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カーンカーンカーン……。
「やった国語ーー!」
チャイムが鳴ると同時に、ハレは両手を振り上げて喜びの声をあげた。
「おいおい美空。さすがにその反応は先生傷つくぞー」
タツヒコの苦言は、すでにハレの耳には届かない。さっそく国語の教科書を出して、ルンルン気分だ。
「はあ……」
ため息をつくタツヒコの背を、慰めるようにアサトが叩いて教室から送り出した。
「ハレちゃん、マツリちゃん」
「ユリノちゃーん」
「おはよ、ユリノ」
教室の一番後ろの隅の席から、早乙女百合野が手を振って近づいてきた。
ユリノはここに入学してからできた、二人の友人だった。少しふくよかな体型が目立つが、それもまた愛嬌。ほわほわとした雰囲気が持ち味で、思わず誰もがつられて笑顔になってしまうようなそんな女の子だった。
「おはよう。今日も遅刻ぎりぎりだったね」
「ハレがちょうちょ追っかけて外に出なけりゃ、もっと余裕で間に合ってたよ」
「人は逃げられると追いかけたくなるものさ!」
「そこに山があるからみたいに言うな!」
しかし、ハレの視線はもう教科書に落ちている。真剣な目で、教科書の全てを暗記せんとするその姿勢に、マツリはユリノにむかって肩をすくめた。
「あと、教室が一階だったらあんなに疲れなかった」
「それは私も思うなー。一年生が一番遠いのってかわいそうだよ」
「でもきっと、一年あがる度に教室が上に上がっていったら、それはそれで文句言ってたでしょ」
「間違いなく」
そのときふと、ユリノがハレの並々ならぬ情熱を燃やしている様子に首を傾げた。
「ハレちゃんってさ」
「ん?」
「国語と表現と技術教練の時間は、他に比べてわりと真面目だよね。そんなに国語力が好きなの?」
「あー……」
マツリは困ったように首の後ろをかいた。その理由について、別に本人は隠すつもりはないし、マツリが言ったところで気にすることはないだろう。
だが単純に、ハレはその話をするのを嫌がる。本人がいない場所ならばマツリもざっくばらんに言えただろうが、本人を目の前にしてははばかられた。当の本人は教科書に真剣で、そもそもユリノの質問自体が耳に届いてないようだから、マツリは話をごまかすことにした。また場を改めて聞けば、ハレは自分から説明するだろう。
「……ユリノこそ、どうしてこの学校に来たの? こんなとこに来るのなんて、基本国語力をガチで使ってみたい連中だけじゃん」
「うん、まあね。私の家は定食屋だから、国語力を身につけたら少しは手伝える範囲も広がるんじゃないかなーって。あと、防犯にもなるし」
「へえ。あんたん家定食屋か。どうりでご飯が美味しいわけだ」
「ご飯!?」
「そこだけ反応するんじゃない!」
「あいたっ!」
マツリのチョップが顔を上げたハレの額にヒットする。
「まったく、どこまで食い意地が張ってんだか」
「美味しいは正義だよ!」
「うんうん。美味しいものを食べたら、幸せになるもんね!」
「ねー」
ハレとユリノは顔を見合わせると満面の笑みを浮かべた。この二人は「美味しいものを食べ歩き隊」なるものを結成していたりする。隊員は随時募集中だ。
「はいはい、そうですかー」
「そう言えば、駅前においしいクレープ屋さん見つけたの。また食べに行きましょ?」
「うん! 行く!」
ハレがよだれを垂らしながら大きく頷いたとき、二時間目開始のベルが鳴った。
「いえーい! かめかめ先生の国語ー!」
「アンタ、かめかめ先生好きだよね」
「だってあの先生の授業楽しいんだもん!」
「まあ気持ちは分かるけど」
「私もあの先生の授業好きよ。じゃあ、私は席に戻るね」
「おーう」
「じゃあねー」
手を振ってきびすを返したところで、ユリノはふと思い出して、首だけマツリの方に巡らした。
「そういえば、マツリちゃんはなんでこの学校に来たの?」
「んあー?」
教科書を取り出しながら、間延びした声を返す。そして髪をかくと、親指でハレを示した。
「この子のお守りかね」
「?」
意味が分からず首が四十五度ばかり傾くも、榊原亀吉先生が教室へ入ってきてしまったので、ユリノは急いで自分の席に座った。
「さー国語Ⅰの授業を始めますよー」
ぼさぼさの髪、厚底メガネ、よれよれの白いシャツと黒いズボン、白衣。いつ見ても同じ服装でしかも年齢不詳という怪しさ満点のカメキチだが、なぜか毎年生徒人気は高い。
「皆さん、はじめまして。ぼかぁ榊原亀吉と言います。まー、毎年さかきちとか亀やんとか色々言われてますんで、好きなように呼んで下さい」
と、一番最初の授業で挨拶をした。そして表情を改めると、その容姿の怪しさに吹き出すのをこらえている生徒たちに向かって、真剣な声音で話した。
「まずみなさんに知っておいて欲しいことは、日本語の文法は一つではない、ということです。国語力を行使するために、日本語文法はある程度確立していますが、研究の成果によってはまた変わるかもしれません。なので、僕が教えたことが全てだと決して思わないでくださいね」
教室がしんと静まり返ったところで、
「ま、てことでひとつ、よろぴく♡」
歯茎が見えるまで笑って、ピースサインを出したまるで漫画のようなカメキチに、生徒全員脱力するしかなかった。
「今日は最初に、漢字かな交じり文について少し触れますねー」
教科書片手に、チョークを持ち上げる。しかし黒板に何かを書くわけではなく、その体勢のまま話し出した。
「日本語では、ひらがなの他にカタカナ、漢字、あとローマ字っていうのもあるよねえ。それらを使っているけど、これだけ色んな文字があるっていうのは、実は世界的にも珍しいんです。いやーそりゃ外国の人たちも苦労するよね。だって、たとえばアルファベットなら二十六文字ですむのに、ひらがなだけでも五十音と+αでしょ? カタカナが五十音+αで、ローマ字も五十音+αあって。ほら、一つの音を表す文字が、これだけで軽く百五十は越えるわけです。漢字なんか、もう数えるのもアホらしくなるほどあるよねー」
なっはっはっは、と独特な笑い声がシワの寄ったのどから発せられる。
ひとしきり笑ったところでふと、カメキチは声をひそめた。
「ただね。外国人だけでなく、日本人の中にも漢字が苦手だから全部ひらがなだけにしてくれっていう人は、今も昔もいるんです。だけど考えてみてください、みんな。全ての漢字がひらがなになっていることの悪夢を……!」
そしてようやく持っていたチョークを動かし、黒板に「第四十五回全日本体操選手権地方大会大阪府予選」と書いた。
「こういうのを全部ひらがなで書かなきゃいけないおぞましさ、もとい面倒を!!」
カメキチがバンッと黒板を叩いて力説すると、一瞬の間をおいて阿鼻叫喚の悲鳴が教室中を駆け抜けた。
「メンドくせー!」
「うわあ想像したら鳥肌たった!」
「気ぃ狂うわっ!」
「全部で何文字になるか、考えたくもねえ!」
「うんうん。分かってもらえて先生は嬉しい。まあ面倒っていうだけでなくて、日本語には発音が同じで意味が違う言葉、同音異義語というのがあります。「貴社の記者は汽車で帰社しました」という有名な早口言葉があるけど、これが全部ひらがなだと、こうなるわけですよ」
カメキチは「第四十五回(以下略)」の横に「きしゃのきしゃがきしゃできしゃしました」と書いた。
「パッと見ただけじゃ、何のことか分からないですね。読むのも大変だし。でも、これを漢字に直せるところは直してあげると」
さらにそのとなりに「貴社の記者は汽車で帰社しました」と書いた。
「こうすると、アンタんとこの記者は電車で帰ったでーということが、一発で分かるわけです。このように、漢字とひらがなまたはカタカナを混ぜて書く漢字かな交じりという日本語の表記は、同音異義語が多い日本語にとって、非常に便利なものなのです! Are you OK ?」
「いぇあー」
「はーい」
初めの授業で同じことを言われたとき、どう反応したらいいか分からずしらけた空気を出したら、教室の隅に座り込んでいじけてしまったことがあった。それ以来、カメキチにこう言われたら各々何かしらの返事を返すようになった。
「さて、それじゃあ漢字とひらがなに関連して、次のページへいきましょう。そこにあるように、日本語は語種というもので四つに分類することができます。それでは皆さん教科書を閉じてー」
一瞬ざわめきが広がるも、みんな大人しく教科書を閉じる。教室中を一通り眺めてそれを確認すると、カメキチはマホロを当てた。
「林藤さん。日本語の四つの語種とは何と何と何と何だと書かれていましたか?」
「え、え〜?」
思わず声をあげる。いきなりの質問に対する驚きだけでなく、非難する感じもわずかながらに込められていた。
「そんな『いきなり何させるんじゃこのジジイ。意味分からんねん。あんなちょっとの間で覚えられるわけないやろ。だいたい、そこを見てへんかったやつもおるんちゃうんか。このくそババア』みたいな顔しないでくださいよー。照れちゃう♡」
「いや、誰もそんなこと言ってないです。あと、照れる要素どこにもないです」
冷静にツッコミを入れてカメキチを落ち込ませたあと、マホロは指折り数え始めた。
「えーっと、語種ってようするに和語とか漢語とかですよね。和語、漢語、外来語と……えーあと一個……」
特に注意して見ていたわけでもないのだから、覚えられていないのも仕方ない。
「三つすらすら答えられたなら、まあいいでしょう。四つ目の語種が何んだったか覚えているひ「はい! 混種語です!」……と」
カメキチが当てる前に、ハレはマッハの速度で挙手し、それと同時に答えを口にしていた。これにはさすがのカメキチも苦笑するしかない。
「正解ですが、美空さん。あなたはもう少し落ち着きを覚えましょう。あなたはたしか、猪じゃあなかったでしょ」
「……それは、ワンちゃんらしく『待て』を覚えろってことですか?」
「ええ、そうです」
黒板に語種について書いていたカメキチが、一瞬振り返ってニカッと笑った。ハレは注意されたことに対する不満を持ちつつも、カメキチとの会話が楽しくて、ついつい頬を緩めてしまうのだった。こういう掛け合いがあるから、ハレはこの授業が好きなのだ。
ハレは四月生まれの、戌年だった。
「さて、和語とは日本固有の語のこと。漢語とは古来中国から借用した語、または日本で『ダイコン』のように音読みを作った語。外来語とは西洋から借用した語。混種語とは、語種の異なる語を複合させて作られた語を指します。消しゴムやあんパンなどですね。混種語はさておき、先の三つの語種には語感というものがあります」
「五感?」
「互換?」
「はい、さっそく同音異義語ですね。僕が言ってるのは、語の感触と書く語感です。……あ、みんなもう教科書開けていいよー」
いっせいにページを繰る音が教室を支配し、数秒後に何事もなく解放した。
「そこに例がありますが、和語の「ご飯」と外来語の「ライス」はどう違うのでしょうか。どちらも同じ米を炊いたものですよね? ではどこが違うと思いますか、早乙女さん」
「えっと、洋風料理のときはライスで、日本料理とか一般家庭ではご飯、だと思います」
「ほお〜。いきなり満点クラスの解答ですね。では他に……ネムくんはどうですか?」
「うーーん。お皿に乗ってたらライスで、お茶碗に入ってたらご飯かな」
教室の中を、「ああ〜」という同意と納得の空気が流れていった。
「ふむふむ。なかなか斬新な視点でしたね。まあこのように、語種によってなんとなく違うよなっていうのがありますね。これが語感です。基本的なイメージとしては、和語は柔らかく、私的なもの。漢語は反対に固く、公的なものですね。外来語は、やはり新しく都会的でどこかおしゃれな感じ、というところですかね」
そんなことをノートに写し終え、改めて日本の複雑さ・奥深さを生徒たちが垣間見たところで、カメキチはひとつ空咳をすると、両手を後ろで組んだ。
「国語力の行使に文字はあまり必要でないと思われがちだけど、」
生徒の中で何人かが内心肩を揺らした。
「こういう場面ではこういう文章を使って対処するっていうのを、メモして決めておくと便利なときだってあると僕は思います。土壇場で編み出すものほど、不安定なものはないですからね。それに、新しい言い回しを考えるときも、紙に書きながらのほうが途中でわけ分かんなくなったりしないから、僕はずっとそうしています。なかなかオススメですよ。横着と焦燥は国語力行使者の天敵だということを、覚えておいてください」
カメキチの分厚いメガネが光を反射して、きらりと光った。