第十三話 星護の森の異変
全力で走って十五分。
到着した頃には、辺りはすでに薄暗くなっていた。
息が切れている。
だが、休んでいる暇はない。
魔力の乏しい体は、体力まで以前とは違うことを実感させられる。
だが――
やはり、気配が違う。
アウレリアは森へ一歩足を踏み入れ、魔力が澱んでいることに気づいた。
見た目は普段と変わらない、美しい森。
それなのに、妙に不気味だった。
風が木々を揺らす音だけが響く。
いつも感じるはずの動物たちの気配が、まるでない。
まるで――
森の生き物すべてが姿を消してしまったかのようだった。
その時。
森の奥から、人の悲鳴のような声が聞こえた。
アウレリアは迷わず駆け出す。
枝を飛び越え、根を踏み、軽い身のこなしで森を走る。
先程よりも体が軽い気がする。
近づくにつれて、血の臭いが濃くなっていく。
ミシミシと、木の倒れる音がした。
やがて辿り着いた場所は、大混乱だった。
逃げ惑う者。
怪我をして動けない者。
恐怖でその場にうずくまる者。
もしアウレリアがただの娘だったなら、卒倒していたかもしれない。
悲鳴が耳をつんざく。
兵士たちが戦っている。
しかし、まるで歯が立っていないようだった。
「助けてくれ!」
獣の影が迫る。
アウレリアは素早く兵士を助け起こし、安全そうな岩の陰へ運んだ。
兵士はすでに気を失っていた。
怪我はしているが、致命傷ではない。
その時。
雲の切れ間から、月明かりが差し込んだ。
その光が、獣の姿を浮かび上がらせる。
夜のように黒い毛。
星のように光る瞳。
牙が青白く輝く巨大な狼。
「星牙狼……?」
「よく知っているじゃないか」
感心したような低い声がした。
驚いて振り返ると、そこには五十歳手前ほどに見える男性が身を潜めていた。
少し長めの黒髪は白髪が混じり、やや乱れている。
黒いローブを身に纏い、知的で上品な雰囲気を漂わせていた。
切れ長の瞳が、銀縁の眼鏡の奥からこちらを見ている。
「……あの、貴方は」
「エリアス・ヴァレンティスだ。幻獣学者をしている」
「……はあ」
よく見ると、大きな鞄を背負っていた。
何が詰まっているのか、はち切れそうだ。
「随分と冷静ですね」
「慌てていては、好転する事態もしなくなるだろう」
もっともな話だった。
「お前こそ、こんな森の中で何をしている。研究者の私と違って、若い娘が好んで入る場所でもないだろう」
「少し事情があるんです」
アウレリアは、なおも周囲をうろつく狼の様子を窺った。
「狼は鼻が良いはず。気づかれるのも時間の問題では?」
「ここは大丈夫だ。あれを見ろ」
ヴァレンティスが指差した先には、紫色の小さな花が咲いていた。
アウレリアにも見覚えがある。
「匿香花」
「ああ。人には香らないが、動物には強烈な香りを放つ。私たちの臭いも掻き消しているはずだ」
ヴァレンティスは淡々と言った。
「その花を身につけて森を抜けろ。私もいざとなればそうする」
アウレリアは花を摘むと、胸元にしまった。
そして――
星牙狼を見据える。
その瞳が、わずかに赤く濁っていることに気づく。
(……おかしい)
本来、星牙狼は人を襲うような幻獣ではない。
「おい、何を考えている? 出口は逆だぞ」
「大丈夫です」
アウレリアはにっこり笑った。
「今日は調子が良いんです」
その手には、輝きを失ったステラ・ノクティス。
「その剣は……」
ヴァレンティスが小さく呟く。
銀縁の眼鏡の奥で、瞳が細くなった。
「妙だな……」
月明かりの下。
巨大な狼。
華奢な少女が、剣を携え跳躍する。
それは――
まるで物語の一節のようだった。
星牙狼が低く唸り、地面を蹴った。
巨体とは思えない速さで黒い影が迫る。
土が弾け、鋭い牙が月光を反射する。
だがアウレリアは逃げない。
むしろ、一歩踏み込んだ。
牙が頬のすぐ横を掠める。
その刹那。
ステラ・ノクティスが静かに振るわれた。
銀色の軌跡が夜の空気を裂く。
次の瞬間。
狼の動きが止まった。
何が起きたのか、誰にも分からなかった。
数歩進んだ巨体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
ドサリ、と重い音が森に響いた。
星牙狼は動かない。
アウレリアは剣を軽く振り、血を払った。
「やっぱり……」
小さく呟く。
「今日は調子が良いみたい」
その様子を、ヴァレンティスは岩陰からじっと見ていた。
しばらくして、ぽつりと呟く。
「……なるほど」
銀縁の眼鏡の奥で、瞳が細くなる。
「面白い娘だ」
森には再び静けさが戻った。
だが――
森の奥からは、まだ魔力の澱みが消えていなかった。
まるで
何かが目覚めつつあるかのように。




