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一年生の教室は四階にある。色んな面から嫌われる階だ。
「おーっす!」
木製のドアを破壊する勢いで開けて入ってきたのは、二メートル近い巨漢だった。まだ朝は少し肌寒く感じる四月だというのに、彼は学ランを脱いでタンクトップ一枚姿だった。
「おはよう、五十嵐。寒くないのかよ、そんな格好で」
常識的な意見を述べたのは、細めのメガネをかけた男子だった。彼は冬馬麻人と言い、つい先日このクラスの学級委員長に就任した。ちなみにタンクトップの男子生徒の名前は、五十嵐健人だ。
「おお、おはよう委員長。寒くはないぞ? いい感じに汗をかいてきたからな」
「……まさか、今日もあれをしてきたの?」
「もちろんだ! いや〜今日も九死に一生を得たぜ。特急列車に挑むにはまだまだ修練が足りねえな!」
「そういう問題じゃないだろ! なんでお前は毎朝線路を走って登校してきてんだよ!」
「なに、川を渡る間の二百、三百、五百メートルぐらいだ!」
「だんだん増えてるじゃねえか! だいたい堂々と言うなー! 犯罪だぞ!」
「見つからなかったら大丈夫だ! それに、オレの姿は靄をかけて見えないようにもしているからな!」
「才能の無駄遣い!」
イイ笑顔で親指を立てるケントに、平凡なアサトは頭をかきむしるのだった。
「いいんちょー」
「おはよー」
天井を仰いで喚いていたアサトの前と後ろから、可愛らしい声とともに誰かが抱きついてきた。十六にもなる年に、こんなことをしてくるやつをアサトは一人だけ……いや、一組だけ知っていた。
「おはよう、夢路兄妹」
夢路音無と夢路文無。性別が違うはずなのに、身長も体重も体型もまったく同じという不思議な双子だ。ちなみにネムが兄で、アヤナが妹だ。
「おはよー」
「ねーいいんちょーあそぼー」
「は? おい、ちょ、」
水色の髪を肩で切りそろえ、無邪気に笑う二人が前後にアサトの体を揺らし出す。
「ちょ、待てって! 揺らすな! 危ないから!」
「あはははは! いいんちょー顔青ーい」
「いいんちょーもしかして絶叫系マシーンダメな人ー?」
「いや、それは、大丈夫、だけど! これは! 危ない! マジで危ないから止めなさい! 遊ぶなら休み時間に……って、わー!」
案の定というかなんというか、ドターンという音を立てて、アサトはアヤナを巻き込んで床に倒れた。
「うわっ、ごめん! アヤナ、だいじょう……ぶ?」
明らかに巻き込まれたのはアサトのほうだというのに、生来の気質が災いしてか、叱り飛ばすよりも先に謝ってしまう。そして上に乗ってるネムを退かし、下敷きにしてしまったアヤナを救出するために床に手をおいた。はずなのに、
「いいんちょー……。大胆……」
恥ずかしげにちょっぴり頬を赤く染めて、アヤナが視線をそらす。アサトの手はアヤナの胸の位置にしっかりと置いてあった。
「……ぅ」
お世辞にも大きいと言えないサイズとはいえ、女子の胸は女子の胸。柔らかい感触はしっかり手の中に残る。
「うわあああああ○※×♯△★◎♨!?」
ズザザザッとアサトは教室の端まで下がった。そして頭を抱える。
(うそうそうそうそうそっっ!? マジかよ! どうすんだよ! え、何、こういう場合ってどうしたらいいの!? 謝ったらいいの!? それともアレ!? 責任とりなさいよってやつ!? え、責任ってことはオレ、アヤナと結婚すんの!? いやいやいやいやいやいや! でもそれ以外方法ない!? うわあああああああどうしたらいいんだあああ)
アサトの目の前が暗転してぐるぐる回転しかけたとき、チャイムの音をかき消すぐらいの元気な声が教室の中に飛び込んで来た。
「おはよー! みんな!」
「だー! 間に合ったー!」
ハレとマツリだった。
「マジ四階辛い! 遠いわ!」
全力の叫びをあげているマツリは、ハレの首根っこを掴んだまま肩で息をしていた。そのときたまたま、教室のはしっこで悶々としているアサトの姿が目に留まった。
「あれ? そんなところで何してんの、冬馬」
「あ、春野さん……おはよう。あの、さ。どうしよう、オレ……」
そしてチラッと夢路たちのほうを見る。二人は……アヤナは、何事もなかったようにケントの両腕にぶら下がって遊んでいる。あの二人のお気に入りの遊びで、毎朝のように見る光景だ。
「なに? またあいつらがなんかしたの?」
マツリも同じくそちらに目を向けた。……あ、ハレがケントの背中に飛びついた。
「おお!? なんだ、美空か?」
「あったりー! おはよう!」
いつの間に自分の手を逃れていたのか、マツリは額に手をあてた。
「まったく、あいつはもー。それで? 夢路がどうしたの? ていうか、まずどっち?」
「いや、今回はどっちかっていうとしちゃったのはオレのほうで……その、オレ、さっきアヤナのむ、胸を……その、さ、触っちゃって……」
「はあ?」
真っ青な顔が一瞬で赤くなり、また次の瞬間には青いを通り越して真っ白になっていた。
「ど、どうしよう! オレやっぱり責任とってアヤナと結婚したほうが「あれー? なんで今日はネムがアヤナの制服を着てるのー?」いい……って、へ?」
アサトが何か面白いことを言ったかなとマツリが思ったのと同時に、ハレののほほんとした声が彼の耳に届いた。
「あー! もう、なんで言っちゃうのハレー!」
「え? ご、ごめん。ダメだったの?」
「いいんちょーがネムにプロポーズしてきてからばらそうと思ってたのにー!」
「つまんないー!」
チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、ポーーン。
「〜〜〜〜夢路ー!」
合点のいったアサトが顔を恥ずかしさと怒りで真っ赤に染めながら双子に飛びかかった。もちろん、それを黙って受け入れる二人ではない。ケントの腕からすばやく手を離すと、ダッシュで逃げ出した。
「お前ら騙したなー!」
「騙されるいいんちょーが悪いんだよーだ!」
「ふざけんなー! 待ちやがれー!」
「やーだよー! あはははは!」
それを黙って見送る三人。
「……なあ、美空。アレって何回目だっけ?」
「んー。三回目?」
「いい加減疑ってかかってもいいだろうに。まあ、あいつらもあいつらだけど。入れ替わりとかよくやるよね」
冬馬麻人、十五歳。生真面目で純真な彼の将来が、クラスメートたちは心配です。
ナギサと彼女に抱えられたツカサは、上級部生棟がある側の門をくぐろうとしていた。
「おやー? そこに見えるは愛しの我らが姫君、渚嬢ではありませんか〜!」
そのとき、後ろからそう声をかけてきた男がいた。彼はナギサが振り返るよりも早く、彼女の前に回り込んで片膝をついた。
「ご機嫌麗しゅう……ってんNO〜〜!」
右手をナギサにさし出しかけた男だったが、今のナギサを真っ正面から見てしまい、二、三歩距離をとって頭を抱えて天を仰いだ。
「なんっつー羨ましいことやってんだよお前は!」
少し節くれだった長い人差し指が、柔らかく魅力的、いや、いっそのこと蠱惑的というべき谷間に頭を埋めるツカサに突きつけられる。
「なんという特等席だ! オレたち人間には決して手の届かぬ神の領域であるというのに、ウサギの貴様は容易くそこへ踏み入れる! 何故だ!? やっぱり外見か!? 女の子は可愛いマスコット的なふわふわの毛並みを持つ愛らしいキャラクターが好きなのか!? ぬおおおおおお! 羨ましい! 羨ましすぎるぞ!! ちくしょうがあああ!!」
滝のような涙を流して、男は地面に突っ伏して泣き叫ぶ。
「あら、おはようございます。深城さん」
「やかましいぞ、馨。近所迷惑だ」
「その返し辛い!」
だが、ナギサとツカサはまるで何事でもないかのように、さらりと彼の奇行を流してみせた。一種冷淡とも言えるその対応に、深城馨は思わず涙を止めた。
深城馨。生徒会書記を務めており、ツカサとは中学からの付き合いがある。ちなみにこの男、まわり(特に女子)からの評価は、『イケメンだけど中身が残念。でも少しはかっこいいところがあるから、三枚目というには惜しい二.九枚目』である。
「いや、でもホントかなり羨ましい、つか正直滅べっていうレベルなんだけど。司ってホントむっつりだよな」
「失礼な。俺が自ら飛び込んでいったわけではないぞ。俺自身の名誉のためにも言っておくが」
「そうですよ、深城さん。これは、私がしたいからしているだけのことなんです」
「……渚嬢もさあ。うん、渚嬢も渚嬢だよね……」
「何が言いたいんだお前、は」
訳が分からんと続くはずだったツカサの小さな丸い目が、何かを捉えてキラッと光る。
二人と一匹は東の正門にさしかかっていたのだが、ちょうどそのとき上級部生棟の近くでボール遊びをしていた生徒が数人いたのだ。彼らのうちの一人が打った強烈なボールは仲間内の輪を越えて……
「あ、危ない!」
「やべえ!」
焦ったような声が届く頃には、既に凶器と化したボールはナギサの目の前にあった。
「きゃっ……!」
反射的に片手を上げて頭を守ろうとしたナギサだったが、それよりも早く飛び出したひとつの小さな影があった。
バシィッッ!
バレーボールのブロックよろしく、ボールを地面へたたき落としたのは、他ならぬツカサだった。そしてシタッと見事な着地を決めると、呆然と一連の出来事を見ていた生徒たちに向かって声を張り上げた。
「貴様ら! ここはボール遊びをしていい場所ではないぞ! 遊びたいならばグランドへ行け!」
「は、はい!」
「それと、まわりへの注意を怠るな! 今のボールとて、当たりどころが悪ければ一生ものの傷を負わしていたかもしれないんだぞ! 国語力を使いこなそうと思っているならば、自分の不注意が即大事故を招くと頭に刻み込んでおけ!」
「は、はい! 申し訳ございませんでした!」
彼らは全員、直角に腰を曲げて頭を下げると、ボールを持って驚くべき早さで撤退していった。
(会長……イケメン……!)
腰が抜けたナギサは、地面に座り込んだまま両手をふるふる震える口元へと持っていく。きゅうんっと胸が高鳴った。
そしてツカサはフンッと鼻をならすと、ナギサへ向き直った。
「大丈夫だったか、夕張。怪我は?」
「い、いいえ。大丈夫ですわ。会長こそお怪我は? 私のためにあんな危険なことを……」
「俺は大事ない。お前に怪我がなくてなによりだ」
「会長……」
「さあ、早く立つんだ。せっかくの可愛い服が土で汚れてしまうぞ」
「はい……!」
二人がいるところだけ異様な輝きを見せているのを外から眺めながら、カオルはガシガシと頭をかいた。
「あれがなけりゃあ、もうちょっとまともに男にモテそうなんだけどなー。うちのお姫様は」
夕張渚は、イケメンなウサギの生徒会長・夜霧司にぞっこんである。それこそが、彼女が敬遠される理由であった。彼女のツカサへの惚れ込み具合は、実はかなりヤバかった。
ナギサが立ち上がって服の土をはたき、もう一度有無を言わせずツカサを抱き上げ、カオルにまた慟哭と羨望のののしりを受けたとき、カーンカーンという独特なベルの音が少し離れたところから聞こえた。
(下級部生の始業のベルか。ハレもちゃんと起きて授業を受けてくれているといいんだが)
嘆息を漏らす。ツカサが憂慮している点は、真面目な学生にはごく普通のことであったが、ハレはというと……
「起きろ、美空!」
「いであ!?」
「開始五分と経たずに鼻提灯を作り出すやつがいるか!」
「だ、だからって殴んなくても……」
「文句を言うな。言い訳も不要だ。しっかり起きてノートを取っておくんだぞ!」
「ふあーい」
……残念なことに、睡眠欲という人間の三大欲求に忠実な子であった。