第七話 残滓
次の朝、カイルは目を覚ました。
「……ママ?」
「ああ、カイル。良かったわ。気分はどうなの?」
「お腹すいた。お菓子が食べたい」
セレナが泣き笑いをしながらカイルを抱きしめる。
「えぇ、元気になったら、いくらでもあげるわ」
周りの様子が不思議なのだろう。
カイルはきょとんとした顔で辺りを見回した。
「お姉ちゃんは誰?」
無邪気な蒼い瞳がこちらを見つめる。
アウレリアはそばに寄り、静かに膝を折った。
「アメリア・ルシアと申します。カイル様」
「カイル、アメリア嬢のお陰で元気になったのよ。お礼を言いなさい」
「そうなの? ありがとう、お姉ちゃん」
あどけない笑顔。
決意が、少しだけ揺らぐ。
「……お礼には及びません。早いご回復をお祈りしています」
「アメリアさん、本当にありがとう。なんとお礼を言ったら良いか」
セレナがアウレリアの手を取る。
その瞬間、胸の奥にかすかな既視感が走った。
――ありがとう、アウレリア! 貴女のおかげよ。
――セレナの為だもの。当然じゃない。
あの頃と同じ、温かさ。
セレナもまた、わずかに目を瞬かせていた。
お互いにまだ知らない。
同じ違和感を抱いていることを。
アルフェン夫妻は、快癒を祝う催しを開きたいと申し出た。
レオニスは莫大な報酬を用意しようとしたが、過分であると丁重に辞退する。
だが――問題は終わっていない。
カイルに触れた瞬間、分かっていた。
これはただの発熱ではない。
魔力が乱れている。
アルフェン家の血は強い。
幼い体は、まだそれを制御しきれない。
肉体が魔力についていかず、病のような症状として現れる。
前回、熱が下がったのは薬だけの効果ではない。
ほんの少し、魔力を込めた。
アウレリアが特別だったのは、剣と魔力量だけではない。
魔力の純度。
混じり気のない澄んだ力は、触れれば自然と整える。
だがそれは一時的な安定にすぎない。
原因は、外にある。
あの時、ステラ・ノクティスがわずかに震えた。
気のせいではなかった。
十年前と同じ。
国境の結界に、綻びが生じている。
アルフェン家の屋敷は、その変化をいち早く察知できる場所にある。
敏感な子供だからこそ、小さな乱れの影響を受けてしまう。
この綻びが、カイルの魔力を刺激していたのだ。
修復しなければならない。
しかし――今の自分では、魔力が足りない。
とりあえず、カイルには自分の魔力を馴染ませた。
しばらくは時間を稼げるはずだ。
それでも、再び症状が出る可能性は高い。
お兄様に伝えるべきか。
いや、できるはずがない。
仮に名乗ったとして、信じてもらえる保証もない。
私は――十年前に死んだ英雄なのだから。
屋敷の広い庭を横切り、門へ向かう。
これ以上ここにいてはいけない。
そう思った、その時。
足が止まる。
視線が吸い寄せられる。
大きなクスノキの下。
淡い金色の髪。
木漏れ日の中で本を読む姿。
星を見るのが好きで、夜更かしをして叱られていた。
リオとよく喧嘩をしていた。
剣より勉強が好きだと泣いていた。
泣き虫で、賢くて、優しい弟。
十年前も、あの木の下で一日中本を読んでいた。
「ルーカス……」
目の前にいるのは、幼い弟ではない。
背は伸び、面差しも大人びている。
それでも、すぐに分かった。
胸の奥が、静かに軋む。
そのとき。
ルーカスがふと顔を上げた。
視線が合う。
一瞬。
何かに気づいたように、彼の瞳が揺れる。
近づけば、声をかけられる距離。
名乗れば――すべてが変わる。
アウレリアは視線を外した。
そして、歩き出す。
背後で、砂を踏む音がした。
追ってくる気配。
呼び止められる予感。
けれど、振り返らない。
振り返れば、戻れなくなる。
結界はまだ揺れている。
止まっている時間など、ない。




