悪魔様は(定時で)帰りたい
おばの遺品整理をしていた高橋奏は、古びたノートを一冊見つけた。
「……なんだろ、これ」
表紙には何も書かれていない。
けれど、開いてみると、中には見たこともない文字と、不気味な円形の模様がびっしりと描かれていた。
その中央に、妙に大きな文字でこう書かれている。
『悪魔召喚陣』
「へえ。おじいちゃん、こういうの好きだったのかな」
奏は深く考えず、そのページを指でなぞった。
瞬間。
ボンッ!
「うわっ!?」
黒い煙が部屋いっぱいに広がった。
煙の向こうから、小さな影が現れる。
赤い目。
黒い角。
蝙蝠のような翼。
そして、十歳くらいにしか見えない、小柄な男の子。
彼は腰に手を当て、得意げに叫んだ。
「我が名はルシフェル! 偉大なる魔界の悪魔にして、数々の契約を成功させてきたエリート悪魔だ!」
「……かわいい」
「第一声それ!?」
ルシフェル、通称ルシィは頬を膨らませた。
「僕は子どもじゃない! 魔界では立派な社会人だ!」
「社会人」
「そう! しかも魔界の超優良企業に勤めている!」
ルシィは胸を張った。
「福利厚生完備! 有給休暇あり! 残業代あり! 週休二日!」
「悪魔の会社って、そんな感じなんだ……」
「そして今日は定時退勤の日!」
ルシィは懐から懐中時計を取り出した。
現在、午後三時。
「あと二時間!」
「何が?」
「僕が魔界に帰れるまで!」
ルシィは奏の前にビシッと指を突きつけた。
「さあ、契約者! お前の魂と引き換えに、どんな願いでも叶えてやろう!」
「うーん」
奏は腕を組んだ。
「特にないかなぁ」
「…………は?」
「願い事」
「いや、聞こえたけど」
ルシィの笑顔が固まった。
「もう一回言って?」
「特にない」
「…………」
沈黙。
ルシィはゆっくり時計を見る。
午後三時一分。
「まずい」
「何が?」
「契約が成立しない」
「そうだね」
「僕、帰れない」
「そうだね」
「あと一時間五十九分しかない」
「うん」
「残業手当は出ない契約なんだよ!」
「そこ重要なんだ」
こうして、ルシィによる『契約者に願い事をさせる大作戦』が始まった。
「フォーメーション1!」
ルシィが指を鳴らす。
空中に、奏の学校のテスト用紙が浮かび上がった。
「次のテスト、百点にしてやろう!」
「え、できるの?」
「もちろん!」
ルシィはニヤリと笑う。
「魔術で答えを教えてやる。これで成績アップ間違いなし!」
「でも、それカンニングじゃない?」
「…………」
「自分で勉強するからいいや」
「なぜだぁぁぁ!」
ルシィ、撃沈。
「フォーメーション2!」
今度は机の上に、巨大な皿が出現した。
黒紫色のソース。
角のように伸びた飾り。
紫色に発光するクリーム。
「魔界最高級スイーツ!」
「すご……」
「一口食べれば、もう人間界のスイーツには戻れないぞ!」
奏は恐る恐るスプーンを入れる。
「いただきます」
ぱくっ。
「……おいしい!」
「だろう!」
ルシィが胸を張る。
「これは魔界の一流パティシエが――」
「じゃあ、お礼にこれあげる」
「?」
奏が取り出したのは、コンビニの肉まんだった。
「半分こしよ」
「…………肉まん?」
「うん。おいしいよ」
「僕、悪魔なんだけど」
「知ってる」
「魔界の最高級スイーツを食べた直後なんだけど」
「知ってる」
「それなのに、肉まん?」
「半分こ」
「…………」
ルシィはしばらく肉まんを見つめた。
やがて、小さく一口かじる。
「……」
「どう?」
「……あったかい」
ぽつりと呟いた。
それから、もう一口。
「……悪くない」
「よかった」
「べ、別に気に入ったわけじゃないからな!」
「そっか」
「本当に!」
「うんうん」
奏は笑った。
その笑顔を見て、ルシィはなぜか少しだけ胸がむずむずした。
時計を見る。
午後四時五十八分。
「……まずい」
「?」
「あと二分」
「何が?」
「定時!」
ルシィは慌てて立ち上がった。
「まだ契約が成立してない! このままじゃ僕は残業だ!」
午後五時。
時計の針が重なる。
そして。
学校から聞こえてきたチャイムが、静かな部屋に響いた。
キーン、コーン、カーン、コーン。
「…………」
ルシィは固まった。
「ああああああああ!」
頭を抱える。
「僕のノー残業デーがぁぁぁ!」
「そんなに?」
「魔界では定時退勤は命より大事なんだ!」
「悪魔なのに?」
「悪魔だからだ!」
ルシィが半泣きになった、そのとき。
奏がふと思いついたように言った。
「じゃあさ」
「……?」
「今日の願い事、これにしよっか」
ルシィが顔を上げる。
「明日も十六時にここに来て、一緒に肉まんを食べる」
「……」
「それなら、契約の時間も短くて済むでしょ?」
ルシィは目を丸くした。
そして。
みるみる顔を赤くする。
「な、ななな……!」
「?」
「そんな願い事、反則だろ!」
「え?」
「……仕方ない!」
ルシィはそっぽを向いた。
「契約者がそこまで言うなら、明日も来てやる!」
「ほんと?」
「十六時ジャストだ!」
「うん」
「遅刻するなよ!」
「ルシィがね」
「僕は定時を守る男だ!」
ルシィは胸を張る。
その瞬間。
足元に黒い魔法陣が浮かび上がった。
「じゃあな!」
魔法陣が光る。
「また明日!」
「……っ」
ルシィは一瞬だけ振り返った。
「……肉まん、ちゃんと半分残しとけよ」
「もちろん」
次の瞬間、ルシィの姿は煙とともに消えた。
部屋に静けさが戻る。
奏は時計を見る。
午後五時ちょうど。
「……定時、守れたね」
そして翌日。
午後三時五十九分。
奏の部屋の中央に、小さな悪魔が現れた。
「一時間前だけど来た!」
「早いね」
「これは残業じゃない! 自主出勤だ!」
「それ、有給は?」
「……」
「取ってないの?」
「今日は有給じゃなくて休日出勤扱い!」
「それ大丈夫?」
「大丈夫じゃない!」
ルシィの叫び声が、今日も部屋に響いた。
そして机の上には、昨日と同じように。
肉まんが二つ、並んでいた。
翌日の朝。
奏が目を覚ますと、机の上に見覚えのないものが置かれていた。
「……社員証?」
黒いカードだった。
中央には、金色の文字でこう書かれている。
『魔界第一契約管理株式会社
営業部 ルシフェル』
「ルシィの会社……?」
裏返す。
小さな字で、
『本日十六時まで勤務』
と書かれていた。
「……」
奏はしばらく眺めた。
「ちゃんと会社員なんだなぁ」
「そうだぞ!」
「うわっ!」
突然、布団の中から声がした。
奏が勢いよく布団をめくる。
「おはよう、契約者」
「なんで私の布団にいるの!?」
そこには、制服姿のルシィがいた。
「学校に行く」
「……なんで?」
「契約者の願いを探すためだ!」
「昨日から探してるけど、まだないよ?」
「だから今日は一日密着する!」
ルシィは腕を組んだ。
「学校生活には、願いの種が山ほど転がっているはずだ!」
「勝手に転がってないよ」
「例えば!」
ルシィが指を一本立てる。
「テストで百点を取りたい!」
「昨日断った」
「給食を豪華にしたい!」
「高校だから給食ないよ」
「好きな人と両想いになりたい!」
「……」
奏が止まる。
「そういうのも特にないかな」
「くっ……!」
ルシィが頭を抱えた。
「なんて欲のない契約者なんだ……!」
「そうかなぁ」
「悪魔としては商売上がったりだよ!」
こうして。
なぜかルシィは、奏のカバンに忍び込んで学校へ行くことになった。
「……狭い」
「我慢して」
「僕は魔界のエリート社員だぞ」
「カバンの中で偉そうにしないで」
「これは労働環境の改善を要求する!」
「あと十分で学校だから」
「……善処します」
カバンの中から小さな声が聞こえる。
奏は思わず笑った。
学校に着く。
教室に入った瞬間、ルシィがカバンの隙間から顔を出した。
「ここが人間界の職場……!」
「学校だよ」
「つまり、学生という名の労働者が集う場所だな」
「違うと思う」
奏が席につく。
すると、前の席の女子が振り返った。
「奏、おはよ」
「おはよ」
「今日の小テストやばくない?」
「うん。全然勉強してない」
カバンの中からルシィが小声で叫ぶ。
「今だ!」
「何が?」
「願い事だ!」
奏が小声で返す。
「いや、別にいいよ」
「なぜ!」
「自分でやるし」
「契約者ぁ……!」
ルシィは頭を抱えた。
そのとき。
「奏、消しゴム貸して」
「いいよ」
奏が消しゴムを渡す。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ルシィはカバンの中で固まった。
「……」
「どうしたの?」
「今のは何だ」
「何が?」
「願い事を叶えたぞ」
「え?」
「消しゴムを貸してほしいという願い!」
「いや、ただ貸しただけだけど」
「立派な願いの成就だ!」
ルシィは興奮している。
「契約書は!?」
「ないよ」
「魂は!?」
「ないよ」
「報酬は!?」
「ない」
「……」
ルシィの肩が落ちた。
「魔界の営業部でこんな契約を結んだら、始末書三枚じゃ済まない……」
昼休み。
奏が購買から戻ってくる。
今日は肉まんを二つ買っていた。
「……!」
カバンの中からルシィが顔を出す。
「これは!」
「お昼」
「昨日のやつか!」
「うん」
「一つは僕の?」
「そうだよ」
ルシィは嬉しそうに笑った。
けれど、すぐに真顔になる。
「待て」
「?」
「これは契約者からの報酬か?」
「違うよ。半分こ」
「……」
ルシィは肉まんを受け取る。
「じゃあ、これは僕の仕事の報酬ではなく……」
「うん」
「友達として?」
「たぶん」
「……」
ルシィの耳が少し赤くなる。
「そ、そういうのは契約書に書いてないぞ」
「書かなくていいんじゃない?」
「悪魔としては困る!」
そう言いながらも、ルシィは嬉しそうに肉まんを食べた。
そのときだった。
「奏!」
教室の後ろから声が飛んできた。
「放課後、図書室行かない?」
「あ、いいよ」
「じゃあ決まり!」
奏が頷く。
ルシィは肉まんを持ったまま、じっとその様子を見ていた。
「……」
「ルシィ?」
「僕も行く」
「図書室?」
「契約者の願いを探すためだ」
「学校では魔法使っちゃダメだからね」
「分かってる」
「人間を驚かせない」
「分かってる」
「勝手に契約しない」
「分かってる!」
「あと――」
「僕を何だと思ってるんだ!」
ルシィがむっとする。
奏は笑った。
「悪魔」
「……」
「でも、いい悪魔」
「……それは」
ルシィは少しだけ視線を逸らした。
「……悪くない」
午後三時。
授業が終わる。
奏たちは図書室へ向かった。
そして午後三時五十分。
ルシィは時計を見る。
「……あと十分」
「何が?」
「定時」
「まだ十六時だけど」
「魔界まで帰る時間が必要なんだ!」
「じゃあ帰れば?」
「そうしたい!」
ルシィは立ち上がった。
しかし。
「奏、これ一緒に見て!」
友達に呼び止められる。
「うん」
「……」
ルシィは時計を見る。
午後三時五十五分。
「……」
午後三時五十七分。
「……」
午後三時五十九分。
「契約者!」
「なに?」
「明日の願い事を今決めてくれ!」
「急だね」
「僕には定時がある!」
「じゃあ……」
奏は少し考えた。
「明日も一緒に帰る?」
「……」
「それなら十六時までに終わるよ」
ルシィの目が丸くなる。
「……それは」
「嫌?」
「嫌じゃない!」
ルシィは即答した。
そして慌てて咳払いする。
「そ、それなら契約成立だ!」
午後四時。
ルシィの足元に魔法陣が現れる。
「では、僕は帰る!」
「うん。また明日」
「明日はちゃんと十六時に来いよ!」
「ルシィがね」
「僕は時間厳守だ!」
魔法陣が光る。
ルシィの姿が消える直前。
「……奏」
「ん?」
「明日の肉まん……」
「買っとくよ」
「……そうか」
ルシィは満足そうに笑った。
「では、また明日!」
そして。
午後四時ちょうど。
魔界へ帰還。
その日の業務報告書には、こう記された。
『本日の成果:契約者と友達になった。』
提出後。
上司から一言。
『それは契約ですか?』
ルシィは机に突っ伏した。
「……知らないよ!」
しかし。
口元だけは、少し笑っていた。
翌日。
午後三時五十分。
奏が家に帰ると、玄関を開けた瞬間、何かがおかしいことに気づいた。
「……あれ?」
いつもなら静かな家の中から、今日は妙に騒がしい。
「契約者ぁぁぁ!」
「うわっ!」
廊下の向こうから、ルシィが走ってくる。
「どうしたの?」
「大事件だ!」
ルシィは奏の前で急停止した。
「僕の上司から、契約内容の確認命令が出た!」
「契約内容?」
「そう!」
ルシィが一枚の紙を取り出す。
「昨日の業務報告を見た上司が言ったんだ」
「なんて?」
「『友達になった、とはどういう契約ですか?』って」
「……」
「僕にも分からない!」
ルシィは頭を抱えた。
「だから今日は、正式な契約を結ぶ!」
「でも、私、願い事ないよ?」
「そこなんだよ!」
ルシィは紙を机に叩きつけた。
「契約書に記入できる願いがない!」
「じゃあ、無理に書かなくてもいいんじゃない?」
「ダメだ!」
ルシィは真剣な顔になった。
「契約が成立していないと、僕はいつまでも人間界に滞在することになる」
「それは困る?」
「困る!」
「どうして?」
「勤務時間外だから!」
「ああ……」
奏は納得した。
「じゃあ、簡単な願いでいいんじゃない?」
「簡単な?」
「うん」
奏は少し考える。
「今日、一緒に帰る」
「それは昨日の願いと同じじゃないか!」
「じゃあ……」
奏は窓の外を見る。
夕方の空が、少しずつオレンジ色になっていた。
「明日も、明後日も、一緒に帰る」
「……」
「ダメ?」
ルシィは黙り込んだ。
「それは……」
契約書を見る。
そして奏を見る。
「……何日間?」
「え?」
「何日間、一緒に帰ればいいんだ?」
「うーん……」
奏は考える。
「じゃあ、一週間」
「一週間!」
ルシィの目が輝いた。
「それなら契約として成立するかもしれない!」
すぐさまペンを取り出す。
「契約内容!」
ルシィは紙に書き始めた。
『契約者、高橋奏の願い』
その下に、
『一週間、放課後にルシフェルと一緒に帰る』
と書く。
「これでよし!」
ルシィは満足そうに頷いた。
「ただし!」
「まだあるの?」
「重要な条件がある!」
ルシィは真剣な顔で指を立てた。
「帰宅時間は午後四時!」
「早すぎない?」
「僕の定時だからな!」
「学校が終わるのが三時だから、普通に間に合うよ」
「素晴らしい!」
ルシィは嬉しそうに笑った。
「これなら残業なし!」
そして契約書に、二人で指を置く。
「契約成立!」
魔法陣が光った。
紙がふわりと宙に浮かぶ。
赤い光が文字を包み込んだ。
すると。
契約書の一番下に、新しい文章が浮かび上がった。
『契約者の願いを一週間叶えること』
ルシィは満足そうに頷いた。
「よし!」
「これで終わり?」
「ああ!」
ルシィは時計を見る。
午後三時五十九分。
「……」
「どうしたの?」
「まずい」
「また?」
「あと一分!」
ルシィは大急ぎで靴を履いた。
「帰るぞ、契約者!」
「え、今から?」
「契約したんだから、今日も一緒に帰る!」
「でも、家から出てないよ?」
「問題ない!」
玄関を飛び出す。
奏も慌てて後を追う。
「ルシィ、待って!」
「待てるか! 定時が迫ってる!」
「帰るのに走る必要ある?」
「僕にはある!」
二人で走る。
夕方の道を、奏と小さな悪魔が並んで歩く。
しばらくすると、ルシィの足が止まった。
「……」
「どうしたの?」
「契約者」
「うん?」
「これって」
ルシィは少しだけ考えてから、尋ねた。
「……楽しいか?」
「何が?」
「一緒に帰るの」
「うん」
奏は即答した。
「楽しいよ」
「……そうか」
ルシィは前を向いた。
「なら、契約としては成功だな」
「うん」
「僕の営業成績も上がる」
「そうなの?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
奏が笑う。
ルシィも小さく笑った。
そのとき。
ポケットの中の社員証が突然、光った。
「ん?」
ルシィが取り出す。
そこには魔界からの新しい通知が表示されていた。
『契約更新のお知らせ』
「……」
ルシィの顔が引きつる。
「どうしたの?」
「……契約者」
「なに?」
「僕、昇進したかもしれない」
「えっ、本当?」
「違う」
「違うの?」
「たぶん……」
ルシィは通知を読み上げる。
「『高橋奏担当として、長期契約を検討する』」
「……」
「……」
二人で顔を見合わせる。
「ルシィ」
「何だ」
「よかったね」
「全然よくない!」
ルシィは叫んだ。
「長期契約になったら、僕、ずっと人間界担当になるじゃないか!」
「嫌なの?」
「……」
ルシィは黙った。
少しだけ考えて。
「……残業がなければ」
「そこなんだ」
奏は笑った。
ルシィはむすっとしながら、歩き出す。
「とにかく今日は帰る!」
「うん」
「明日も十六時!」
「うん」
「明後日も!」
「うん」
「……一週間後も」
「うん」
ルシィは少しだけ嬉しそうに笑った。
「……定時までなら、悪くないな」
夕暮れの道に、二人の影が並んで伸びていた。
それから、一週間が過ぎた。
毎日、午後四時。
奏とルシィは一緒に帰った。
肉まんを食べたり、コンビニに寄ったり、学校の話をしたり。
最初は「契約を成立させるため」だったはずなのに。
いつの間にか、それが当たり前になっていた。
そして、一週間目の金曜日。
「今日で契約終了だね」
奏が言った。
「……そうだな」
ルシィの返事は、いつもより小さかった。
「一週間、あっという間だったね」
「……」
ルシィは答えない。
代わりに、ポケットから社員証を取り出した。
そこには、赤い文字で新しい通知が表示されている。
『契約期間満了』
その下には、さらに小さな文字。
『契約終了後、契約者の記憶を消去し、悪魔との接触記録を抹消すること』
「……え?」
奏が覗き込む。
「記憶を消す?」
「……そういう規則なんだ」
ルシィは社員証を握りしめた。
「人間が悪魔との契約を覚えたままだと、いろいろ面倒だからな」
「じゃあ……」
奏は少し黙った。
「明日から、ルシィのこと忘れるの?」
「そうなる」
「……そっか」
奏は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「ルシィは?」
「僕は覚えてる」
「ずるい」
「悪魔だからな」
「……ずるいよ」
ルシィは何も言えなかった。
その日の帰り道。
二人の間には、いつもより長い沈黙があった。
やがて奏が口を開く。
「ルシィ」
「なんだ?」
「私、悪魔になったらどうなるの?」
「……は?」
「悪魔になったら、記憶を消さなくていい?」
「待て」
ルシィの顔から血の気が引いた。
「何を言ってるんだ?」
「だって、それならずっと覚えていられるでしょ?」
「そんな簡単な話じゃない!」
ルシィは立ち止まった。
「人間が悪魔になるってことは、人間としての生活を捨てるってことだぞ」
「学校も?」
「行けなくなる」
「家族も?」
「……今までと同じには会えない」
「人間の生活も?」
「戻れなくなる」
「そっか」
奏は少し考えた。
そして。
「じゃあ、ルシィはどうするの?」
「僕?」
「私の記憶を消す?」
「……」
ルシィは拳を握った。
「嫌だ」
「え?」
「嫌だよ」
いつもの強気な声ではなかった。
「僕は……奏の記憶を消したくない」
「ルシィ……」
「でも、どうしようもないんだ」
ルシィは俯いた。
「規則だから」
「じゃあ」
奏はルシィの前にしゃがんだ。
小さな悪魔と目を合わせる。
「私が悪魔になる」
「……!」
「そうすればいいんでしょ?」
「ダメだ!」
ルシィが叫んだ。
「僕のためにそんなことするな!」
「ルシィのためだけじゃないよ」
「じゃあ何のためだ!」
奏は少し考える。
「……私が、そうしたいから」
「……」
「私、ルシィといるの楽しかった」
「……」
「一緒に帰るのも、肉まん食べるのも」
「……うん」
「だから、忘れたくない」
ルシィは何も言えなかった。
しばらくして。
「……本当に、後悔しないんだな?」
「うん」
「人間には戻れないぞ」
「分かってる」
「魔界で暮らすことになる」
「うん」
「仕事もするかもしれない」
「それは嫌」
「そこは嫌なのかよ!」
ルシィが思わず叫ぶ。
奏は笑った。
「だって、働くなら定時がいい」
「……」
ルシィの目が丸くなる。
そして。
「……それなら」
小さく笑った。
「僕の会社に入ればいい」
その夜。
奏はルシィとともに、魔界へ向かった。
黒い魔法陣の向こう。
そこには、人間界とはまったく違う世界が広がっていた。
空は紫色。
街には角の生えた悪魔たちが歩いている。
そして、巨大なビルの入口には。
『魔界第一契約管理株式会社』
という看板が輝いていた。
「ここが……魔界」
「そうだ」
ルシィが胸を張る。
「そして、僕の職場」
「大きいね」
「当然だ!」
しかし、次の瞬間。
ビルから上司らしき悪魔が飛び出してきた。
「ルシフェル!」
「げっ」
「契約期間満了から三時間も経っているぞ!」
「今日はもう勤務終了時間です!」
「人間の契約者を連れてくるとはどういうことだ!」
「違います!」
ルシィが慌てる。
「この子は今日から――」
奏が一歩前に出る。
「悪魔になります」
「……」
上司が奏を見る。
「本人の意思か?」
「はい」
「後悔は?」
「ありません」
「人間界に戻ることはできなくなるぞ」
「分かっています」
上司はしばらく奏を見つめた。
そして、ため息をついた。
「……珍しいな」
「何が?」
「悪魔になりたい人間など、ほとんどいない」
上司は書類を取り出した。
「では、契約を結ぼう」
奏がペンを受け取る。
契約書の最後の欄。
『願い』
奏は少しだけ考えた。
そして、ゆっくり書いた。
『ルシィと、これからも一緒にいたい』
魔法陣が輝く。
黒い光が奏を包んだ。
その瞬間。
奏の頭に、小さな角が現れた。
背中には、黒い翼。
そして瞳が、ほんの少し赤く染まる。
ルシィは呆然と見つめた。
「……奏」
「なに?」
「……悪魔になったな」
「うん」
「本当に……」
ルシィは顔を伏せた。
「……僕のせいじゃないからな」
「分かってる」
「後悔するなよ」
「しないよ」
奏は笑った。
「だって、これからも一緒に帰れるんでしょ?」
「……」
ルシィは顔を上げる。
「もちろん」
そして社員証を二枚取り出した。
一枚には、
『営業部 ルシフェル』
もう一枚には、
『新人悪魔 高橋奏』
と書かれていた。
「……新人?」
「今日から社員だ」
「学生じゃなくて?」
「悪魔だからな」
「そっか」
奏は社員証を眺める。
そして裏側を見る。
『勤務時間 9:00~17:00』
「……」
「どうした?」
「ルシィ」
「なんだ?」
「定時、十七時なんだけど」
「……」
ルシィが固まった。
「……え?」
「私、十七時まで働くの?」
「……」
数秒後。
「上司ぃぃぃぃぃ!」
魔界中に、ルシィの悲鳴が響き渡った。
その日から。
魔界には、定時退勤を何より愛する悪魔が二人になった。
そして毎日午後四時。
仕事を終えた二人は、魔界のコンビニへ向かう。
「今日は肉まん二つね」
「一つでいいだろ」
「半分こするから二つ」
「……それもそうか」
「明日は何味にする?」
「僕は普通の肉まん」
「じゃあ私はあんまん」
「なんでだよ!」
そんな声が、魔界の夕暮れに響いていた。




