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あとはもう大混戦だった。殴り合っている本人たちには誰が味方で誰が敵かの区別はついているのだろうが、外にいると団子のような塊になって人が転がったり宙を飛んだりしているようにしか見えない。
ここで誰が一番迷惑して、ついでに言えば恐怖しているかと言うと、勿論この二つのグループの争いに全く関係がないハレたちである。
「ちょ、ど、どうしようこれ!」
いきなり目の前で起こったケンカに、ユリノが後ずさりする。だがいかんせん座ったままではまともに動けるはずがない。
「…………ゃ、ヤダよ」
喧騒にかき消されそうなその声は、ユリノのすぐとなりからした。
「ダメだよ……ダメなんだから……!」
「ハレちゃん?」
目を見開き、呼吸が浅く速くなっていくハレの名前を呼ぶ。だが、フラッシュバックするかつての記憶がハレの体を、声を、理性を縛り鈍らせる。
(このままじゃ……このままじゃまたツカサ君が……)
吹き荒れる風に煽られた砂がハレの目や口を襲い、恥をかかされプライドを傷つけられた相手があらんかぎりの大声で、思いつくかぎりの罵詈雑言を浴びせてきた。
体の芯まで凍らす冷気と殺気を放つどす黒い瘴気のような相手の国語力がハレに突き刺さる寸前、ハレの前に立ちふさがった影があった。
『だめだよ! 危ないから! やめて! 逃げて、ツカサくん——!』
ハレが手を伸ばすもその背中は遠く、まったく届かなかった。そしてツカサは、満足に動けぬウサギの姿になってしまった。
(怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い)
自分が傷つけられ、痛めつけられ、呪われるかもしれない恐怖。そして、自分の親しい人にそれらがまた降りかかってしまうかもしれない恐怖。
「〜〜〜〜!」
体がブルブルと震え、歯の根が合わなくなってくる。
渦巻く恐怖と記憶がハレの小さな体の内に留めきることができず、ついには決壊して喉から音となって迸る。
「っ、「ハレ!」
その直前、マツリがハレを巻き込んで(体当たりで、とも言う)後ろに倒れ込んだ。
「いったい!」
「ど、どうしたの!? 大丈夫!?」
「お腹空いたな、ハレ!」
「ええ?」
疑問の声を漏らしたのはハレだけではない。ユリノもだ。
「だから、お腹空いたなって。だって昼食べてから何時間経ったよ。こんなことに巻き込まれてなきゃ今頃、家で晩ご飯食べてたのにさ」
「今日の晩ご飯……お母さんのハンバーグ……」
「マジ? おばさんのハンバーグ超おいしいじゃん」
少しずつ、ハレの目の焦点が合ってきた。
「アタシんちは何かな。母さん今日パートだから、カレーかな。ユリノんちは?」
「えっ? えっと、今日の日替わり晩ご飯がホタテのバターオムライスだから、それかな……」
『なにそれ超旨そう』
さすがは大衆食堂である。ハレとマツリの声が重なった。ついでに、大きくハレの腹の虫も鳴いた。
「……うん、ボクもお腹空いてきた! あっ! ていうか、それで石焼き芋買おうと思ったのに!」
そう言って地団駄を踏むハレは、すっかりいつものハレだ。
(すごい……。さすがマツリちゃん。手慣れてるわ)
「んじゃ、寝てろ!」
「って、ええ!?」
感心した矢先のこれである。マツリの意外すぎるセリフにユリノは目を白黒させる。
「寝て起きたら晩飯だから!」
「あ、あの、マツリちゃん?」
「ほんと?」
「ほんとほんと。だからさっさと寝ちゃいな。ほら、カエルが一匹ー」
「カエル!?」
つくづくこの二人には驚かされる。そこは普通羊だろうに。
「え、なんでカエルなの?」
早々と目を閉じて本当に寝てしまったらしいハレに安堵して、腹筋だけで起き上がってきたマツリにユリノが問う。
「昔は柵飛び越える羊で数えてたんだけど、いつだったか羊が飛び損ねて柵に顔面ぶつけて泣いちゃったらしくて、それ以来なぜかカエルで数えるんだと」
「……それ、カエルのほうが柵にぶつかるんじゃない?」
ユリノの至極当然の質問にはマツリも肩をすくめるしかない。
「ま、今は、そんなことよっり、逃げる、のが、先!」
「だ、大丈夫マツリちゃん!? そんな無理にガムテープ外そうとして。これ結構ぐるぐる巻きだよ?」
「だからって、これじゃ、ハレを抱えらんない、じゃん!」
マツリは腕を上下に動かし、どうにかガムテープから抜け出そうともがいていた。
「三人とも無事かい!?」
そのとき、わき腹を押さえながらオサムが駆け寄ってきた。
「塚山さん!」
「待ってて、僕ソーイングセットのハサミを持ってるんだ。それでそのガムテープを……」
ウエストポーチから親指サイズの小さなハサミを取り出した。オサムの登場に「何をしに来たんだ」と言いたげな目を向けていたマツリも、それを見て少し考えを改めた。
「そんじゃ、ユリノのやつ、外してくれま、す? アタシは! 自力で! ふんっ!」
「わ、分かった。なるべく早く済まして君のも切るね。美空さんは……え、寝てる!?」
スヤスヤと健やかな寝顔にオサムは思わず目を疑った。
「ああ、それは寝かしといてもらって、大丈夫っす!」
「そ、そう……?」
両手を後ろ手で縛られているにも関わらず、仰向きで寝ているハレのガムテープはなかなか切りづらい。先にユリノのガムテープにハサミを入れるも、どうしてもついついハレの方にチラチラと目がいってしまう。
「あ、あのさ。なんで美空さんは寝てるの? さっきまで起きてたよね? ていうか、この状況でよく寝れるね?」
「寝かしたんですよ」
「え?」
さすがにしんどくなったのか、荒息をついてマツリは休憩していた。その横顔にはまだ肌寒さすら感じるこの時期に相応しくないほどの汗が浮かんでいた。
「寝かしたって、なんでわざわざそんなことを? 逃げにくくないか?」
「逃げるのには全く問題ないっすね。アタシが抱えて運びます」
「えっ! す、すごいね……。けど、そこまでして美空さんを寝かせたい……いや、起きたままにさせたくない理由って?」
「あー。まあ簡単に言うと! 昔こいつ、国語力を使った、不良の喧嘩に……うりゃー……。巻き込まれたことが、あるんっすね」
むりやり手を引っこ抜こうと引っ張ったせいで、マツリの手は擦れて真っ赤になっていた。
「塚山さん! まだ私のガムテープ切れないんですか?」
「ご、ごめん! もうちょっと待って! えっと、君も無理しないで。この子のやつもう少しで切れるから……」
「だから大丈夫だって!」
赤くなったマツリの両手を見ていられず、ユリノとオサムの額にも焦りのあまり汗がうっすらと滲む。だがマツリは、このままうまくいけば自分とユリノの両手が同時に解放されそうなので、タイムロスなく逃げに走れるということしか考えてなかった。
「で、まあ! これ見てっすね、それ思い出されたら、今度はこいつの、国語力が、暴走しかねないから、寝かしつけたん……っすよっ…………とぉ! よっしゃ抜けたあ!」
まだ手首に残ったままのガムテープを、自由になった手で剥ぎ取る。喜ばしいことに、ちょうどユリノのほうも切れたようで、急いでその場から走って(一人は俵担ぎにされていたが)逃げ出した。
「ここまで騒ぎが大きくなったら、僕にはもう止められないな。警察に電話しよう!」
「そっちのほうがいいっすね。ユリノ、携帯出る? これ抱えてたらアタシ出せない!」
「待って、カバンのどこに入れたっけ……」
「ああ、僕の携帯また画面割れてる! さっき踏まれたからな。電源も入らない! くっそー。何度目の修理だよこれ……」
階段下はすでに暴れ回る団子たちで埋められている。三人と一人は草が伸びまくった急な斜面を登るハメになった。
「ああ、もう! こんなことがそんなしょっちゅう起こってるなら、警察ももう少し本腰入れて取り締まってほしいわ!」
「あ、けどそういえば、前に冬馬くんが言ってなかった? ほら、うちの風紀委員の人たちが見回りしてるって」
「え? ああ、そういえばそんなこと聞いたなあ」
「三養の風紀委員っていうと、あの長い金髪の人たちだよね。僕も何度かお世話になったよ」
「見回りしてるっていっても、実際にはこうやってケンカが始まっちゃってるんだから、やっぱり国家権力がさー」
「あっ! あった携帯!」
ハレを担いだマツリのすぐ後ろをオサムは歩き、もしマツリがハレを落としそうになったりよろめいたら手助けできるように備えていた。ユリノはその横を歩きながらカバンの中から、ようやく携帯を探し当てた。
ところが運悪く、坊主頭の男にその姿を見られてしまった。
「ああっ! てめえらなに逃げてやがる!」
「やばい! 見つかった! 早くここから離れよう!」
慌ててオサムがマツリの背中を押して上の道路へと上りきった。
「ああん? ふざけんじゃねえぞあのモヤシ! おい、あいつら逃がすな! なめたマネしやがって!」
タツキの叱責を受けて、坊主頭の男がさっそく混戦の中から抜け出すとマツリたちに向かって何かを投げてきた。狙いは正確で——マツリたちからは距離もあってはっきりしないが、もしかすると何らかの国語力を発動した可能性はある——片耳に携帯を当てたユリノの背中に命中した。
「も、もしもし警察ですか、あの……」
痛みも特に感じなかったので何が当たったのか確認もせず、ユリノは繋がった相手にとにかくこの状況を伝えようと口を開いた。だがそれは当然、ヤンキーたちにとって好ましいことではない。
「ハンドパワー!」
坊主頭の男は、両手をこちらに向けるとそう言い放った。するとユリノの体が引き寄せられるように、後ろへかしいでいった。その衝撃で携帯が手から離れるも、拾う余裕はない。
「えっ!? うそ、きゃあ!」
「ユリノ!?」
反射的に足を後ろに出して転倒は免れるものの、そのままふらふらとユリノの意思に関わらず体は後ろへ下がっていく。おかしいとすぐに気がついたマツリは担いでいたハレを半ば打ち捨てるようにオサムへ投げると、ユリノの両腕を掴んだ。
「うわあっ!」
「いったあい!」
投げられたハレを受け止めきれず、オサムはそのまま後ろへひっくり返った。ハレもさすがにその衝撃が大きかったのか、目が覚めたようだ。
「やだやだやだ! 何これ!?」
「こんのっ……! ユリノを離せって……!」
「はっはっは。見たかおれのお手製ひっつき虫イン磁石! その女につけた磁石とおれの手にある磁石は引き合うようになっているのだ……! だからさっさとこっちに来い……!」
「何言ってるかわっかんないけど、とりあえずユリノを離せってー……!」
河川敷の上と下で、ユリノの体を全力で引っ張り合う。だが生身のマツリのほうが分が悪く、少しずつ急斜面を滑っていった。
「ま、マツリちゃん!」
「大丈夫……! けど……このくっそやろう……!」
少しでも気を抜けば、ユリノの体は一気に向こうへ引き寄せられるだろう。ユリノがヘタに動いてマツリの集中の邪魔をしても同じだ。
「いたーいー……。マツリちゃんのバカー……」
そんな中では、グテッとオサムの上に乗っかったままのハレの声は妙に間延びしていて場違いと言える。
「ご、ごめんね美空さん! 僕がちゃんと受け止められなかったから……」
とりあえずハレを自分の体の上から退かしたオサムは、ハレへの謝罪もそこそこに、急いでマツリに加勢した。
「ふんっ……! ちょ、びくともしない……!」
「もうちょっと力つけろよ男子……!」
「ごめん……!」
「マツリちゃん、その人先輩だよ……」
「関係あるかー……!」
(大きなかぶ?)
寝ぼけ眼をこすろうとして手が塞がっていることに気がついたハレは、次に何かを引っ張るマツリとオサムを見てそう思った。ハレの位置からはユリノの姿はちょうど二人とかぶって見えなかったのだ。
(かぶ……。そういえばそろそろかぶの旬も終わりだなー。お母さんが作ってくれたかぶとお肉の煮物美味しかったな……。また作ってくれるように頼んでみよー……)
そんなことを考えていると、ハレの腹の虫が大きく鳴いた。
「……お腹空いた」
ぽつりとそうもらす。そういえば、自分は日もすっかり落ちたこんな時間にこんなところで何をしているのだろう?
(えっと、今日は数学の小テストがあって散々で……あ、小野先生の宿題いつまでだっけ……それから英語が……)
まだ半分夢の中なのか、ふらふらとハレの体が揺れて、このままでは遠からぬうちに地面と激突する……というそのとき。
ダッッァーーーン!
鼓膜どころか地面そのものを揺るがすような音が轟いた。ハレの体も驚きで大きくはねた。
「はっは! 残念だったな、俺にはかすりもしてねえぜ!」
「ぬう! やるようになったな、クソガキが!」
コジロウが振り下ろした鉄パイプはタツキには当たらなかったようだ。そのまま二人のケンカは続行した。
コジロウとタツキだけではない。彼らの子分のヤンキーたちも、ユリノを取り戻そうと踏ん張っているマツリとオサムも、誰も今の轟音を気にかけて手を止めようとはしなかった。正直、それどころではなかったのだ。
そう、この一人を除いて。




