高橋和八2
恐らくは日本で一番ポピュラーなカップラーメンを一心にすすっているこの男性の事を私ははっきりと覚えている。
記憶の中の姿と比べると、頭髪はやや後退し、白髪が随分増えた様子だが、前のめりになって軽快に麺をすするその様子には衰えと言うものが全く感じられなかった。
最後の麺を勢いよく吸いこむと、一息ついて今度はカップをあおってスープも行くらしい。
「あっつ」
中山氏は悲鳴の様な声をあげながら楽しげにスープを飲み干すと、空になったカップをテーブルに置いて私の方に顔を向けた。
「高橋和八さん、どうもお久しぶりです。慌ただしくて申し訳ない。つい先ほどまで失礼ながらお会いする約束をすっかり忘れてしまっていて、いやぁ年はとりたくない。これはイカン、急がなければとカップ麺にお湯を注いだ所までは良かったのですが、カップ麺と言う物は三分待たねばならんでしょう?時計を見るとまだ約束の時間には十分以上ある。よし、これならゆっくり食べても間に合うだろうと油断していましたら高橋さんがお見えになった。これはお待たせするよりも、無様な食いざまを見せた方がまだましだろうと思いまして。いやぁ、本当にお見苦しい物をお見せしました」
そう一息に言い切った中山氏は、とても人好きのしそうな気持ちのいい笑顔で私に挨拶してくれる。小さな丸眼鏡にスープがついているのが少し気になるが。
「いえ、お気になさらず。少し早くきすぎました。中山先生も相変わらず溌剌としていらっしゃいますね」
たった数度顔を合わせただけの、たいして会話も交わしていない私の事を覚えてくれていた事を嬉しく思いながら軽く頭を下げる。
すると彼も眼鏡についたスープに気付いたらしく、清潔な白衣の袖でやや乱暴に眼鏡をぬぐった。
「やりたい事がいくらでもありましてね。ゆっくりもしてられません。あ、どうぞお掛けになってください。それで、捜査協力のご依頼だと聞きましたが」
きらきらと目を輝かせながら、ラーメンをすすっていた時よりも一層前かがみになって私の言葉を待っているらしかった。
「では早速」
そう前置きして、事件の概要を説明すると、彼は顎を引きながら考え事をしている。
「すみません、田中さん、中畑君を呼んできてくれますか」
田中さん、と言うのは私をこの応接室に招き入れてくれた女性の事らしい。事務員か、この研究室に所属する学生なのかもしれないが、若々しい外見の田中さんがどういう立場の人物なのかは、判断できない。
田中さんは返事をすると、すぐ廊下に出ていった。
「そのご依頼は私よりも、中畑君の方が適任でしょう。彼の専門は、まさにそう言う事件ですから」
穏やかな笑顔でゆっくりとそう言うと、おもむろに立ち上がって、部屋のすみにある冷蔵庫を開けた。
「高橋さんも緑茶で構いませんか?」
「ええ、ありがとうございます」
ペットボトルのお茶を受け取ると、隣の部屋から不穏な音と声が聞こえてきた。
壁を殴る様な音と、田中さんの声だ。
『中畑君!鍵を開けて!お客さんだよ!寝てるの?鍵は閉めないでって何時も言ってるのに!中山先生が呼んでるの!早く出てきて!』
田中さんの多分の怒気と若干の諦めが混じったような声がはっきりと聞こえてくる。
「騒がしくて申し訳ない。中畑君はとても熱心な性質なのだが、マイペースな所がありまして」
『ほら!しゃんとして!これあったかいタオル!凄い顔よ、髭はまあ仕方ないか。白衣も洗濯するから脱いで行って!あっちょっと待ちなさい!』
田中さんは随分と中畑と言う人物に気をまわしているようだが、つれない態度をされているのか、最後の方になると慌てたような情けないような声を出している。
すぐに応接室のドアを開いて入ってきた人物を見て、私は余計なお世話に違いないと思いながらも、心配せずにはいられなかった。
猫背ぎみの中肉中背の男性だった。
癖の強い髪はぼさぼさで、前髪は鼻の頭に届きそうなほど長い。
当然この人物の目は私からは見えなかったが、なんとなく機嫌が悪いように見える。
無精ひげも大したもので、口の周りはもちろんの事、もみ上げと髭がつながりそうになっている。
血色も悪い。皮膚は脂っぽい感じがして、少し頬もこけているように見える。
ドアを開けてからの動きも緩慢で、足取りも酔っ払いのようにおぼつかない。
不健康と言う言葉が服を着て歩いているような男だと思った。
不意に不健康そうな男性が私の方を見る。きっと視線があったと思うが、確信は持てなかった。
彼の目が見えなかったからではない。彼の頭の後ろから細長い肌色の何かが、にゅっと伸びてきたと思うと、彼の顔面に向かってわずかに湯気の上がる白い何かをぶち当てたからだ。
「おはご」
彼が珍妙な声をあげると頭が跳ねるように上がった。もう一本の細長い肌色の何かが頭を掴む。手だ。それが女性の手である事に私はこの時初めて気がついた。田中さんの手であった。
「無視するってどういう事?ねえ、聞いてる中畑君?ん?」
彼の顔面に吸いこまれるようにして叩きつけられた白い物体は、どうやら暖かい濡れタオルであるらしかった。田中さんは、ご、とか、が、とか言って弱々しい抵抗を見せている中畑さんの顔面を丁寧に、しかし乱暴にふきあげている。
見た所、田中さんは中畑さんより頭一つ分ぐらい背が低い。中畑さんの体勢が、後ろから無理に引かれるせいで、徐々に逆エビ反りになって行く。どこまで反っていくものかと興味を引かれたあたりで、中山先生が二人をたしなめた。
「まあ、その辺で」
田中さんがハッとした様子で、中畑さんを解放した。
「すみません」
「ぶは、なにするんですか」
中畑さんの声はかすれていて、とても聞きづらい。
「汚れた顔をきれいにしてあげたんです。お礼を言ってくれても良いですよ」
「ありがとうございました……」
「目は覚めましたか?」
「覚めました……」
そうして私は、ようやっと『中畑孝貴』という人物と顔を合わせるに至った。
お付き合いいただきありがとうございます。
どうやったら面白いと思ってもらえる文が書けるようになるのでしょうか。
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