身体を取り戻す
ハイスクール時代、スポーツ科学の授業を受けたことは誰だってあるだろう。4~5人に一人、非常勤のトレーナーが付いて身心の健康を促進するためにトレーニングを受けさせられる、あれだ。
もっともその時は座学の授業で、一個の教室に50人ばかりの生徒が集まり、講師が一人教壇に立っていた。
その講師は建設業界で働いていたが、不慮の事故で片足を失った後、それらの経験からスクールで教鞭を取るようになった人物だった。彼は自らの経験を織り交ぜつつ生徒たちに話す。
「旧国家時代の末頃まで、身体外傷者のリハビリテーションには苦痛がつきものだった。治療が完了したのちに、委縮した筋肉や神経、固着した関節部に負荷をかけ、健常者と同等の能力まで回復させるという方法が取られていたからだ。私のように四肢の欠損した場合はさらに過酷だ。健常者のように飛んだり走ったりしたければ、運動競技者に匹敵する緊密なトレーニングによって残った筋肉を鍛え、特注の義肢を装着する必要があったからだ」
彼はスラックスをまくり上げ、自身の右足を生徒たちに見せた。セラミックスとラテックスで出来た人工皮膚を覗かせた。
「現在は種々の骨格筋補助剤や神経促進剤といった新薬の投与により、リハビリテーションの敷居は劇的に低くなった。四肢欠損には生体部品とほぼ同様の駆動を行う軽量の駆動義肢が開発された。残った神経系からの信号を読み取り動く。この通りな」
講師はサッカーボールを取り出すと、機械の足で器用にリフティングしてみせた。
今、俺は彼よりも酷い状況に置かれている。リフティングどころか、目の前のボールに触れることさえ難しい。
軍との検体取引によって電子化した俺という意識が定着しているシリコンの脳みそは、天然の脳よりも確かに頑丈だ。格納されてるボックスはチタンで出来てるし、耐熱耐冷にも優れている。
だがこいつには (俺から見れば) 致命的な欠点があったし、その点についてジニー博士も理解していた。
「正確には、合成脳は転写された意識を形成する脳神経ネットワークを再現しているの。そこに一定の電圧をかけることで、貴方という意識が目覚めているわ」
「じゃあそこのブレーカーを落としたら、俺はどうなる?」
「眠ってしまうでしょうね。実際いつも眠っているでしょう? 私たちが起こさないと、貴方は眠ったままよ。そして眠った合成脳の仮想神経は、放置し続けると消失してしまうの。その時貴方は改めて、本当に死んでしまうわ」
ほっほう。第二の死だ。外部から自由に俺はたたき起こされたり、眠りにつかされたりするわけだ。
「不服そうね、モニターしているのよ?」
「ガキじゃあるまいし、さっさと起きろ! さっさと眠れ! とされていい気持ちになれるとあんたは思っているのかい?」
「安心して少尉。私たちもそこまで暇じゃないの。貴方の格納されてる『スカルボックス』には疑似生体バイオリズムという機能が内臓されているわ」
バイオリズムというのは、旧国家時代に流行った生体のコンディションを調べるための指標のようなものだそうだ。これに着目した博士は、合成脳を収めるボックス……それにしても『スカル』ボックスか、捻りがないな……に、架空の人体データを観測するようにプログラムした。この架空の人体は日時、場所、気温の設定によって体調が変化する。その観測データに基づいて、合成脳を刺激するわけだ。刺激された俺は、例えば朝七時に眠りから覚める。そして夜十一時頃を境に眠くなっていき、やがて眠る。
もちろんこの架空人体からボックスを経由して送られる刺激は外部から操作可能だ。俺は接続されてる電源が続く限り起きていられるし、シリコンの刻み目が無くなっちまうぎりぎりまで眠らせられる。
「だから、リハビリテーションの間はそれほど気にしなくてもいいわ。貴方の認識上は以前と同じように、眠くなったり目が覚めたりするはずよ」
「オーケイ、博士。話を続けてくれ」
「……ではリハビリテーションの具体的な意図について説明するわ。研究の結果、合成脳は生体脳の神経ネットワークを完全に再現できるわけではないと分かったの。再現できるのは意識活動の包括的なネットワークと、記憶を司る海馬体を中心にした自己認識の……」
「あー、博士。ざっくりと説明してくれ。俺はそれほど医学には詳しくないんだ」
「……ごめんなさい。簡単に言うと、合成脳は貴方という自己認識を作る部分と、貴方の記憶していること以外の脳活動はまだ再現できていないわ」
「うむ。それがどう問題なんだ?」
「機械的に、今の貴方をスカルボックスを経由して、例えば筋電義手に繋ぐことは出来るけど、それだけじゃ動かすことは出来ないの。今の貴方は生体脳における一次運動野、身体を動かすために使う脳神経ネットワークを、殆ど持っていないのよ」
なるほど。鋼のジョー・ボーナムこと俺は新しい手足をまだ使うことは出来ないわけだ。
「そこで、接続した義肢に付けたセンサーを介して、貴方の合成脳をこっちから刺激する。それを貴方が認識すれば、仮想神経のネットワークが成長して、次第に貴方の意思で動かせるようになるはずよ」
「まるで赤ん坊みたいだな。あんよは上手……てね」
「ジョークがお好きなようね、少尉」
「皮肉は言いっこなしだぜ、愛しのカリーン」
「……私はジニーよ」
おっと、失礼。
そんなわけで、俺の受けるリハビリテーションは一般的なそれとはまったく異なるものになった。筋肉や骨格を健常化させるためじゃない。俺の脳を健常化させるためのものだった。
そういうと俺がいかれちまったみたいに聞こえるかもしれないが、あくまで正常だ。いや……一度死んでシリコンの塊になった以上、おかしくなった部分があっても不思議じゃないんだが。
素っ気ない白い部屋の台に安置された俺のスカルボックスとダミーヘッドに、新たに筋電義肢が接続された。生体に近づけられるように細かなセンサーが内蔵された特別品だ。博士はそれを手でもって握ったり、動かしたりした。その刺激が電気信号になって俺に送られる。
始めの驚きは、なんというか、説明が難しい。働きかけを受けている、という漠然とした感覚は確かにあった。
「どう?」
「なんというか……頭の中がざわざわするな」頭しかないくせに他に言いようがない。
「いいわ。ちゃんと刺激を認識している証拠よ。次はどう?」
博士は義手と手を握り、指を絡める。若い女性とは縁遠い生活だったから、実に刺激的だ。
『合成脳への負荷が高まっています』人工音声が警告を発している。
「頑張って、少尉。握り返して……!」
俺は握り返そうとした。彼女は触っている。義手に。腕に。俺の神経に。もどかしい感覚を俺は追いかけた。
暫くの間、人工音声のアラームを背景に俺と博士は格闘していた。長い時間だった気がする。
俺につなげられているマイクが、僅かなモーター音を聞き取った。義手に内蔵されているモーターが少しずつ動き出していたのだ。
それには痛みがあった。痛覚なんて失っているはずなのに、俺は痛い、と思ったのだ。ビールとウィスキーをバニラアイスで飲み下した次の日の朝みたいに頭がガンガン痛むのだ。
「頑張って、もう少し、もう少し……」
「博士、手を、離してくれ……!」俺の合成音声はまだまだ機械的だ。俺の苦しみがこもっているとは言い難い。
だが博士は義手から手を離してくれた。
「どんな気分? 少尉」
「最悪だ。スイッチを切ってくれ、眠りたい気分だ」
「待って。今のデータを検証して貴方に見せたいわ」
博士はディスプレイ上に出ていたであろう俺の合成脳の情報を細かに分析し始めた。いつの間にかアラームは止まっていた。
「リハビリ中に受けた貴方の刺激情報による合成脳の変化を、スカルボックスの仮想人体にフィートバックさせて……ああ少尉、まだ眠らないでちょうだい」
俺はその時、確かに睡魔に襲われていた。実に心地よい寝入りだったけど、女性の声には応えておくもんだ。
「起きてるよ博士。どうなんだい? 俺のおつむは」
「これを見て。いえ……ちょっと待って。今動かしてあげるから」
博士がダミーヘッドを持ち上げて、ディスプレイの前まで動かしてくれた。ああ、女性に抱きかかえられているというのに、何も感じないなんて実に不満だ。
博士はディスプレイ上に二つの画像を表示していた。細かな編み目が重なっている立体図だ。
「こっちが始める前、こっちが後よ。貴方の合成脳に生成された神経ネットワークが成長しているわ。リハビリを繰り返せば、あの義手を自分の手のように動かせるようになるはずよ」
「ううーむ……博士、ありがとう。多少は希望が持てそうだ……あと……」
「なに? 少尉」
「手を握り合った仲だから、少尉はやめようよ。デイビッドでいいよ……悪い、もう寝るよ」
「……そうね。私もジニーでいいわ。お休み。デイビッド」