6.アフロディテに愛された王
王女が亡くなって以来、王様は気難しい顔をしてばかりで笑わなくなりました。
前よりも勉強にはげみ、仕事も次々とこなしました。
しかし王様の心はどんどん孤独に、どんどん閉ざされていきました。
王様は一人、夜に空を見てはたまらない気持になります。
それは王女と出会う前には、なかった気持ちでした。
そんな王様の前にある日、若い賢者が現れました。
「私は愛を語れない」と言った、あの若い賢者です。
若い賢者は王様に尋ねます。
「王よ、愛とはいったいどんなものですか?」
王様は若い賢者をにらみつけました。
「愛とは人を悲しませるものだ」
いつもは人が沢山いる王の間から、こつぜんと人が消えました。でも王様はそのことを、なぜか不思議に思えませんでした。
若い賢者が、再び王様に尋ねます。
「民を導く王よ。愛とはいったいどんなものですか?」
王様は、不機嫌を隠さずに答えます。
「愛とは人を苦しませるものだ」
若い賢者は、また王様に尋ねました。
「我が賢明なる王よ、愛とはいったいどんなものですか?」
王様は席から立ち上がり、どなりました。
「愛とは、裏切られるものだ!」
しかしそれでもなお、若い賢者は王様に尋ねるのです。
「我が愛しき王よ、愛とはいったいどんなものですか?」
王様は剣をさやから抜きながら若い賢者に歩み寄り、叫びます。
「愛とは! 愛とは! 私がなくしたものだ!」
すると若い賢者から光が溢れ、やがて一人の女神に変わりました。
愛の神、アフロディテです。
アフロディテは王様が母親を知らず、愛を知らずに育ったことをふびんに思っていました。そこで若い賢者に姿を変え、王様を見守っていたのです。
アフロディテの光を浴びると、王様は我に返りました。剣をさやに収め、ゆっくりと大理石の床にひれ伏します。
「あなたが愛を語れないと言ったのは……まさにあなたが、愛そのものであったからなのですね」
アフロディテはほほえみ、頭を上げるように言いました。
「王よ、あなたは誰よりも愛が深かったために、誰よりも愛に苦しめられました。私は愛の神であるがゆえに、愛の苦しみからあなたを救ってあげることができます」
王様は驚きながらも、おずおずと頭を上げてアフロディテに尋ねます。
「それは……どのような方法なのですか?」
「私は、あなたから愛の記憶を消すことが出来ます。あなたは王女との記憶をすべて忘れ、苦しみからも解放されるのです」
王様はその言葉を聞き、目を丸くしました。
「しかしそうすると、王女の魂は永久に冥界に留まることになります」
王様は再び頭を下げました。
ピカピカの大理石には、王様の悩ましげな顔が映っています。
「それでは王女があんまりだ。アフロディテ様、王女の魂を冥界から救う手段はないのでしょうか?」
王様が顔を上げて尋ねると、アフロディテは美しい顔で王様をじっと見た後に答えました。
「あなたがその苦しみを背負って生きるのであれば……王女の魂を冥界から救うことができます。ハデスはなによりも、苦しみを好物とする神です。私がハデスと取引をして、あなたの苦しみを担保に、王女の魂を救ってあげましょう」
アフロディテにそう言われた王様は、何も言えなくなりました。
その決断は、王様には重すぎたのです。
王女との日々のことを考えると、胸が痛くなりました。
王様はそれからしばらく腕を組んで、じっと考えます。
そしてアフロディテを、泣きそうな顔で見て言いました。
「私はまだ……人生の半分も生きていません。それにも関わらず、生涯をつらぬくような悲しみを負ってしまいました。アフロディテよ! どうか私の記憶を消してください! 愛の苦しみから私をお救いください!」
アフロディテは少しだけ悲しい顔をした後、王様にうなずきました。
「私の愛しい王よ! 人間の弱さをも私は愛します。さぁ下を向きなさい」
アフロディテの手から光が溢れます。その手が王様の頭に触れると、王女の記憶は王様から永遠に失われるのです。
王様は下を向き、記憶が消えようとする間際。
自分でも分からない気持ちになり、気付くと叫んでいました。
「そうだ! 私は、王女など……愛していなかったのだ!」
そのとき、大理石の床に嘘をついている目をした男の顔が映りました。
誰だ! 神様を前にして嘘をつくようなやつは!
王様はその嘘つきを、ぎらりとにらみました。
するとその嘘つきもまた、王様をにらむのです。
そこで王様は、はたと気が付きました。
「待ってください! アフロディテよ! 待ってください!」
――そうです。
その大理石に映る男こそ、他の誰でもない王様だったのです。
王様の叫びに応え、アフロディテは手をひっこめました。
「安心なさい王よ。まだ記憶は一片たりとも消えてはいません。しかし、いったいどうしたのですか?」
王様は、自分の体を抱きしめて答えました。
「苦しい! 悲しい! この苦しみも悲しみも……まぎれもなく私のものです! しかし、しかし! 私は王女を愛していたのです! いや、愛しているのです! もう二度と手を握ってくれなくてもいい! 私を抱きしめてくれなくてもいい! それでも、それでも……私は王女を愛しているんです! アフロディテよ、お願いです! 私はこの苦しみを背負って生きていきます。だから、だから……王女の魂を冥界から救ってください!」
すると王の間に、光が溢れました。
王様はまぶしくて、目を開けていられません。
「愛しき王よ。夢の中にて答えを待ちなさい」
王様が再び目を開けると、アフロディテの姿はそこにはありませんでした。
また不思議なことに、さきほどまで誰もいなかった王の間には、今は当たり前のように沢山の人が並んでいます。
王様はそれから夢の中で、アフロディテが現れるのを待ちました。しかしアフロディテは、直ぐには現れませんでした。
それでも王様はアフロディテを信じて仕事と勉強にはげみ、胸の痛みを隠しながらも、また笑うようになりました。町や王宮で暮らす人は、そんな王様の姿を見て安心しました。
そして、それから半年が経つころ……。
王様はついに、アフロディテと夢の中で出会ったのです。