1
ふんわり。
そんな擬音語を伴って、春のそよ風が部屋のカーテンを揺らした。カーテンの隙間からのぞく空は柔らかい薄青色だ。風は強くもなく弱くもなく。気温は暑すぎず寒すぎず。四月末のその日、常春市は非常に心地よい朝を迎えた。
愛する夫が仕事に行くのを見送ったその家の夫人は、次に可愛い娘の朝食作りに取りかかった。少し遠くにある中堅会社に勤めている夫は、三年ほど前から運動のために自転車で通勤している。それはそれでけっこうなことだ。娘の成人式の時は秘蔵の一張羅を着るつもりなのだ。それを将来の楽しみの一つとしているのに、ビール腹なんぞに邪魔されてはかなわない。しかしそのせいで、家族そろって朝食を食べることが難しくなってしまった。愛娘と過ごす時間を減らすぐらいなら、やはり今まで通り車で通勤しようか……と考えた矢先、ぽろっと自転車で仕事に行こうと思うと当の娘に漏らした結果、「お父さん自転車でお仕事いけるの!? いいな〜。かっこいい〜」とキラキラした目で見られたので、迷いは日付変更線の向こうまで飛んでいった。
そんなわけで、夫は愛娘の憧れを裏切らぬために毎日早めに家を出て自転車をこぎ、夫人は食べることが大好きな娘が温かい朝食にありつけるように時間をずらしてもう一度キッチンに立つのだ。
トントントン。グツグツ。コンコン、パカッ、ジュー。
目玉焼きとベーコンの焼ける香ばしい匂いと、味噌汁の甘辛い匂いが鼻腔をくすぐる。たとえ朝食を食べた者であっても、思わず生唾を飲みこんでしまいそうないい匂いだった。
そろそろ娘を起こさなければ、遅刻してしまう。夫人がそう考えてエプロンの後ろに手を回してリボンを外そうとしたとき、タイミングよく声がかかった。
「おはようございます、おばさん」
「あら、おはようツカサくん。あなたも朝ご飯を食べる? すぐに用意するわよ」
「いえ、もうすましてきたので、おかまいなく」
夫人がツカサと呼んだ相手は、すっかり声変わりをして大人になった低めの男の声で答えた。
「そう? いつもそう言うけれど、本当に遠慮しなくていいのよ? あなたはもう我が家の息子のようなものなんだから」
「ありがとうございます」
フッという軽い音が漏れたが、それが笑い声であったのかただの吐息なのか、変わらない表情からは読みとれなかった。
近所に住む彼は、毎朝必ずこの家にやってくる。だから、庭先に開いた窓辺には彼が足を拭うための濡れ布巾が用意されている。
それで足を拭い、キッチンへとやってきた彼は誰も座っていないイスを見て、トイレの様子をうかがって、深々とため息をついた。
「アイツはまだ……いえ、また起きてないんですか」
「そうなのよねー。ほら、今日は絶好の寝太郎日和でしょ?」
夫人はカラカラと朗らかに笑う。
「……起こしてきます」
「ありがとう。よろしくね」
朝食のいい匂いをまとわせて、彼は慣れた足取りで階段を一段一段跳びあがっていく。
階段を上り終えて左の部屋、暖かな春の陽光が差し込むベッド上で一人の少女が布団にくるまって眠っていた。
まだ幼さを残すその寝顔は愛らしく、起こすのがしのびないところだが……。
「起きろハレー!!」
「うぶぉえ!?」
毎朝少女を起こしてきて早何年。彼にためらいはなかった。
「う、うぅ……。痛いよツカサくん……」
「黙れ。いったいいつまで寝ているつもりだ? おばさんが優しいからといって、いつまでも甘えててどうするんだ」
彼の頭がクリーンヒットしたわき腹を押さえて、少女が唸る。彼は彼女の頭の横で、いつものように説教を垂れた。
「だってぇ……」
ようやく目を開けて、少女は助走をつけた渾身の体当たりで自分を起こしてきたウサギを見る。
そう、ウサギである。夫人と、そして今少女と会話しているツカサなる男は、ウサギであった。デフォルメされたかわいいキャラクター系のウサギではない。ガチで、リアルの、ウサギである。
大事なことだから二度言おう。ツカサなる男は、ガチでリアルなウサギである。
「春眠暁を覚えずっていうじゃんか……。ボクは眠いんだよ、ネロ……」
「それを言うならパトラッシュだ。ネロは男の子のほうだ」
「……うん…………。じゃあほら、アレだよ。ほら、シャーリプトラの……人生の仕上げは眠りだ…………」
「ごちゃ混ぜにもほどがあるぞ、ハレ」
再びまぶたが落ちた少女の餅のような弾力を持つ頬を、プニプニの肉球がついた前足でつつく。この場合、いったいどちらを羨めばいいのだろうか。
「起きろ、ハレ。色々間違って覚えているお前は勉強をしなおせ。シャーリプトラは般若心経に出てくる釈迦の弟子で、『我々人間は、夢と同じもので織り成されている。儚い一生の仕上げをするのは、眠りなのだ。』と言ったのは、シェークスピアが書いた『テンペスト』に出てくる魔術師だ」
「…………」
ついに返事すらなくなった。スースーと健やかな寝息をたてて、少女は幸せそうに寝ていた。
ウサギの体ながら、人間と同じような大きな大きなため息をつくと、ツカサはその場でジャンプを始めた。
そしてベッドのスプリングとウサギならではの跳躍力で勢いつけ、彼は再び少女に向かって体当たりするのだった。
「だから起きろと言っているだろー!」
「ごふあ!?」