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「————そういえば魔王様、勇者が悪魔の谷まで進行しているようです。」
朝のフレッシュな食事の一時。ギルバートは空になった魔王のティーカップにコーヒーを注いだ。
「へー、今回は早いね?」
「歴代では一番かもしれないな。」
歴代というのはもちろんそのままの意味である。人間と悪魔とでは寿命が違う。ここにいる全員、何回も勇者の移り変わりを経験しているのだ。こうして優雅に過ごしているのはもちろん、未だ勇者が世界を救った事がない証である。
「今回は期待出来るかもねぇ。僕も張り切っちゃうよぉ。」
「前のはこてんぱんでしたもんねぇ。流石に気の毒でしたわ。」
「敵の魔法でずっと眠らされてたのは何処のどいつだったろうな。」
「ヒナリちゃん厳しー。」
アランの顔面に朝食に用意されたパイが勢い良く押し付けられる。周りの視線が冷たいのはいつもの事である。
「すいません魔王様、食べ物を粗末にしてしまいました。」
「ヒナリちゃんは元気いっぱいだねぇ。」
「代わりのパイをご用意します。」
「朝からセットしたのに……。」
顔から崩れ落ちたパイと、顔にまとわりついた生クリームを手に取って舐める。朝早くからセットした髪型だが、それにもべっとり付いてしまっているため、洗うことは必須だろう。容姿にはこだわりを持っているアランの事だから、あからさまに落ち込んだ様子を見せた。
「アランさんが悪い。」
その様子を見た青年、ヒイロはいつもと同じ台詞を口にした。このやり取りは毎日嫌になるほど見ている。彼のこの台詞ももう既にお決まりである。
「毎日喧嘩しつつも、隣に座る辺り仲良しなんじゃ……。」
目の前のやり取りを先程から面白そうに表情を緩ませて見ていたローは、つい思った事を口に出してしまった。もちろん鋭い眼光が物凄い勢いで自分を見てきたため、顔を青くして押し黙ってしまった。
「からかっちゃダメだよロー君。ヒナリちゃんは……。」
「ルルカ。」
「うぅ、ごめんなさい。」
続けて口を開いたのはルルカである。彼女もまた余計な事を言おうとしたらしく、酷く冷たい声で静止される事となり、ぴんと立っていた耳は力無く垂れ下がってしまった。
「それにしても悪魔の谷か。あそこは確か、屍喰鬼共の巣窟だったな。」
「しかも獲物に飢えてるからタチが悪い! 俺っち達も油断すると食われるってもんだ!」
少女は肩に掛かるサイドで結ばれた髪を払うと同時に話を元に戻した。そして、それに同調するように人差し指を立て丸眼鏡を光らせたローは力強く言った。
「確か、ロー君は一回食べられそうになったんだよね。」
「あの時の恐怖は忘れません!」
猫又の少女が尻尾を揺らしながら昔聞いたらしい話を口にすると、当時の恐怖を思い出しローは涙を流して答えた。
「屍喰鬼ってそんなにおっかないんですか?」
「あ! 俺もどんなのか知りたい!」
この魔王城では新参者であるヒイロは、普通の人間より長生きであっても、まだ世界の事は完全に理解していなかった。そして、それはヒイロよりは先輩であるが、他から言えばまだまだ新参者であるアランも同じらしく、いつの間にか綺麗になった頭をテーブルに突き出した。
「んとねー、屍喰鬼って言うのは本来死体を食べる悪魔なんだけど、何百年か前にお墓を荒らしまくって魔王様に怒られちゃったの。それで悪魔の谷に追いやられたんだけど、もちろんお墓なんて無いから死体が無いわけね。食べるものが無くなった屍喰鬼達は、生きてるものも食べるようになったの。それは私達悪魔も例外じゃなくて、もちろん人間もね。加えて悪魔の谷なんて、なかなか誰も寄り付かないから、見つかった時は……。」
「気を付けないと、食われるぞって話だ。」
ルルカの話を遮ってヒナリは紅茶を口へ運ぶ。彼女の視界には、頬を目一杯膨らませた少女の姿が見えているはずだが、少し口角を上げれば視線も合わせずにティーカップを定位置へと置いた。
「もうっなんで言っちゃうのー!」
「悪い悪い。」
「もー!」
耳と尻尾をフルで動かしながら文句を言うルルカであるが、そんな彼女を寧ろ微笑ましく見るように少女は視線を向けた。
「と、とりあえず怖い悪魔って事は分かりました。」
「そうか? 俺の中の怖いランキング一位はヒナリちゃ——。」
アランがまた余計な事を言い終わらない中、歯の形が変わる程口を掴まれると、流石に口が滑ったとばかりに彼は顔を青くした。
「んー、じゃあヒイロ君とアラン君、悪魔の谷に行って勇者の様子を伺って来てくれないかなぁ。そうしたら必然的に屍喰鬼も見れるだろうし、勉強になると思うよ。」
「え、俺ですか?」
「うおー! 勇者関連の初仕事じゃないですか!」
ティーカップを机上へ置いた後、魔王は少し考える素振りを見せると閃いたように言った。それに驚いたのはヒイロとアランであるが、少なからずその他も反応を示した。と言うのも、彼等も今まで魔王から下された仕事をこなして来たのであるが、まだ新人と言う事で勇者に関しての仕事はノータッチだったである。そのため、今回が初仕事であり、過剰な反応を見せていたのだ。
「ただし、二人でって言うとちょっと心配だから、ロー君着いて行ってあげてくれるかなぁ。」
「魔王様? さっきの俺っちの話聞いてました?」
「聞いてたよぉ。ロー君、悪魔の谷に詳しそうだからさ。」
「いや、俺っち屍喰鬼はちょっと……。」
「それじゃあ、よろしくねぇ。」
「えっちょっ、魔王様? 魔王様ああああ?!」
仕事の命を下した魔王は、飲み終えたティーカップを見ては「今日も美味しかった。」と呟きつつ席を立ち、ローの呼び掛けも虚しく自室へと戻って行ってしまった。
「嘘、だろ? ひ、ヒナリ。」
「悪いな、私は別の仕事が入ってるんだ。」
「ルルカぁ。」
「ごめんね、私も片付けがあるから……。」
「朝食の準備をサボった罰ですね。」
「そんなぁ……。」
何とも運が悪い事に、幾らローが足掻いたところで状況は変わらないらしい。絶望するローに、ヒイロの冷ややかな眼差しと、一人張り切るアランの声が切なく響くのであった————。