世界は、柳衣が息をするには申し分なかった。誰かを好きに従わせ、飽きればすぐに捨てられる。その気になれば記憶だって自由に操れるから、敵も作らなくて済む。
心地よかった。
誰かを依存させては支配欲が満たされ、誰かに依存しては被支配欲も満たされた。
人の気を引くための自傷もしなくて済む崩壊世界は、彼女にとっての理想郷だった。失われた衣食住の確保も、〝優秀な操り人形(苛木)〟のおかげで苦労することはなかった。
そこで柳衣は彼女に出会った。
何人目かも知れない、『ご主人様』に。
『あん? いきなり押し掛けて踏んで下さいってどういう性癖? いや踏んでもいいなら踏むけどさ。うりゃー』
城ノ晴世奈。
『豚汁』創設者『最初の六人』の一人であり、『治安維持隊』副隊長である彼女に柳衣は魅入った。
そう、彼女は、肩書き上は『豚汁』の一員なのだ。崩壊世界でたまたま見かけた城ノ晴に傾倒し、そのまま『豚汁』に所属した。彼女の性質上飽きるまでは一途なので、城ノ晴のためになるようにと『いつものように』苛木を欺き、『崩壊組』のスパイなんかをやらせて柳衣なりに『豚汁』へと貢献していた。
新しい『街』の運営チームに選ばれた実績からも、彼女がどれほど効果的に苛木を運用していたかが分かるだろう。そして彼女は、その『街』で城ノ晴を迎えるに相応しいように、と周囲の認識を操ってまで城の建造に着手した。その結果出来上がったのが、この城の『街』だ。
だがこれも彼女の性質、というか生き様上、二年近くも仕えていれば『飽き』てくる。
それは、苛木からのリークも段々精度が弱くなってきて、ついには『崩壊組』に手酷い逆襲を受けたばかりの頃のことだった。その情報を持って来た張本人である柳衣が責任を表立って追及されることこそなかったものの、元から彼女の破滅的な性格や、スパイ行為を〝させている〟ことでいい顔をされていなかったこともあり、決して少なくない打撃を受けた『豚汁』メンバーからの視線は気持ちのいいものではなかった。
多方面からの重圧で息苦しくなってきた柳衣は、しかしどうすることもできず、逃げるように『崩壊組』へ潜入している苛木と『密会』をしに、一人で『豚汁』の庇護下の外へと出た。
そんな時だった。
『ああ、ようやく見つけました。あなたですね、〝人形遣い〟は』
一発だった。
彼女は、白い髪がどこまでも美しい彼女は、一発で柳衣の本性を見抜いてきた。
思わず逃げようとした柳衣をわけの分からない力で押し倒し、首元にほっそりとした指を添え、耳元で彼女は呟いた。
『私の犬になりなさい。あなたが信じている全てを私に差し出して、全てを裏切りなさい。そうすれば命だけは助けてあげます』
きっと、何から何まで彼女の掌の上だった。
スパイがいると掴んでいながらあえて泳がせ、そのスパイがどうやら誰かに操られているらしいと看破し、偽物の情報を渡して撹乱し、痺れを切らした誰かが自分から近寄って来る瞬間を待っていたのだ。
迷う暇なんてなかった。
柳衣は、その日から『豚汁』の二重スパイになった。
当然のように、城ノ晴のことなんか忘れていた。
「ああ! ワタシはアナタ様の犬っころ! だったら、こんなところで失敗なんてしていられない。ワタシは、ワタシの全ては、アナタ様のために!!」
狭い椅子の上で、柳衣は歓声を上げる。そして考える。
どうすれば彼女に利益が出るのか。彼女のためになる、一番の方法は何か。
「そう、まずは苛木を呼び戻すとこから始めましょう? 大丈夫、アナタ様の加護がある限り、ワタシに敗北なんてありえないんだから……」
やがてふらふらと柳衣は席を立ち、モニターも点けっ放しのまま『監視室』を出て行った。
けらけらと、薄ら笑いを続けながら。