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この授業が終われば、皆が待ちに待った放課後である。生徒会下の部活動やバイトに精を出す者もいれば、遊びに行く者もいる。ハレもいつもなら遊びに出かけるうちの一人なのだが、今日は机にめり込むぐらいヘコんでいて、そういう気分ではないようだった。
「何をそんなにへこんでんのさ。べつに壁を破壊したわけでもあるまいに」
マツリは自分の椅子から手を伸ばして、ハレの頭をペシペシと叩く。ハレはのろのろと頭を上げて、恨めしそうにマツリをじと目で見た。
「さくらちゃん先生に怒られた」
「それはボールを勢いよく壁にぶつけたからでしょ。国語力の発動云々についてじゃないじゃん」
「そうよ、ハレちゃん」
帰り支度をすませたユリノが、昼に見た弁当とまた別の袋を持ってハレの前の席を借りて座った。
「私のデザートのいちごをあげるから元気出して」
ハレの目にキラッと光が点った。
「いちご……」
「ええ、そうよ。今なら、なんと私お手製のマドレーヌも付けちゃう♡」
「食べるー!」
パアッと花が咲いたような笑顔で、体を起こして両手を伸ばしてきた。マツリは呆れて肩をすくめた。
「復活の早い子だこと。……にしても、そんなに大判振る舞いして、アンタはいいの?」
「もちろん、大丈夫よ。いちごはたくさんあるし、マツリちゃんも食べて。マドレーヌは三人で食べようと思って焼いてきたものだから」
ハレの口にいちごを運びながら、ユリノはふふっと上品に笑った。しかしどう見ても、それは完全に餌付けだ。
そして幸せそうにいちごを頬張るハレに、ユリノは躊躇いがちにさっきのことを尋ねた。
「あの、ね。ハレちゃん」
「ふぁに?」
「食べてからしゃべりなよ、ハレ」
もぐもぐもぐもぐごっくん。
「なに? ユリノちゃん」
「さっきのやつね、私見てたんだけど、ハレちゃんの足はボールに当たってないように見えたの。でも、ボールは飛んでいったでしょ? 何がどうなったのかなって……」
「……」
黙り込んでしまった。いちごを頬張ってご機嫌だった顔も、すっかり固くなってしまっている。
「マツリちゃんからハレちゃんの国語力だって話は聞いてたんだけど……あ、あのね。言いたくなかったらいいんだよ?」
「なんでそこで全部説明してくれないの」
「なんでアタシが言わなきゃなんないの」
不満そうに頬を膨らませているハレに、いやいやとマツリはツッコミを入れる。しかしすぐに肩をすくめた。
「まあ、あんまり愉快な話でもないのは確かだけど、遅かれ早かれ皆にバレることだし、ユリノには今話しといてもいいんじゃない?」
マツリに促され、ハレはユリノの様子をチラッと窺った。
ユリノは困ったように笑いながら、それでも優しく言った。
「ハレちゃん。本当に無理して話してくれなくて大丈夫だよ? ハレちゃんの国語力がどうだって、私はハレちゃんがかわいくていい子だって知ってるもん。私の作ったご飯もお菓子もいつもおいしそうに食べてくれるハレちゃんが私は好きよ」
そしてハレの頭を撫でるユリノ。ハレは、無言でユリノの胸に飛び込んだ。
「……んだ」
「え?」
「ボクは、国語力の天才……らしいんだ」
その声は弱々しく、天才という華々しい単語からはかけ離れていた。
「国語力の天才っていうのは、つまりどういうことなの?」
ユリノは変わらずハレを抱きしめて頭を撫でながら尋ねた。
「ボクは、正しい手順なんて踏まなくてもある程度のものなら行使できるんだ。こうしたいなーって思うだけで、それができる」
(じゃあさっきのは……)
ユリノがマツリに一瞬目線を移した。マツリは軽く肩をすくめて答える。
「普通の女子が普通に蹴ったって、あんなでかい音立てて壁にぶつかったりはしないよ。バスケットボールなんて、サッカーボールより大きいし重いんだから」
ハレは、授業で使ったバスケットボールをサッカーボールに見立てて、サッカー選手がボールを蹴ってシュートするときの様子を想像しただけ。だが、サッカーのボールは蹴る人によっては時速百キロを越えることもあるという。
あのときのボールが時速何キロ出していたかなど知る由もないが、バスケットボールは壁にぶつかってなかなかの音を出した。だからこそ、サクラは注意をしたのだ。危ないから。
「でも、それってすごいことなんじゃないの? さっきのはまあ確かに危なかったけど……」
「すごくない!」
ユリノの背中に回す手に、さらに力がこめられた。
「ぜんぜん……すごくないもん……」
「……そっか。そうなんだね。ごめん」
ユリノは、どうして? とは聞き返さなかった。それが申し訳なくて、ハレはますます腕に力を込めてユリノに抱きつきながら、一気にまくし立てた。
「ボクがあのとき勝負を受けてなければ、ツカサ君はあんな目に遭わなかったのに! ボクが正しい国語力を使えていたら、あんな暴走からツカサ君を守れたかもしれないのに! ボクが、ボクが本当に天才なんだったら、ツカサ君の呪いなんてすぐに解けたのに! だから、だからボクはこの学校で……!」
改めて悔しさがこみ上げてくるのか、ハレはユリノの体を相当締め上げていた。つまり、
「ハレ、ユリノの魂飛びかけてる」
「にゃ!?」
慌てて顔を押しつけていた彼女の胸から顔を上げれば、ユリノの口が半開きで焦点があっていなかった。
「いやー! 帰ってきてー! ユリノちゃーん!」
急いで、ユリノの体を揺さぶる。
「……はっ!」
数秒後、ユリノは突然意識を戻した。
「ユリノちゃーん! よかったああ!」
「え、あ、ご、ごめんハレちゃん! 私ったら、話を聞いてる途中で寝ちゃって……」
ユリノは泣きながら抱きついてくるハレを抱き返しながら、目を白黒させている。
「おかえり、ユリノ。ところで、あんたどこまで話覚えてる?」
そんなユリノに、ありがたくいちごを頂戴しながらマツリは言った。
「うーんと、ハレちゃんのせいでツカサ君って人が、被害を受けた……? だっけ?」
「そうそう。ようはそういうこと」
そして、ペットボトルのお茶を半分ぐらい一気に空にするという男らしい飲みっぷりを披露すると、もう少し詳しい事情を説明しだした。
「ユリノ、あんたもさっき会ったから覚えてるっしょ。生徒会長の夜霧先輩」
「そりゃあ……。入学式のとき壇上でスピーチしてたしウサギだし、三養にいてあの人を知らない人はいないんじゃない?」
「まあね。で、あの人って、生まれたときからウサギだったわけじゃないんだよね」
「え? じゃあまさか……」
「せーかい。夜霧先輩が、ハレの言うツカサ君だよ。もう四年ぐらい前かー。ハレの才能の噂を聞きつけたここの奴が、ハレに勝負を持ちかけてきたことがあったんだよ」
「でも、四年前っていったらハレちゃん小学生じゃないの?」
「だから相手も舐めくさってたわけ。小学生なんてズタボロにしてやるわって。けど、ハレは勝負に勝ってしまった」
「うそっ」
驚いてユリノは目線を下へ落とす。うりうりと頭をユリノの胸に押しつけてくる、この小柄で元気で甘えん坊で大食漢のハレは、そんなことができるような人間には、とうてい見えない。
「それが嘘じゃないから参るのよ。当然負けた相手は逆ギレ。手順を無視して怒りにまかせて国語力を発動させた結果、それが暴走。ハレを庇った夜霧先輩がその呪いを受けてウサギになったってわけ」
ハレはそれを自分のせいだと思いこんでいる。どう考えても、非はあのとき勝負を持ちかけてきた相手のほうにあるというのに。
「そうだったの……」
ユリノはいっそう強くハレを抱きしめた。ユリノの柔らかい体を堪能しながら、ハレがジト目でマツリをみる。
「なに?」
「結局マツリちゃんが全部説明したじゃん……。じゃあ最初っからマツリちゃんが言えばよかったじゃん。なんでボクに説明させたの……」
「なに言ってんの。あたしは美空語を訳しただ・け! アンタの説明は説明じゃないからね」
「ムキー! そんなことないもん! ね、ユリノちゃん!」
「そうね。話してくれてありがとう、ハレちゃん。辛かったと思うけど」
「ほら!」
ドヤ顔をするハレだったが、ユリノの返事はちょっと方向が違ってはなかっただろうか?
「……まあ、いいか。それよりハレ、アンタ肝心のここに来た目的教えてないじゃん」
「あ、そっか」
「目的?」
小首を傾げるユリノに、ハレは体を起こして彼女の目を覗き込みながら胸を張った。
「あのね、ボクの目的は、この学校でテッペンをとることなんだ!」
「えっ!? ハレちゃん不良になるの!?」
「ブフォ!」
横で聞いていたマツリがお茶を吹き出した。
「ふ、不良って……! はははっ! ハレがこの学校シメて頂点に立つって? あははははは! ちょーウケる!」
「ち、違うもん! そういう意味じゃないもん!」
笑い続けるマツリの背中をぽかぽかと叩きながら、ユリノに抗議する。
「この学校で正しい国語力を身につけて、いい成績とって大会で優勝して、国立研究所の優待職員の権利を獲得するの! それでボクがツカサ君の呪いを解くのー!」
「あ、そ、そういうこと……」
ユリノはほっと胸を撫で下ろした。
「でも、ハレちゃんならすぐにそのテッペンをとれるんじゃないの? 才能があるって言ってたし」
ハレは力無く首を振って否定した。
「ボクは国語力を、『間違った方法』で発動してる。だから、いつ暴走するか分からないし、呪いを解くときに失敗しちゃうかもしれない。だから、ボクはこの学校で、正しい国語力を身につけなきゃいけないんだ。でも結局今日はうまくできなかったし、さくらちゃん先生にも怒られた……」
また落ち込み具合がぶり返してきたのか、ハレはマツリの肩に突っ伏しかけた。そのとき、
パッパパパー! パパパパッパパパーンッ!!
突然、ファンファーレが鳴り響いた。ハレ達だけでなく、まだ教室に残っていた生徒全員が何事かと首を巡らす。
「これ、外からじゃない?」
マツリがそう言いながら、グランドに面した窓を開けて、身を乗り出す。他のクラスメートたちもそれに続く。 さてグランドでは何が行われていたかというと、である。
「阿良々木聡羽!」
「紅羽!」
「蒼羽!」
「三人揃って!」
『風紀委員風輝璃隊!』
男女三人組が芝生のど真ん中でポージングをとっていた。
「…………」
下級部一年の窓の前を一陣の冷えた風が吹き抜けていった。だがしかし、である。それは一年組だけのようだった。
「いよっ! 待ってました!」
「三養一のイケメン美女!」
「サトハ様ー!」
「アオバくーん!」
「クレハさーん! 踏んでくれー!」
「お前たち、全員揃って今日はどこへ行く⁉」
わいのわいのの大騒ぎである。一部変な言葉が聞こえたが、これではほとんどアイドルと変わらない。
「どこへ行くかだって? それは風まかせ波まかせ、なぜなら我らは自由の旅人なのだから!」
『イエェェェイ‼』
真ん中に立っていた男子生徒が片手を振り上げれば、そのまわりにいた生徒たちが、さらには教室や食堂の窓から身を乗り出していた生徒たちが、彼にあわせて雄叫びを上げた。男女を問わずである。
「いええええい!」
「うおああああ!」
「わあああああ!」
そしてここでは、ハレやネムやアヤナも、同じく両手を振り上げて盛り上がっていた。
「……なんなの、アレ」
振り返ったマツリが、親指を窓に向けた。
「元気になったハレちゃん」
「そこじゃなくて」
「三養の名物委員会のひとつだよ。上級部二年生で風紀委員長の阿良々木聡羽先輩と、その妹の下級部三年阿良々木紅羽先輩、そのさらに弟で下級部二年の阿良々木蒼羽先輩だったかな」
さすがは学級委員長である。アサトが、一人一人指差しながら答えた。
サトハの金色の長い髪はさらさらと風に揺れて涼しげな音を奏で、紫の瞳には知性の光が灯る。百八十を超える身長も相まって、その姿は雄々しいライオンのようだと讃えられている。クレハは肩口で切りそろえられた燃えるような赤毛を持つすらりとした美女だ。つり上がったの赤い瞳には猛々しい情熱の火の手が上がり、スカートから伸びた白い足の肌は瑞々しい。アオバの青い髪は逆立って固められ、金色の瞳には無邪気さとともに獰猛さも見え隠れしていた。サトハのような落ち着きはないが、少年のような底なしの体力と元気が魅力的だ。
「風紀委員なのに、あの派手な髪色はいいの?」
「いや、あれ地毛らしいんだ」
「あの変なノリは?」
「……そのあたり手厳しいよね、春野さんって」
肩を落として苦笑いだ。そこで、まだ少し興奮気味なハレがマツリの袖を引っ張った。
「ね、ね、マツリちゃん! あの人たちカッコイイよね! ボクも風紀委員に入ったらあれできるのかな?」
「え? いやー、どうだろ。あの人たちって兄弟でしょ? そこにあんたが入るのってできるの?」
「ええー。じゃあボクがあの人たちの妹になったらできるの? ボクもあの『風紀委員かざきりたい!』ってやりたいー!」
「おじさんが泣くよ、それ。……そういえば、なんで『かざきり』?」
「風切羽じゃないかな。あの人たちって、みんな名前に羽ってつくらしいから」
「へー」
「ちなみに字面は、普通の『風』に、輝くの『輝』に、瑠璃の『璃』だから」
「なんだそりゃ! 族?」
明かされた驚きの当て字にマツリは思わず仰け反った。
「族ってあれ? 万葉仮名を真似したみたいなやつのこと?」
「そうそう。『夜露死苦』とかね」
「あ、サトハ先輩の専攻は万葉集らしいよ」
「だからなの? だからそんな当て字つけてるの? なんなの、バカじゃん!」
「マツリちゃん、先輩だよ?」
「本人を前にして言ってるわけじゃないよーだ。けどさ、その風紀委員があんなところで何してんの?」
もう見飽きたのか、マツリは自分の席に戻るとユリノがくれたマドレーヌを食べ出した。
「たしかに、言われてみればそうかも。なんでだろうね」
ユリノも首を傾げながら、自分がさっきまで座っていた席に戻ってきた。その隣の机にもたれながら、アサトが委員会からの公示を思い出しながら答えた。
「たぶん……見回りじゃないかな。最近、一般の高校生たちが国語力使って暴れているらしいから」
「あーなるほど、そういう……」
チラッと二人してハレのほうを見る。せっかく元気になったのに、また思い出して落ち込んでは可哀想だ。しかし幸いにも、ネムとアヤナと一緒になって盛り上がっていて、アサトの言葉は聞こえてないようだった。
「大丈夫だよハレ! 風紀委員に入れなくても、私たちで作っちゃえばいいんだよ!」
「賛成! かっこいいのにしよー!」
「わーい! するするー!」
盛り上がっている方向がおかしいと思っても、ツッこんではいけない。ハレが楽しければいいのだから。……いいのだけれども。
「三人寄れば文殊の知恵ってよく言うけどさ。あの子ら単細胞が三人集まっても多細胞には絶対ならないよね」
良くも悪くも素直なマツリとしては、何か一言ぐらい言ってやりたいものだ。
「マツリちゃんって、ホント厳しいところ厳しいよね……」
ユリノとアサトは渇いた笑い声を隠せないのだった。




