【四・見えるが見えずに見えずに見えた】&【五・見えない笑顔】
【四・見えるが見えずに見えずに見えた】
昼過ぎ。ことりと井頭はリターンマッチのため、必要なものを買い、台村家の別荘を訪れた。台村夫妻や神楽は、泊まったビジネスホテルで待ってもらっている。
「さてと」
井頭は台村家の別荘を見た。窓ガラスが何枚か割れているが、それは昨日の騒ぎによるものだ。
辺りでは小鳥がさえずり、林の中から兎の姿が見えた。
「景色だけ見ると平和だな。嵐の前の静けさってやつかな」
「嵐って、後かたづけが大変なんだよね。ゴミがいろいろ飛んでくるし」
えらくずれた、かつ生活じみたことりのコメントが返ってきた。
「本当に大丈夫なんだろうな。なんなら、俺も一緒に行くが」
「大丈夫だって。昨日みたいにただ突っ込むわけじゃないんだから。それに、あたしはこれでもプロなんだから。だーりん抜きでもちゃんと出来るよ」
三枚の霊板を取り出すと、
「(前略!)生まれ出でよ。へっぽこ式神トリオ!」
ぴょんの助、タカの丸、たぬ金太をまとめて創り出す。
別荘を見た途端、昨日の記憶がよみがえったのか、ぴょんの助が固まった。
「ぴょんの助、しゃんとしなさい」
言われて動きだしたものの、ぴょんの助は震えたままだ。
「大丈夫か、おい」
また聞く井頭。何回聞いても不安は消えない。
「大丈夫だって。だーりんはちょっと離れてて。式神が霊板に戻っちゃうから」
「へいへい」
気のない返事をしながら下がる井頭。道路を見る。車の姿はない。
「いい、今回は作戦があるの」
買い物袋から彼女が取り出したのは、鈴と太鼓と香水だった。
「ぴょんの助は鈴を持って、たぬ金太は太鼓ね。いい、別荘に突入すると同時にそれを思いっきり鳴らすの。音で楓ちゃんを攪乱するんだから。で、タカの丸はこれ」
香水を何種類も次々と振りかける。何種類もの香水が混ざり合った匂いは悪臭以外の何物でも無い。たまらず咳き込むタカの丸。
たまらずことりも鼻をつまんで下がった。
「おい、こっちまで匂うぞ!」
井頭も悲痛な声を上げた。
「これだけ強力なら大丈夫。タカの丸は楓ちゃんの嗅覚を混乱。とにかく室内を飛び回って匂いをまき散らして。
音と匂いを封じてしまえば、楓ちゃんがあたしを探知するのは困難になるわ。その間に、あたしは彼女の魂体を見つけるから」
井頭にVサインを出し、きっと別荘を見据える。どうやら、昨夜の話に出た別荘魂体説は忘れているらしい。もっとも、その可能性はほとんど無いと井頭は思う。別荘自身が魂体なら、井頭が別荘に入った時点で楓に影響が出るはずだ。
「いくわよ。突撃ーっ」
進軍ラッパでも聞こえそうな中、ことりとへっぽこ式神たちが別荘の中に突入する。
腕を組み、じっと別荘の様子を見守る井頭。昨夜に思いついたことは、ことりには言っていない。思いついた仮説について確信を持つには、この作戦の結果を必要としているからだ。
別荘から何か壊れる音が聞こえてきた。壁を叩くような音。窓ガラスが震え、建物全体が震えるように見えた。
「だ~り~ん~~」
そして、ことりの悲鳴。
「た~す~け~て~」
「……やれやれ。またこのパターンか」
ため息をつくと、井頭は別荘へと歩いていく。
「だが、ことりの作戦が通じなかったとすると、やっぱり……」
中に入ると、花瓶に頭を突っ込んだタカの丸が降ってきた。
壁に激突して花瓶が割れると、目を回したタカの丸が床に伸びた。
見ると、ぴょんの助とたぬ金太も家具の下敷きになってもがいている。
階段の上から、物が壁にぶつかる音とことりの悲鳴が聞こえてきた。
「また二階か」
階段を上がると、頭に大きなたんこぶを作ったことりが半泣きで駆けてきた。
「だーりーんっ」
井頭に抱きつく。
(またあんたなの! さっさと出てって。ここを壊させたりしないわよ)
だが、井頭に楓の声は聞こえない。
「だーりん、あたしの作戦、全然通じない~っ」
「やっぱりな」
彼女をそっと抱きしめ、軽く頭をなでる。
「ことり、よく聞けよ。彼女は……楓さんはおそらく目が見える」
「へ? でも、彼女は」
「とにかく聞け。それと、彼女が何か言ってきたら通訳を頼む」
井頭は、見えない楓に語りかけるように叫ぶ。
「楓さん。あんたは幽霊になったその姿を、最初の数人にしか見せなかった。なぜだ。別荘の破壊をやめさせるために脅すにしろ、何かを訴えるにしろ、姿を見せ続けた方が効果的なはずだ。なのに、君は姿を見せなかった。なぜだ?
姿を見せられない理由があるんだ。人は幽霊になっても、生前の肉体の呪縛を受ける。だが、肉体が無くなっているんだから、やはりその影響は生きているときほどではないはずだ。あんたは死ぬと同時に視力を取り戻したんだ。違うか?」
「だーりん、それはありえないよ」
ことりの否定に、井頭は首を振る。
「あり得るんだ。お前も言ったはずだ。肉体の呪縛が大きいほどパワーが増すと。俺の反霊能体質が、効果範囲を狭めるほどに範囲内のパワーが増すように。
俺の効果範囲の広さとパワーの大きさが関係するように、楓さんの霊力と肉体呪縛の大きさは関係するんだ」
「それって、どういうこと?」
「つまり、楓さんは自分のパワーを押さえれば、呪縛を小さくすることができる。パワーダウンと引き替えに、目が見えないという肉体の呪縛から解放されるんだ。その証拠が姿を見せないことだ。相手に自分の姿が見えるほどパワーを上げれば、同時に呪縛の効果も上がり、何も見えなくなってしまうからだ」
「そうかもしれないけど、楓ちゃんがそれに当てはまるとは限らないよ」
「目が見えるという証拠があるんだ。ことりも聞いたはずだ。この別荘の取り壊しを始めようとした時、重機のレバーやらが動いて勝手に動き始めたと。それは、楓さんはどうすればその重機が動くかを知っていたってことだ。どうして知っているんだ。それは、直接、動かしているところを見ていたからだ。レバーなどの場所や、その動かし方を見たからだ。
姿が見えなくなるほどパワーダウンしても、こんなポルターガイストを起こせるんだからたいしたもんだ。おそらく、肉体の呪縛を受けるか受けないかというギリギリの境を見つけるため、かなり練習したんじゃないか。幸いにも、時間はたっぷりあったしな」
「でも、それなら楓ちゃんはどうして幽霊になったの?! 目が見えないって不満や悲しみが無くなったんなら、幽霊になんかなるはずがないよ!」
「そうだ。俺もそれがわからなかった」
井頭は周囲を見回しながら
「幽霊になる原因は未練や恨みという負の感情。そう決めつけていたのが間違いだった。楓さん、あんたを幽霊にしたのは全く逆の感情。喜びだ。そして、それを失うことの恐怖だ」
「だーりん、ごめん。わかるように話して」
ことりが半泣きの顔を向ける。
「お前にわかるようにって、難題だな」
井頭は言葉に迷い
「……レストランで、とてもおいしそうな料理が出てきて、目の前に置かれた。さあ食べようと言うときに、襟首を捕まれて、閉店ですと店の外に放り出されるような感じだ」
「えーっ、それやだ。閉店なら、せめて料理を食べてから帰る!」
「それと同じだ。楓さんは、死んだものの、目が見えるようになって喜びの絶頂にいた。そこへ魂を成仏しようという力が働いた。見えるようになった目を失うのを恐れた彼女はそれを拒絶したんだ。つまり、彼女が幽霊になった原因は死ぬ前でなく、死んだ後になって生じたんだ。生前の彼女と、幽霊になった彼女のイメージが大きく異なるのはそのせいだ。目が見えるようになって、楓さんは視力を失う以前の明るさを取り戻したんだ。台村さんも言ってただろう。幽霊になった楓さんは、視力を失う前のようだって」
違うかというように室内を見回す。窓から吹き込む風が笛のように鳴っている。
(そうよ)
ことりが驚いて辺りを見回す。それで、井頭にも楓の返事が来たのを知る。
(死ぬと闇の中なんて言うけど、あんなのは嘘よ。少なくとも、あたしは死んだ瞬間に光の世界に戻れたんだから。
体が重くて、息苦しくて。いくら呼んでも叫んでも笛を吹いても悦代さんは来ないし。これで死ぬんだって思った時、泣きたかったわ。けれど泣く力も残ってない。悔しいって言うより、情けなくって。そのうち、心がすーっと沈んでいって、ああ、あたし死ぬんだって。
力が抜けたその時よ。いきなり目の前に訳のわからない物が現れたの。本当に何これ、ここはどこ、わたしは誰って感じ。そこが自分の部屋だって理解するのにどれだけかかったか。
そのままベランダに出たわ。窓を開ける必要なんて無かった。すーっと通り抜けるんだから。そしてベランダに出た時、目の前に広がるあの景色!
森があって、山があって、青い空。
そうよ、青い空! 青ってこんな色だったんだ! それに気がついた時、あたしがどんな気持ちになったかわかる? もう最高、何でもこいって気分。森を見てこれが緑! 花を見てこれが赤! 雲を見てあれが白! 文字通り飛び回って喜んだわ!
そう、飛び回ったあたしは部屋を見て、そこに一人の女の子が寝ているのを見て……それがあたしだって気がつくのに結構かかったわ。それでやっと理解したの。あたしは死んだんだって。
思わずやったーって叫んだわ。死んだおかげであたしは目が見えるようになったのよ。
もう、嬉しくて嬉しくて。あたしは死んだことを神に感謝したぐらいよ。
ところがよ。色に囲まれて喜んでいると、奇妙な力にひっぱられたの。すっと力が吸い取られるようで、自分の存在が薄れていくのがわかった。今にして思えば、あれが成仏っていうものだったのね。薄れていくといっても、なんだか心地よかったわ。布団の中で、静かに眠っていくような感じ。でも、それと同時に周囲の色も消えていった。
あたしは慌てたわよ。せっかく見えるようになったのにまた消えてしまうなんて。あたしは必死に抵抗して、逆らって、拒絶して、わめいて。……気がつくと奇妙な力は消えていたわ。かわりに周囲には色があふれていた。
あたしは思いっきり喜びまくってから気がついたの。自分が成仏できずに幽霊になったことを。
全然ショックじゃなかった。と言ったら嘘になるわ。特に、まだ自分の死体が部屋に残っているうちは。それでも、ずっと白一色の音だけの世界で生きていた頃を考えると、幽霊の方がずっとマシに思えたわ。あたしの死体も数日で片付けられたし。さすがに燃やされちゃったんだ。火葬されて、もうあたしの体はこの世にないんだって思った時は寂しかったけどね。
不満があるとしたら、この別荘が封鎖されて無人になってしまったことと、遠くに行けないことぐらい。せいぜい、別荘の庭ぐらいまでしか行けないの。本当はもっといろいろなところを見たいのに。外国の町や海が見たいのに。電気が切られたみたいで、テレビも映らないしラジオも聴けない)
ことりは知っている。それは魂体がこの別荘にあるからだ。幽霊は、浮遊霊のような例外はあるが、基本的に魂体から遠くには行けないのだ。
(それでもあたしは嬉しかった。楽しかった。季節の変わるのが、花が、空が、木々が変わっていくのを見るのが楽しかった。
久しぶりに人が来たとき、興味津々で話を聞いたわ。その中身がこの別荘を壊す事だってわかった時、あたしがどんな気持ちになったかわかる。別荘とその周辺にしか行けないのに、別荘が無くなったら)
「だから、工事の人たちの邪魔をしたの」
(そうよ。だって、幽霊の言葉なんて誰が守るっていうの。死んだ人間より、生きている人間の方をみんな大事にするじゃない。中には幽霊なんかいないって人もいるわ。そんな中、あたしがとる方法が他にあるって言うの?
実際に人の前に出たときは、向こうも驚いたでしょうけどあたしも驚いたわ。あたしの姿を相手に見せた途端、あたしは何も見えなくなったんだもの。
そうよ。あたしの姿が人に見えるようにすると、あたしは何も見えなくなるの。生きていた時みたいに。でも、人の目には見えないぐらいおとなしくしていれば、あたしは目が見えるようになる。
連中の邪魔をするために、その境目を必死で見つけたわよ)
「もう、邪魔なんかする必要はないよ」
ことりが叫ぶ。
「あたしがいるんだから」
(あんたがいてどうなるって言うのよ。あんただって、あたしを消滅させるために来たくせに)
「消滅じゃなくて浄霊とか成仏って言ってよ」
(同じ事よ! あたしは成仏なんかしないから!)
周囲のものが浮かび上がる。
井頭が気合いと共に反霊能体質の効果範囲を瞬間広げる。浮かんだ物が反霊能パワーの波にのまれて床に落ちた。
「ありがと、だーりん」
反霊能体質の効果範囲が再び狭めると、再びことりは楓との交渉を始める。
井頭は周囲の動きに注意する。楓と交渉するためには、ことりは反霊能体質の効果範囲の外にいなければならない。しかし、それは楓の攻撃を受ける可能性がある。それを感じたら、今のようにパワーを放出して楓の攻撃を無効化しなければならない。
「そりゃあ、目が見えるようになって嬉しいのは分かるけど、台村さんや悦代さんは苦しんでいるんだよ。自分のせいであなたが幽霊になったんじゃないかって」
(父さん達は関係ないわよ。そう言えばいいじゃない)
「ダメだよ。台村さん達は、自分たちのせいだって思いこんでいる。どんな説明したって心の底から安心できない。楓ちゃんが成仏しない限り、ずっと自分を責め続けるよ」
(そこまで責任は持てないわよ。勝手に自分のせいにして、勝手に悩んでいるだけじゃない。そんなことまであたしのせいにしないで! とにかく、あたしは成仏なんてしない。したくない!)
「成仏しないとずっとこのままだよ。何十年も何百年も……それでもいいの?」
(かまわないわ。だいたい、どうして成仏しなきゃいけないのよ。あんた達の満足感のために成仏するなんてまっぴらよ。それにあんた、幽霊にとって成仏がどういう事なのかわかっているの。消えるのよ。自分の存在がなくなっちゃうのよ! 死んだ上、消えて無くなるなんて、あたしは嫌!)
「それでも……」
ことりは悲しげに視線を漂わせる。
「幽霊は成仏しないとダメなんだよ。成仏しないと……」
(成仏しないと?)
「ごはんが食べられないよ!」
井頭はめまいを感じた。会話の内容は分からないが、このセリフがずれたものなのは分かる。
「ごはんもパンもラーメンもおそばもうどんも、肉も魚も野菜も果物も、ピザもケーキもアイスもお菓子も、みんな食べられないんだよ。何十年も何百年もそんなのが続くなんて、それは不幸なことなの!」
(あんた、幽霊相手に何を言っているのよ)
「ことり!」
井頭はことりを抱きかかえ、
「ここでごちゃごちゃ言い合ってても埒があかない。楓さんの魂体を押さえるぞ。心当たりはあるか?」
「おそらく彼女の部屋! めったに外出しなかっただろうし、あたしが最初に楓ちゃんの気配を感じたのもそこだった」
「場所は?」
「三階!」
井頭がことりを抱えたまま駆けだした。
(やめて!)
楓が叫ぶ。廊下の家財が跳び、突風が起こる。
だが、反霊能体質の井頭に霊力を使った攻撃は全く効果がない。物をぶつけようとしても全く当たらず、風を起こしても彼にはそよ風にすら感じない。
三階への階段を前に立ち止まる井頭。
階段を上ったところに本棚やタンスが置かれ、道をふさいでいた。
舌打ちをする井頭。昨夜の内に置いた物ならば、動かすときについた霊力も消えているだろう。ただ置かれているだけなら、彼の体質でもどうこうできない。
ことりはタンスの隅に空間があるのを見るや、
「タカの丸!」
階下からタカの丸が飛んでくる。
「だーりん、先に行くね!」
タカの丸の背中に乗ると、そのままタンスの横の隙間へと飛んでいく。
すり抜けようとするが、ちょっと幅が足りなかった。ちょうど詰め物をしたかのように、ことりとタカの丸が隙間にぴったり挟まった。
「あ、あれ。抜けない!」
ことりとタカの丸が揃ってもがくが、却って身動きが取れなくなっていく。
「昨日、ごちそうを食べ過ぎたかな。タカの丸、お前、太ったでしょ?!」
懸命に頭を横に振るタカの丸。
頭を抱える井頭。妻のへっぽこぶりは見慣れている彼だが、あまりの情けなさに涙が出てくる。
そこへぴょんの助とたぬ金太がやってくる。
「ちょうどいい。たぬ金太、酔いどれロケット行け!」
たぬ金太が大徳利に口をつけ、ぐっぐっと中身を飲み干す。
酒臭い息を吐くと、かぶった笠が後光のように輝き、体全体が赤くなる。
途端、ロケットのようにかっとび、階段上を塞いでいるタンスや本棚に突っ込む!
激突!
まっぷたつになり廊下に散らばる障害物。その中、たぬ金太は目を回して倒れているが、おかげで上には通路には十分な空間が出来た。
「サンキュー」
通り過ぎる井頭に軽く叩かれ、たぬ金太は霊板に戻る。
一足先に、タカの丸で楓の部屋にたどり着いたことりが、ドアのノブに手をかける。が、
「あれ、鍵がかかっている。ぴょんの助!」
心得たとばかりにぴょんの助がドアにかじりつく。ウサギ型式神であるぴょんの助にとって、木をかじるのは得意技だ。あっという間にノブの周囲をかじり取ってしまう。
扉を開けると、中ではライトやラジオ、食器などが浮かんでいる。
それらが襲いかかるより早く、井頭が己の体質の効果範囲を瞬間的に広げる。ぴょんの助とタカの丸が霊板に戻り、室内に浮かんでいた物が力を失い落ちる。
「気をつけろ。ここが楓さんの本陣だ」
ことりを抱き上げると、部屋にはいる。
力を失っていた物が再び浮かんではぶつかってくるが、一つとして命中する物はない。用意していたのだろう、鍋が襲いかかり、中の熱湯が井頭たちにぶちまけられる。が、それも途中で冗談のように軌道が変わり、彼らには一滴もかからない。
「ことり、どれがそうだ?」
「まかせて。魂体は、たいてい生前に執着というか、愛着というか、思いの込められた物の場合が多いから」
改めて部屋を見回す。落ち着いた茶系と緑系を中心にした床や壁紙。窓際に大きなベッド。その横にはボタンの大きなラジカセと、カセットラック。壁に埋め込まれているボタンは悦代を呼ぶためのブザーだろう。
床には食器を中心に無数の小物が落ちている。元からあったのか、井頭達に対抗する武器として持ち込んだのかはわからない。
棚には様々な盾と小さなトロフィーが飾られている。目が見える頃に賞を取った音楽会や展覧会のものだ。会の時に使ったと思われる笛や絵の道具も置かれている。さすがにこれらを武器にするのは気が引けるのか、綺麗に飾られたままだ。
「確か死んだのは、病気だったよな」
「うん、だから、魂体はあまりみょうちくりんな物じゃないと思う。生前の思いが強かった物とか」
ことりの言葉に井頭もうなずく。
「生前、楓の思いが宿りやすかった物。楽しみにしていたこと。目が見えず、外出もほとんどできない彼女にとって、楽しみだったのは……」
「わかった!」
ことりが叫ぶ
「……俺もわかった」
井頭が笑みを浮かべた。
『あれだ!』
二人同時に指さした。
『あれ?』
これまた二人同時に目が点になる。二人はそれぞれ、別の物を指していた。
ことりが指さしたのは、床に落ちている楓愛用の食器だった。
「何で食器なんだ?」
「だって、楓ちゃんはずっと部屋に閉じこもりっきりだったんでしょう。だったら、楽しみといったら食べることじゃん。あたしも、足を折って入院した時はご飯とお見舞いの果物やお菓子だけが楽しみだったんだよ」
当時の味覚を反芻し、うっとりすることり。
「お前と一緒にするな! 第一、自分の魂体をポルターガイストでぶつけたりするか。割れたらどうするんだ」
それに対し、ことりはちっちっと指をふり
「だーりん、わかってないね。楓ちゃんに、魂体に関する知識があるとは限らないよ。ないなら、知らずにそれをぶつけることはあり得る」
「バカモノ、死んだ後も食器類を部屋に置きっ放しにするか。食事時以外はしまうだろう」
冷めた目をことりに向ける。
「それは台所から持ってきた物だ。魂体だったら、楓さんがわざわざこの部屋に持ってくる必要はない。以前からあるはずだからな」
「お供え物とか」
「供えた物はどこだ?」
周囲を見回すが、食べ物はない。
「……食べちゃったとか」
「幽霊はものを食べられないんだろう」
「……違うみたい……」
ことりの顔が引きつる。
「とすると、だーりんの選んだのが」
井頭の指した物、それは棚にある縦笛だった。後ろには、小学生らしい少女がその笛を持って笑っている写真。子供の頃の楓だろう。
「目の見えない彼女にとって、音は、数少ない、他者とのコンタクト方法だった。それに、自分から音を出すっていうのは、自分から周囲に訴えるってことだ。
台村さん達も、彼女が鳥の声などに合わせて笛を吹いていたと言っていた。そうすることによって、周りとひとつになるような気持ちだったんじゃないか。彼女にとっては、人間よりも身近な鳥や虫の方が親しい存在だったんだ。
楓さんにとって、これは自分から周りに何かを伝える、周りと自分をつなぐ唯一の物だったんだ。死後、こいつが魂体になっても不思議はないだろう」
縦笛に手を伸ばす。途端、
(だめーっ!)
周囲の物が一斉に井頭に向かって飛びかかるが、例によってかすりもしない。
彼が縦笛をつかんだ途端、それらはすべて床に落ちた。それっきり微動だにしない。
楓の声も消え、霊気自体が感じられなくなる。
「消えたか?」
ことりが目を閉じ、周囲の霊力を探る。へっぽこな彼女だが、霊の感知能力だけは本家でも認める超がつくほどの一流レベルなのだ。
「うん。全然感じられない」
それは魂体が井頭の反霊能体質の影響下におかれた証拠でもある。
井頭が縦笛をことりに渡すと、楓が再び力を取り戻す。
(……なんなの、今の……)
「だーりんの体質で、一時的に何も出来なくなったの。姿を見せない幽霊が何も出来なくなるって事は、存在しないも同じだよ。わかったら、おとなしくしなさい」
(いや!)
周囲のものが一斉に浮き上がる。
「わからない奴だな。いつまでもこんな事をしていると、本当に強制成仏させるぞ!」
縦笛を求めてことりに手を伸ばす。
だが、ことりはそれを拒否するかのように縦笛を後ろに隠す。
「ことり、それを渡せ」
「だめ!」
ことりが首を激しく横に振る。
「いいこと思いついた。正に逆転サヨナラ満塁ランニングホームラン、一挙三点って感じ」
「四点だろう」
ことりは井頭を無視するように、楓に向かって話し始めた。
【五・見えない笑顔】
二ヶ月後。井頭夫婦の家にロシアから航空便が届いた。台村氏からだ。
「わーい、なーにかなっ!?」
喜んで荷物を受け取ることり。テーブルにおくと、早速、包装を破り始める。中身は大きめの封筒と二キロ近い缶詰。青い蓋には鮫のような図柄と「Caviar」という文字。
「……カヴィ……アラ?」
「それはキャビアと読むんだ」
井頭が訂正する。
「キャビア! すごいっ。だーりん、キャビアだよ。こんなにたくさん!」
缶詰を手に、ことりは一人居間で踊り始める。
「子供じゃあるまいし、そんなにはしゃぐな」
「だって、あたしキャビアって初めてだもん。まさかだーりん、接待とかで食べたことあるの?」
「いや、ないけど」
「でも、この缶詰の字を読めたじゃない」
「それぐらい読めるだろ」
「あたしは読めない!」と胸を張る。
「読めないことを自慢気に言うな!」
「ま、いいや。さっそく食べよ。こんなにあるんだから、お隣にもお裾分けして」
小躍りすることり。誤魔化そうとしたのか、食欲が勝ったのか。
浮かれる妻を尻目に、井頭は封筒を取る。
中には数枚の写真と台村夫妻からの手紙が入っていた。
『拝啓、井頭勇太郎、ことり様
楓の一件以来、心ならずもご無沙汰いたしまして申し訳ございません。改めて、厚く御礼申し上げます。
あの日以来、私どもはお二人の言葉に従い、日々を送っています。
今、私たちはカスピ海に来ています。今回は仕事抜きでの海外ということで気兼ねなく観光が出来、楓も満足しているようです。
正直、別荘から戻られましたお二人から楓は成仏させないと聞いたときは驚きました。それでは一生、楓が、私たちが苦しむことになると思いました。
でも、それは私どもの思い過ごしでした。いえ、思い過ごしどころか、お二人は楓にとっても私どもにとっても理想的な解決法を掲示してくださったのです。
楓が成仏できない原因は、死ぬと同時に目が見えることになり自分の世界が広がったことの歓喜と、それが消える事への恐怖によるもの。だから、楓が満足するまで世界を見せてあげればいい。目が見えることが特別なことと感じなくなるぐらい。そうすれば、楓は自然に成仏すると。
こうして始まった楓に世界を見せる旅。仕事で出張する度に、休暇で旅行する度に、楓の笛を持参しています。出られない時は各地の観光案内を置いたり、テレビの旅行番組などをつけっぱなしにしています。
最初は正直、不安でした。ですが、最近はこの旅行が楽しみになりました。私たち夫婦と楓と、三人の旅行が今は楽しくてしようがないのです。楓もこの旅行が気に入っているようで、はしゃぐあまり、ポルターガイストというのですか、つい物を動かしてしまうほどです。
先日、楓が姿を見せてくれました。姿を見せることは、楓にとってはまた目が見えなくなることを意味します。ですが、見えないことがどんなにつらいかよくわかると、私どものために姿を見せてくれたのです。
それがどんなに嬉しかったか。ああ、私どもではそれをうまく書き表すことが出来ません。ただ、感謝の言葉を書き連ねるばかりです。
ありがとうございます……』
手紙はそれから、カスピ海に来るまで回った観光地の感想、そこで楓が起こしたちょっとした騒動などが書かれている。
同封してあるのは、カスピ海を背景にした台村夫妻のスナップ写真。まるで新婚旅行のように二人は笑顔で溢れている。
それを見ながら、井頭の顔は自然にほころんでいた。
「だーりん。キャビアって、どうやって食べるんだか知ってる?」
缶詰を手にことりがやってくる。
「いや、食ったこと無いから。そうそう、イクラやタラコと同じような食べ方が良いとか聞いたことがあるぞ」
「じゃあ、手巻き寿司とかお茶漬とか。それとも、醤油漬けにして、どんぶり飯に乗せる?」
「そうだな。量はあるし、一通り試してみるか」
うきうきと二人が買い物の準備を始める。
ことりがテーブルに投げ出されたままの手紙と写真を手にして微笑んだ。
「ねえ、この写真……」
言いかけてやめる。
「……だーりんには見えないんだっけ」
「何してんだ。行くぞ」
玄関から聞こえる井頭の声に、ことりは返事をすると、寂しげに写真を置いた。
カスピ海を背景にした台村夫妻のスナップ写真。
二人の前には、半透明の楓が笑顔で写っている。
(終わり)




