石と悪いお月様
とある遠い世界のお話。
そこには、なんてことのない、ただの石たちが暮らす場所がありました。
石たちは、何百年ものあいだ、互いに寄り添いながら暮らしていました。雨の日には窪みに溜まった水を分け合い、風の日には身を寄せ合い、時には互いの身体を心配しながら、穏やかに生きておりました。
ただ、そんな石たちには、ひとつだけ、どうしても耐え難い災いがありました。
それは、彼ら石たちを見下ろすお月様でした。
お月様は、毎晩、空へ昇ります。
ただ空を照らすだけなら、誰も恨む石などおりません。
しかし、石たちが暮らす野原の中央には、大きな湖がありました。
月が湖面に姿を現すと、とても不思議なことが起こるのです。
湖面に映る月は、ただの影ではありません。そこでは、夜空に浮かぶ月が水面に顕現し、湖の底から白銀の光を放つのでした。それはそれはとても美しい光でした。
しかし、その光を浴びた石たちは、身体の内側から少しずつ熱を奪われてくのです。身体から熱を奪われてしまった石たちは、細かなひびが走り、長年寄り添っていた石たちから、見えない力に引き剥がされるように離れていくのでした。
そして、石たちが苦しむほど、お月様は美しく輝くのでした。
「見よ。今宵の私は、なんと美しい姿をしていることか」
お月様は、湖面に映る姿を眺めては、高慢に笑いました。
「お前たちは、水面に映る私の美しさをいっそう引き立てる。お前たちは全員、私のために服従する存在なのだ!」
当然、石たちは嘆き、怒りました。
一方で、老いた石は「私たちは石ころで、あいつはお月様なんだから。そう怒ったところで仕方がないのさ」、そう語り、仲間の石たちにも諦めるよう諭しました。
けれど、その言葉にどうしても頷けない石もおります。
その石は、特別に強いわけでも、際立って賢いわけでもありません。ほかの石と比べて大きいこともなく、何か特別な力を持っているわけでもありません。
ただ、仲間たちが苦しんでいるのを見るのが、辛かったのです。
ある晩、彼の隣にいた石が、月明かりを浴びてついに砕けてしまったのです。
昨日まで、くだらない話をして笑い合っていた仲間でした。
その石は、しばらくその場から離れることが出来ませんでした。
どうして、こんなことに。
どうして、あんなやつに。
何を考えても、答えは見つかりませんでした。けれど、湖の向こうで笑うお月様が消えることはありません。
石は声にならない怒りを叫び、湖へと向かいました。
空に浮かぶ月を砕くことなどできないことは、石にも分かっておりました。
それでも、あのお月様が湖に姿を現すのなら、その姿を乱してやりたかったのです。
石は湖のほとりまで転がりました。何度も小石につまずき、斜面を滑り落ち、身体の表面を削りながら、それでも湖へ向かいました。
やがて、水面に月が現れました。
白銀の光が湖底から湧き上がり、冷たい輝きが石の身体を包みました。身体の内側が凍りつくようでした。ひびが走り、痛みが広がり、身体がばらばらになってしまいそうでした。
そんな中、石は、湖へ飛び込みました。
ぽちゃん。
水面が揺れました。
月の姿が歪み、湖底から湧き上がる光が一瞬の間、乱されれたように見えました。
石は必死に岸へ這い上がりました。身体は濡れ、あちこちが欠けておりました。
それでも、石は再び湖へ向かいました。
ぽちゃん。
水面が揺れました。
ぽちゃん。
また揺れました。
何度も、何度も。
石は転がり、ぶつかり、砕けそうになりながら湖へ飛び込みました。上手に飛び込めるわけではありません。水面に届かず、岸にぶつかることもありました。
それでも石は、やめませんでした。
ただ、辛かったのです。
悔しくて、腹が立って、悲しくて、どうしようもなかったのです。
再び、石は湖へ飛び込みました。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
やがて石の身体は、見る影もなく小さくなっておりました。
かつては隣の石と肩を並べていた身体も、今では砂粒ほどしかありません。
それでも石は、飛び込むのをやめません。
水面には、今宵も美しい月が映っておりました。
お月様は言いました。
「そんなことをして何になる?お前は何もできぬ。私を砕くことも、消すこともできぬ!たとえお前が死のうとも、私に傷一つつけることすら出来ぬのだ!」
石は、月を見つめました。
自分が死んだところで、月は空に浮かび続けるでしょう。仲間たちの苦しみも、以後ずっと続くのでしょう。
水面の月をかき乱したとて、月を砕くことなどには至りません。
だから、石は、最後の力を振り絞って、湖へと飛び込みました。
ぽちゃん。
月の姿が、ほんの一瞬だけ歪みました。
それきり、石は二度と浮かび上がってきませんでした。
翌朝、湖のほとりには、何事もなかったかのような静けさが戻っておりました。
石たちは、昨夜あった彼の出来事について知りました。
ある石が、語りました。
「月を砕くことはできなくとも、あいつは最期まで戦っていたのだ」
その言葉を聞いて、頷く石もおりましたが、そうでない石もおりました。
「そんなことをしたとて、まったく意味もない。ただ愚かな奴だったな」
その石は、湖面に映る月を眺めながら言いました。
「自分の命を捨てて、何が変わったというのか? 月は今も空にある。私たちの苦しみも、あいつの命と引き換えに、何ひとつも終わってはいないではないか」
別の石が頷きました。
やがて、長い年月が過ぎました。
月は変わらず姿を現し、石たちは苦しみ続けていました。
あの石を語り継ぐ者もいれば、とうに忘れてしまった石もおりました。
彼を勇敢だと称える石も、愚かな石だと嘲笑う石もおりました。
けれど、誰もひとつだけ、決して否定できないことがありました。
あの夜、お月様は確かに乱されていたということを。
どれほど美しく輝こうとも、どれほど冷たい光を浴びせようとも、あの夜、確かにその姿はかき乱されていたのです
空に浮かぶ月は、何ひとつ変わらぬ姿で、今宵も世界を見下ろしております。
小さく、脆く、なんてことのない、ただの石たちを。
ですが、そんなお月さまは知っています。
いくら無駄なことだと知ろうとも、たとえ自分の命を賭そうとも、その運命に抗い続ける石が、この世界に確かに存在していたということを。




